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昔むかし、日本は人種の坩堝だった? [日本人・日本文化]

昔むかし、日本は人種の坩堝だった?

ノルウェーの探検家・人類学者のトール・ヘイエルダールさんが1947年に、上の絵のような、いかだ舟コンティキ号(Kontiki)によって、南米からポリネシアまでの約7千キロにわたる太平洋横断航海して世界から脚光を浴びたことがあります。
でも本当に、こんな筏で、7,000キロも漂流したんでしょうか?嵐に出会ったらひとたまりも無く、粉々に分解してしまいそうにみえますねェ。でも、何とか無事に航海を果たしました。

彼は1936年に調査のためにマルキーズ諸島を訪れた際、ポリネシア人の起源が西方にあるとの定説に疑問を抱き、南米から移住してきた可能性があると提起しました。自説を実証するために南米のインディオが用いたバルサ材のいかだを復元し、コンティキ号と名づけ漂流実験を行なったんですね。そして、見事実証しました。

このことからも分かるように、古代人は私たちが考える以上に海のハイウエイを頻繁に利用していたんですね。マヤ人が、太平洋を島伝いに航海して、インドネシアに漂着したということも、決して不可能ではありません。また、バリ島から黒潮に乗って日本へやってくることも十分に考えられます。

マスコットガールの卑弥子がご案内いたします。


主な潮流 (Major Ocean Currents)
1 - Gulf stream
3 - Laborador current
7 - North equatorial current
8 - North equatorial counter current
9 - South equatorial current
10 - South equatorial counter current
11 - Equatorial counter current
12 - Kuroshio current
14 - Alaska current
16 - California current

上の地図で見るとおり、海にはたくさんのハイウエイが走っているんですね。7号ハイウェイの北赤道海流に乗ると、これは黒潮と合流して間違いなく日本へ着いてしまいます。また中国沿岸沿いにも海流が日本を目指して流れていて、このハイウェイに乗ってやってきたのが、例の鉄砲を日本へもたらしたポルトガル船だったというわけです。

海洋民族は、風の吹く方向、雲の動き、海面の波の様子、鳥の飛行状態、漂流物、海水の色、匂い、透明度などから、これらの海のハイウエイを的確に見出して航海するといわれています。私たちがちょうど地図を見てナビゲートしながら高速道路を通って目的地へ行くようなものです。海にあまりなじみの無い生活をしている現代人には、想像もつかないほど、彼らは、この海のハイウエイを利用して、交易や、文化の交流を深めていたようです。

原日本人南方起源説

卑弥子さんが説明してくれたような理由で、この学説を主張する研究者がかなりいますが、それも上のような説明を聞くと納得が行きます。
しかし日本人の起源を調べてゆくと、それほど単純に決め付けることが出来ないのですね。
南方だけ見ていたのでは分からないことがたくさんあるんです。私たちが、毎日使っているこの日本語の中に古代、日本が人種の坩堝であった証拠が隠されているのです。
では日本語の起源をたどると、どういうことになっているのでしょうか?

ということで現在までにいろいろと出揃った学説を大きく分けてみると、およそ次の3つの分野に分かれて研究が進められてきたようです。

1.) 起源説:ある言語とその起源を同じくしている。
  
 A.) 北方起源説

     一番有力なのがウラル・アルタイ語です。
     韓国・朝鮮語は、言語タイプでいうと
     膠着語(助動詞や助詞が名詞・動詞・形容詞
     などの自立語のあとに、膠でくっつけたように
     貼り付けられる)であり、モンゴル語、トルコ語、
     満州語などと共にウラル・アルタイ語族を
     形成しています。

     語頭に重子音がこない、文法上の性がない、
     冠詞がない、前置詞ではなく後置詞を用いる、
     疑問文では文末に疑問の助詞がくる、
     などの共通点があります。      

     これが定説のようになっています。
     これには理由があります。
     新村出や金田一京助などの超大物が
     基本的に受け継いだ学説であるためです。      

     金田一京介はこう述べています。
     「文法がほぼ一致する上に、
     音韻組織にも重要な共通点があるとすれば、
     この上は、語彙の確実な一致さえ見出される
     ならば、国語はアルタイ語族に属することが
     実証されるわけである」      

     ところが、この「語彙の一致」が見出されないのです。
     さらに、現在では、ウラル語とアルタイ語を
     一まとめにする立場も保留されており、
     アルタイ語族そのものの成立も疑われてます。
     
