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恋愛と言論の自由 [言論の自由・表現の自由・報道の自由]

恋愛と言論の自由


その頃の私はどちらかと言えば堅過ぎる位真面目な考えを持っていました。でも15歳の時お友達の家で学生に抱かれてからガラリと気持が変って不良になり浅草で遊び暮すようになったのです。

その頃、毎日お友達の福島ミナ子さんの家へ遊びに行きました。やはり、そこに遊びに来た福島さんの兄さんの友達で慶応の学生さんと知合いました。私はその人と懇意になり二階でふざけて居るうち、その学生さんに関係されてしまいました。その時大変痛みがあり、二日位出血したので驚いてしまいました。これで自分は娘でなくなったと思うと何だか怖ろしくなって母に話さずにいられなくなったのです。

その後その学生さんと会ったので自分はこの間の事を話しました。“あなたも親に話して下さい”と言ったところ、その学生さんはその後福島さんに寄りつかなくなり、母がその学生さんのところへ行っても会ってくれず、そのまま泣き寝入りになってしまいました。

当時、その学生さんに遊ばれただけだと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、このような事を隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もうお嫁に行けないのだとまで思ひ詰め、ヤケクソになってしまいました。母は私の様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だから、と慰めてくれました。お前の知らないことを男がしたのだから何でもないと言ってくれたのです。

母に、慰めてもらえば、もらうほど、学生さんに抱かれた事がシャクにさわり、ある日どこかへ行って遊んで来ようと思い、家の金15円程持ち出しました。その頃、私の近所には不良が沢山いて、私の姿を見ると何とか声をかけてはからかいました。でも、それまでは私は振り向きもしませんでした。

ところが、その時は私が不良に声をかけ、今日は気分が悪いから面白い処へ連れて行ってくれと言うと快く連れて行ってくれることになりました。一日中遊び暮し、帰る時金を持ち帰ると悪いと思ったから全部分けてやりました。

丁度和子姉さん夫婦が家出した頃で家の中がゴテゴテしていました。親達は別段私の事を気に止めず母から“随分遅かったね”と言われたのですが、上野の山に行って来たと言ってごまかしていました。金を持ち出して遊びに行き不良仲間におごったり小遣をやったりすると皆からサーチャン、サーチャンと騒がれるので面白くてたまらず、親が余り小言を言わないのをいい事にして段々増長してしまいました。朝は目が覚めても仲々起きず、二階までお膳を運ばせ御飯がすむと直ぐ着換えては浅草へ遊びに出かけました。金竜館などで一日遊び暮しては夜9時頃でなければ帰りませんでした。

ある時、金を一掴み持ち出し外で勘定すると60円もあったので怖ろしくて震え上り、返そうと思って戻りましたが職人が居たので、そのまま使ってしまったことがありました。このようにして一年位不良仲間に入っていましたが、和子姉さんは家出してから亭主と別れて家に戻って居るうち、和子姉さんが近所の職人を情夫に持つ様な不行儀な事があり、私もそれを知っていたので親達が叱ると「姉さんだって」と言うものですから親は黙って居りました。

それに今考へて見ると、父は外出がちでした。外で私が晴気姿で遊びに出るところを見ても知らぬ顔をするという可愛がり方でしたから益々増長したと思います。それでも、たまには父が怒って二階の私の寝間を釘付けにしたり晴着を風呂敷に包み物置へ投げ込んだりしましたが、私は隣の小母さんを呼んで窓から屋根伝ひに外出したり、職人に着物を取り出させたりして、遊びに出かけておりました。

私の不良仲間は男は10人位、女は2人位あり大抵は浅草で待っており、小遣をたかられながらイイ気持ちで遊びましたが性的関係はなく、一夏鎌倉で遊んだ時20歳位の男2人と一度関係しただけでした。

16歳の四月、その頃和子姉さんに嫁の話があり私が不良になったので呆れたためもあると思いますが、私が姉の不行跡を口外してその妨げになるのを恐れたらしく母が私に “今姉さんに縁談があるから姉さんを片付けるためにお前も温和しくして居なければならないから小間使に行け”と言われて芝区聖坂の聖心女学院の前のお屋敷に奉公に出されました。お嬢さん付の女中になりました。

ところが今まで可愛がられて放縦な生活をしていたので、窮屈でたまらずその上台所で食事をするので情けなくなり、食事の度に涙が出て淋しい思いをしました。浅草で遊んだ事が忘れられず奉公に来て一月位経った時、無断でお嬢さんの晴着や帯や指輪を身につけ、後で返せば良ひと簡単に考へ浅草に行って金竜館に入りました。すると、そこで捜しに来た姉に会い連れ戻され、この時初めて警察に連れて行かれました。

『自伝・阿部定の生涯 その1』より

デンマンさん、今日は“恋愛と言論の自由”についてお話するのですか?なんだかお堅いお話ですのね?恋愛と言論の自由がどのように関係してくるのですか?

直接の関係はないように見えるでしょう?でもね、言論の自由も恋愛に強烈にかかわっているんですよ。

どういうことですか?

だから、その事について話そうと言うわけですよ。でもね、その前に定さんが思春期をすごした時代を考えてみる必要があるんですよ。

どうしてですか?

時代が違うとね、恋愛の成り行きや結果までが変わってきてしまうと言う事を話したいんですよ。

つまり、時代の風潮が恋愛にも影響を与えると言う事ですか?

そうですよ。普段、恋愛をしている時って、あまりそういうことを考えないけれどね、振り返ってみるとね、。。。と言うかあ~、歴史的に、たとえば、阿部定事件の中で定さんが経験した恋愛を時代の背景を考えながら見直してみるとね、やっぱり時代の風潮が根強く影響を与えていますよ。

でも、“愛のコリーダ”の評論記事の中で大島渚監督が時代背景を考えて、いろいろと言った人たちに対して批判的なことを言っていましたよね。

愛のコリーダ



この作品は「純粋な愛」「真実の愛」を描いたものだと言われてきた。しかし、24年を経てスクリーンを見ても、そこには濃厚な“愛”と“性”と“死”が描かれている。定が欲望のおもむくままに自分の体をむさぼるのをながめる吉蔵の目は、極限のエロスの世界に到達した“死人”の目だ。

二人が閉じこもる旅館の一室に満ちていたのは、初めはエロスであったかもしれないが、途中からエロスの極限を目指す死への欲動にすり替わっていたのではないか?

この作品は、これまでは「軍国主義が台頭する中、社会に背を向け、真実の愛に生きた二人」といった過度に政治的な評論をされてきた。こうした評論に対し、大島監督は「みんな馬鹿ばかりだ」と立腹していたらしい。

意外に男性よりも、多くの女性がこの作品に興味を示したことが取りざたされたが、女性も無関心ではいられない題材を扱っていたのだろう。

『愛のコリーダ 2000年版』より

確かに、レンゲさんの言うとおりですよ。僕が思うには、大島監督だって時代の風潮が定さんと吉蔵さんの恋愛に強い影響を与えている事は当然考えていたと思いますよ。あの映画の脚本も大島監督が書いたているんですよ。時代背景も当然考慮に入れていますよ。

だったら、大島監督はそれほど腹を立てる必要はなかったのじゃあありませんか?

大島監督が腹立たしく思ったのは、時代はあくまでも背景であって、映画の主題ではないと言うことでしょう。それにもかかわらず、“軍国主義が台頭する中、社会に背を向け”て愛し合う二人。。。そのように考えられる事は大島監督が望んでいた事ではないでしょう。

。。。で、一体何を望んでいたのですか?

あの映画は政治的なことはどうでもいいわけですよ。それにもかかわらず、軍国主義がどうのこうのと言われる事が監督はたまらなかったんだと思いますよ。つまり、主題はあくまでも“愛のコリーダ”なんですよ。“反軍国主義”じゃないんですよ。政治は背景の一部なんですよ。それにもかかわらず、映画評論家が知ったような口をきいて政治を映画の主題として盛り込んでしまう。そういう評論家の勝手が監督にはたまらなかったと思いますよ。

でも、デンマンさんは、時代的背景もきわめて重要だとおっしゃるのですか?