 B.) 南方起源説     

     これが、このサブタイトルに掲げた
     原日本人南方起源説です。
     いわゆるオーストロネシア語(南方諸島の
     言葉)が日本語の起源であるとする学説です。
     これは、先ほどの卑弥子さんの説明からも
     十分に可能性があります。

     つまり、筏や丸木舟に乗ってやってきた南方人
     によって彼らの言葉ももたらされたというわけです。    
     また、奇抜な学説ではインドのタミル語が
     日本語の起源ではないかという説もあります。

     今のところ、日本語との間に規則的な音声対応が
     成立し、姉妹関係にあるのがわかっているのは
     琉球語だけだということです。

2.) 重層論:ある地域の言語に別の地域の
         言語が積み重なった。

 A.) 二重層説

     基層となる言語の上に、あとからきた言語が重なって
     上層となり、両者が混合(たとえば、
     基層語の文法の上に上層語の語彙がはめ込まれた)
     して現代日本語の源ができあがったという説です。

     これには「南方語の上に北方語」というパターンと、
     その逆とがあります。
     前者は、ロシアの言語学者ポリバーノフが
     「日本語は南方的的要素と西の大陸的な
     朝鮮語(および他の東アジアの大陸の
     アルタイ的諸言語)との共通の要素との混合
     である」と1924年に唱えたことから
     注目されるようになりました。

     この説によると、縄文時代には琉球から九州、
     西南日本にかけて南東系の言語が使われていたが、
     縄文晩期か弥生初期に朝鮮半島経由で
     アルタイ・ツングース的な言語が九州に渡来し、
     しだいに骨格である文法は北方系、中身の語彙は
     南方系である原始日本語が生まれたというのです。

     これに対して、全く逆パターンの説では、
     「日本列島には縄文時代の末期、
     アルタイ語的な言語が話されていた。
     そこへ優れた稲作文化を担った南島語族が
     オーストロネシア語をもたらした」と述べています。   

     いまのところ、どちらが基層語かの決め手は
     ないようです。
  
 B.) 多重層説

    この説は次のように主張するものです。

    i) 日本語・朝鮮語・アイヌ語の母胎となる
      「古極東アジア語」があった。

    ii) 6000年ないし7000年前に
      インドネシア・カンボジア系の言語が流入した。

    iii) 紀元2、3世紀に、稲作とともに中国の
       江南地方からビルマ系の言語が流入した。

    iv) 紀元前後から、現代まで中国語が影響を
       及ぼしてきた。

    この説は人類学・考古学の定説と矛盾するのが
    問題とされており、今のところ受け入れられて
    いないようです。      

    考古学上の定説に従うと、日本列島には
    縄文時代の1万数千年にわたり、アイヌ人を含む
    南方モンゴロイド系の縄文人が住んでいました。
    紀元前200ないし300年ごろ、
    北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたのです。
    この考え方と矛盾するわけです。      

    もちろん、この考古学上の定説といわれて
    いるものも絶対ではありません。
    最近では諸説入り乱れており、
    考古学上の新説が迎えられれば、
    当然のこととしてこの多重層説も
    見直されるでしょう。

3.) 国内形成論:縄文時代の言語から原日本語とも
            いうべき弥生語が出来上がった。
   
 A.) 邪馬台国が言語でも畿内方言を制服した。
     北九州に発生した邪馬台国の言語の
     担い手が東進し、畿内方言を制服して
     日本祖語を形成した、というものです。

     しかし、外来民族の渡来を考慮していないために、
     この説はあまり受け入れられていないようです。

 B.) 「本土縄文語」と「琉球縄文語」
     これに対し、渡来人の存在とその影響を
     肯定しつつも、縄文語の有力な方言の
     一つから弥生語が形成されたという説もあります。
     縄文語の北九州方言が渡来人の言語の
     影響を受けて弥生語となった、
     と考えているわけです。      

     九州・関西・関東・東北の方言から
     「本土縄文語」を、奄美・沖縄・宮古・
     八重山の方言から「琉球縄文語」を復元し、
     両者の比較から「原縄文語」を再構成しようと
     試みています。   

母音について振り返ってみると。。。

『いろは51文字に隠された秘密』で説明したように、昔の日本人は2重母音を現在よりも頻繁に使っていました。一体どこから入ってきて、なぜ、現在あまり使われなくなったのだろうか?