その通りですよ。映画監督には映画監督の考え方があるでしょう。政治評論家はあの映画を政治的に見るでしょうね。だから、“軍国主義が台頭する中、社会に背を向け”て二人が愛し合った、と考えたって不思議ではないですよ。映画評論家だって、勝手な事を言って原稿を書いて金をもらっているわけだから、何も監督のことだけを考える必要はない。評論を読んでくれる人のために面白く書く必要がありますよ。

それで、デンマンさんは。。。?

僕は歴史馬鹿だから、当然あの映画を歴史的な観点から眺めますよ。

そういうわけで時代背景に注目するわけですか?

そういうことですよ。映画は作られたら、監督の手を離れて独り歩きを始めますからね。だから、何を言われようが監督が腹を立ててガタガタ言う性質のものではないですよ。“ああ、そうですか?そういう見方もあるのですか?” そう答えるのが頭のいい監督でしょうね?

つまり、腹を立てた大島監督はオツムが足りないと。。。?

あれがあの人の性格でしょう?あまりオツムとは関係ないでしょうね。うへへへ。。。

それで、定さんの思春期の頃の時代背景というのは。。。?

定さんが処女を失う事になった15才の年というのは1920年(大正9年)なんですよ。つまり、大正デモクラシーの真っ只中というわけです。

定さんは、大正デモクラシーの享楽的な都市文化の中で慶大生に抱かれて桜の花びらを散らす事になったと言うわけですの?

レンゲさんも僕も時代の落とし子ですからね。その育った時代を無視する事はできませんよ。だから、定さんが思春期を大正デモクラシーの中で過ごした、ということも無視できません。軍国主義が華やかだった頃なら、学徒出陣を控えて、その慶大生は定さんの処女を奪うというような不謹慎な真似はしなかったかもしれませんよ。

大正デモクラシー

大正時代におこった民主主義を要求する思想と運動。

皇室を憚(はばか)って、大正民主主義とは言わなかった。

都市中間層の政治的自覚、世界的なデモクラシーの発展、ロシア革命などを背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して、護憲運動・普通選挙運動が展開された。

第1次護憲運動(1912年)から始まり、政党内閣制と普通選挙の実現を主張する吉野作造の民本主義理論に代表される。

広くは、この時期の労働運動・農民運動・社会主義運動などもふくめるが、第2次護憲運動(1924年)で普選運動の政治目標が達成されてからはおとろえた。



大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られた。

「エロ・グロ・ナンセンス」こそが、人間の想像力を豊かにして、困難な現実にも道を間違わずに生きてゆく力を養ってくれるのではないか、と考える人たちも出てきた。

「エロ・グロ・ナンセンス」を「闇」ととらえ、「闇」があるから「光」があるのであって、「闇」をなくしてしまえば「光」もまた消えてしまう、という考え方が受け入れられた。

つまり、定さんは意識してはいなかったけれども、享楽的な都市文化の影響を受けていたという事ですか?

そうですよ。調書を読むと、定さんが不良と遊び歩いた事が書いてありますが、まさに、その中に僕は“享楽的な都市文化”の匂いを感じ取る事ができましたよ。定さんも、その文化に影響を受けていたんです。しかも、レンゲさんが“クラブ・オアシス”でナンバーワンになった頃のホステス時代と良く似ていると思いましたね。

要するに、あたしがホステスをしていた頃も、言ってみれば、定さんのようにあたしが“享楽的な都市文化”に浮かれていたのだと。。。?

僕は、調書を読みながら、そんな風に定さんに重ねてレンゲさんのことを想像していましたよ。

“歴史は繰り返す”とおっしゃりたいのですか?

そう言う事になりますね。あの時代と現在の日本は似ていますよ。大正デモクラシーの後に来るものはファシズムと軍国主義ですけれどね、最近の日本はネオ・ナショナリズムに向かっているという歴史学者も居るほどですよ。

つまり、軍国主義ですか?

第二次大戦当時のような馬鹿な時代はもう来ませんが(たぶん)、考え方が国粋的になっている事は否定できませんよ。小泉純ちゃんが羽織袴をはいて靖国神社に公用車で参拝するなんていうことは、どう考えてもネオ・ナショナリズム的ですよね。そう思いませんか?

もし、。。。つうかああああ。。。歴史に“もし”はないでしょうけれど。。。もし定さんと吉蔵さんが1936(昭和11)年ではなく、たとえば、8年後、軍国主義一色に染まっていた1944(昭和19)年5月18日に事件が起きていたら、定さんはどうなっていました?

間違いなく死刑になっていたでしょうね。

まさかぁ~

その“まさか”が、軍国主義の時代には当たり前のように頻繁に起こったんですよ。非常に興味深い事件が1944年に起きています。軍国主義になると、人間の命が一部の軍人によって将棋の駒(こま)のように軽々しく扱われるという、いい例ですよ。ちょっと長くなるけれど、“竹やり事件”の顛末をここに引用します。

竹ヤリ事件



太平洋戦争下で唯一といってよい言論抵抗事件がありました。1944(昭和19)年2月23日の『毎日』新聞の竹ヤリ事件というのがこれです。

この記事を書いたのは37歳の新名丈夫記者でした。「竹やりなんかでアメリカに徹底抗戦なんてどうかしている」と言うような趣旨の事を書いてしまったんですね。もちろん、覚悟して書いたんです。うっかりして書いてしまったわけではないんです。

でも、当時の東条英機首相はこれを読んで激怒した。それで、頭にきたものですから、できれば書いた記者を死刑にしたい。でもいくらなんでもそんな無茶な事は出来ませんから、赤紙で徴兵して南方戦線に送り込もうとしたわけです。当時の常識として、南方戦線に送り込まれれば生きて帰れないということが分かっていました。つまり事実上の「死刑」です。いづれにしても、無茶な事をしたんですね。

当時軍部と帝国政府に真っ向から反対すれば、このような仕打ちが待っていたんです。だから、分かっていた人もおとなしく黙っていた。でも、新名記者はメディア人としての良識を持っていたわけです。アメリカを例に取れば、あのニクソン大統領を退陣に追い込む事になったウォーターゲート事件を暴露したワシントンポスト記者のボブ・ウッドワード(Bob Woodward)のような人だったわけです。

最近、命を懸けて記事を書くような新聞記者が日本にはいなくなりましたね。残念です。

この記事が発表された頃には、もう戦局は悪化していました。問題の記事が発表された前年、1943(昭和18)年には、まず2月、ガダルカナル島で日本軍の撤退が開始されました。これを契機に、米軍は一挙に攻勢に転じたわけです。以後、5月にアッツ玉砕、11月にはマキン・タラワ全滅と戦局は日々悪化していきました。44年二月十七日には「日本の真珠湾」と米軍から呼ばれた作戦の最重要拠点、トラック諸島が米軍の手に落ちてしまいました。

軍部でも、帝国政府でも太平洋戦争の敗北はすでに決定的となったと考える人がでてきました。しかし国民には「勝った、勝った」という虚偽の情報以外は一切知らされていなかったんですね。そのためにも言論は厳しく統制されたわけです。

新名さんは海軍記者となって以来半年間にわたって主力艦隊に乗り組み、戦況を自分の目で確かめていた。戦況が悪くなっていた事も充分に知っていた。陸海軍が対立し、飛行機生産のためのジュラルミン三十万トンの大部分を陸軍が本土決戦用に抑えて出さないという内幕もキャッチしていたほどです。

マーシャル陥落の発表を大本営が20日間もためらって大騒動を演じているのを見た新名記者は決意を固め、一大プレスキャンペーンを社に上申しました。メディア人としての良識です。「日本の破滅が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の醜い相克を知りません。今こそわれわれ言論機関が立ち上がるほかはありません」
そのように便せんに書いて、吉岡文六編集局長に上申したのでした。
「よし、何とかして国民に知らせるほかない」と決意した吉岡局長は社外の大物に書かせようと、まず元中国駐劉大使・本多熊太郎氏に交渉しました。しかし、「検閲があっては書けない」と断わられてしまいました。

結局、編集会議の結果、新名さんが指名されました。当時の記事は、もちろん検閲を受けなければならなかったのです。しかし、海軍担当の新名記者が執筆したものは海軍省の検閲だけでよく、各社のキャップの書くものは無検閲でよいという紳士協定になっており、その特典を利用したのです。