しかしこの疑問に答えることはさして難しいことではないのです。というのは、お隣の国の朝鮮語を考えてみれば、大体回答をつかむことができるのです。日本古代史の本をめくって見ずとも、弥生時代以後、朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来たことは歴史的な事実として多くの人の認めるところです。

しかし、「朝鮮」と言う時、人によっては、この言葉を差別用語と考える人が居るかも知れません。確かに、両国が常に仲がよかったというわけではありませんでした。朝鮮人に対する差別ということもありました。関東大震災の時に、朝鮮人が大量に虐殺されたことなどは、その一例です。

このような問題は非常に重要なことですが、しかし、ここでは言語について考え、そのような問題は別のページで取り上げたいと思います。

いずれにしても、地理的に見て、朝鮮半島と日本の関係は先史時代から切っても切れない関係にありました。昔は、朝鮮半島と日本は、文字どうり陸続きで結びついていたわけです。そういうわけで、朝鮮半島の文物は、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えてきました。このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然なことです。

例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように書かれています。しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドウ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法があって、古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記していたのです。

したがって、日本の万葉仮名はこの吏読からヒントを得て作られたと考えたほうが自然です。万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。このため現代の国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。しかし、韓国人が万葉集を読むと、日本の専門家でなければ区別できない甲類と乙類を、一般の人でもごく簡単に区別することができるそうです。

実際、研究者の中には、古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、現在の韓国のように、さらに3つの異なる母音「イエオ」があったのではないか、と考えている人たちもいます。

現在の韓国語には10種類の単母音と、2つ以上の母音が合成されてできた複合母音が11種類あります。古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。古代日本語は古代朝鮮語から強い影響を強く受けていましたから、たくさんの母音があったとしても不思議ではありません。実際、前のページで見たように、確かに現在よりも多くの母音があったわけです。

どうして今に残ってないの?

日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの血が交じり合ってできあがった民族です。このことは、上で述べた日本語の起源を探る研究からもよく分かります。

要するに、『日本語』というのは、その起源を探るだけでも簡単にかたずかないわけです。それはなぜかといえば、地図の上で見るとこれ程狭いちっぽけな日本にも、先史時代あるいは古代を通して、いろいろな土地からさまざまな人間が渡ってきたからです。

当時の日本列島は19世紀から20世紀にかけて、新大陸のアメリカを目指して、ヨーロッパから続々と移民が押し寄せて行ったように、いわば人間の掃き溜めのようになっていた観がありました。そのよい例が、滅んだ呉からやって来た人たちです。

呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。

隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。必ず戦乱がつき物です。すると、当然のことながら難民が出ます。これは何も、古代にかぎったことではありません。ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?

サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。

それで結論は?

したがってどういうことが言えるかというと、この当時の日本では、もうさまざまな言語や方言が混在していたのです。しかも、ペルシャ人やユダヤ人までがやって来ていました。このように言うと、論理の飛躍じゃないかと思われるかもしれません。そのように思われる人のために、特別なページを用意したので読んでください。

■ 飛鳥とシルクロード
■ ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た
■ 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話
■ 聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた

古代においては、朝鮮半島の影響は言語学的にも非常に強いものがあります。しかし、その影響力を撥ね退けるほどの言葉や、方言の混在を考えない限り、今日のように日本語に母音が少なくなったのかどうしてなのか?を説明することができません。

中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違うので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に変わっていったと考えられます。つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられるわけです。現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音です。言語や方言を異にするさまざま人たちの共通母音になったわけです。

現在、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

名古屋地方の人たちが、「野球でもやるきゃぁ」とか「宿題やるみゃぁ」と言うのも、昔使われたヤ行の2重母音が現在に残っている例です。

また、母音の例ではありませんが、東北地方の田舎に行くと、まれには聞くことがあります。「おら、東京さいぐだ」

これは文章中の清音が濁音になる例です。この方言とよく似た発音が韓国語、特に、古代の新羅に当る朝鮮半島南東部の慶尚道地方の方言に現存しています。これなどは、奈良時代にはもっと広い地域で多くの人によって、このように話されていたのでしょう。「おら、都さいぐだ」

しかし、他からやって来た人たちの耳には、ちょっとばかり、いただけない発音だったのでしょう。そんなわけで、だんだんと廃れていって、東北地方だけに残るようになったようです。


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『古代日本は人種の坩堝だった?』


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