「書けば東条から懲罰召集を喰らうかも知れない。社もつぶされるかも知れない。殺されるかも知れない」
新名記者は悲壮な覚悟で執筆したのでした。実際、その通りになってしまい、ハチの巣をつついたような騒ぎとなったのです。新名記者は責任を感じ辞表を提出しました。しかし、吉岡局長は突き返し、逆に金一封の特賞を出したのです。その代わり、三月一日に吉岡局長、加茂勝雄編集次長兼経理部長は責任をとって辞任しました。

しかし、こんなことで東条首相はおさまりません。東条さんは情報局次長村田五郎を呼びつけて「竹ヤリ作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と指示したのです。村田さんは答えました。「廃刊するのはわけありません。紙の配給を止めれば、毎日は明日から出ません。ただし、よくお考えになってはいかがですか。毎日と朝日は、いまの日本の世論を代表しています。その新聞の一つがあのくらいの記事を書いた程度で、廃刊ということになりますと、世間の物議をかもす、ひいては外国から笑われることになるでしょう」

東条首相も馬鹿ではありませんから、この説得が効いたのでしょう。廃刊は引っ込めました。しかし、陸軍からの新名さんへの執拗な処罰要求が出されたのです。そういうわけで、新名記者に対して陸軍から懲罰召集が強行されたわけです。

極度の近視ですでに徴兵検査で兵役免除になっていた37歳の新名さんへの再度の徴兵でした。海軍省は「新名は報道班員としてパラオ派遣が決定しているので、召集を延期されたい」と陸軍省に申し入れたのです。陸軍省はこれを突っぱねました。しかし、海軍も負けてはいられないと大運動を展開して、なんとか召集を解除させたのです。

ところが、陸軍中央から絶対に還すなという厳命がきており再度召集があり、丸亀連隊へ一人だけの中年二等兵の入隊になったのです。これはもう、海軍と陸軍の対立というところまでエスカレートしてしまったわけです。

これに対して海軍が再び抗議しました。「なぜ、中年二等兵が一人だけ入隊するのか?」
陸軍も黙っては居ません。何とかしようという事で、新名さんと同じく大正生まれの兵役免除者250人を召集したのです。つじっまを合わせたわけですね。「新名記者憎し」の陸軍の執念はすごかった。

さらに、陸軍中央は新名さんを最激戦地の沖縄、硫黄島方面の部隊へ転属させろと厳命してきたのです。やることが汚いです。生きて帰さぬ方針を取ったわけです。こうなると、もう、無茶苦茶ですね。

しかし、陸軍の思い通りには行きませんでした。3ヵ月がたち、結局新名さんは他の戦友と除隊になりました。丸亀連隊報道部の香川進大将は 「この召集は東条大将の厳命だったんだよ。新名は絶対に還すな、重労働を課せとね。海軍や軍令部からもなんども人がきた。われわれは自分らの正しいと思う判断で君を扱った。善通寺師団司令部でも見て見ぬふりをしてくれた」と除隊の真相を説明したのです。

海軍は直ちに新名さんを報道班員としてフィリピンへ送り、陸軍の再召集を防いだのでした。新名記者がフィリピンに出発した直後、新名さんのとばつちりを喰らって再召集された丸亀連隊の中年二等兵たち250人は硫黄島に送られ、全員玉砕してしまったのです。全くこれでは、この二百五十人の人たちの魂は泣き切れないでしょうね。ひどいものです。

言論統制から、人の命までが軽々しく一部の人間の思うように処分されてゆく。死ななくても良い人たちまでが、とばっちりを受けて250人もが硫黄島のチリとなって消えてしまう。もし、あなたがこの250人の中に選ばれたとしたらどう思いますか?

『過去の愚かな言論統制の過ちから学ぶ』より

定さんが事件を起こした昭和11年という時代は、大正デモクラシーの享楽的なエロ・グロ・ナンセンスは影を潜(ひそ)めてきた。2月26日未明には象徴的な事件が起きた。半世紀ぶりに降る大雪の中、青年将校が1400人の兵を率いて決起、陸軍省、警視庁などを襲撃占拠した。天皇は激しい怒りとともに彼らを「反乱軍」として鎮圧を望んだ。このことがその後、軍部に抵抗するとこうしたテロに襲われるかも知れないという威嚇の力になって、後の太平洋戦争へ導く重要な役割を果たすことになった。

つまり、言論統制も、この頃から厳しくなったわけですか?

僕の叔父が言っていたけれど、小学生になった頃、大人たちの会話の中に“にー、にー、ろく”という言葉が耳に残り、父親(僕の祖父)に尋ねたことがあったという。その時僕の祖父は唇に指を当てて言ったそうだ。「大きな声で言うものじゃない」とね。当時の言論統制を受けて詳しい事は世間には知らされなかったという。

軍国主義がこの頃から台頭してきたわけですね。

そうですよ。でもね、定さんの予審調書を読んで裁判の判決を見ると、まだまだ良識が残っていた事が実に良く分かりますよ。定さんは死刑にならず、東京地裁で懲役6年の判決をうけ、栃木刑務所で5年の刑に服した後1941(昭和16)年5月、皇紀2600年を理由に恩赦を受け“吉井昌子(まさこ)”という偽名で出所していますよ。

真珠湾攻撃は昭和16年12月8日でしたよね。定さんは太平洋戦争が起きる7ヶ月前に出所した事になりますね。

そういうことですよ。定さんが事件を起こしたのが昭和11(1936)年の5月18日。第一公判が開かれたのが同じ年の11月25日。

事件から半年後ですね。

そうです。第2回公判が12月8日。懲役6年の判決が下りたのが同年の12月21日です。

ずいぶん早かったのですのね。事件からわずか7ヵ月後ですわ。

予審調書を読んでも分かるように、定さんは全面的に犯罪事実を認めていたんですよ。しかも次にように言っている。

大宮先生がいるから石田の事を馬鹿馬鹿しいと思いのではないかと考えると石田に申訳ないような気もします。
今ではなるべく石田の事を忘れようと骨折っております。
今後この事件の事は口にしたり考えたくないので、出来れば公判とか裁判とか大勢の所で色々の事を聞かれるよりお役所でしかるべく相談して刑を定めて下さい。
不服は言わず快くその刑を受けるつもりです。
その意味で弁護士はいらないと思うのですが、ただ世間から私を色気違いのように誤解されるのが一番残念で、この点申開きをするため弁護士を頼もうかと思います。

『自伝・阿部定の生涯 その6』より

事件自体はかなりショッキングなものだったのだけれど、定さんという女性は好感を与えるような人柄だったようですよ。

どういうところがですか?

予審調書を読んで気づくのは、ちょうどレンゲさんのように素直で率直なんですよね。包み隠すことなく事実をありのままに話す事ができた人なんでしょうね。つまり、聞き手に対して素直であるということが伝わるような話し方をしていますよ。上の引用の中でも定さん自身が言っています。“役所でしかるべく相談して刑を定めて下さい。不服は言わず快くその刑を受けるつもりです。” つまり、全面的に役所を信頼している。すべてをお役所に任せている、という事が聞き手にも実によく分かる。

定さんのそのような性格が、検事や裁判官や警察の担当官に良い印象を与えたということですか?

そう思いますよ。事件のショッキングな性格から、定さんに初めて会う人は、もっとがさつなアバズレ女を想像していると思うんですよ。ところが実際に会って話をしてみると、上のような淑(しと)やかで素直で頭のいい女性を目の前にすることになる。

つまり、そのような定さんの好印象が、判決が軽かったという理由だとデンマンさんはおっしゃるのですか?

もちろんそういうことなんだけれど、僕が言いたいのは大正デモクラシーの良い部分が、この当時にはまだ良識として残っていたように思うんですよ。

どういうことですか?

つまり、役人にも良識が残っていた。自由主義というか、欧米で言うところのリベラルな気風が残っていて、人間をヒューマニズム(人間の個性の自由な発達と、人間性の尊厳を重んじる主義)の目で見つめる事ができた。

つまり、裁判官や検事や警察の担当官もそのような目で定さんを見ていたとおっしゃるのですか?

それができた、と僕は思いますよ。軍国主義の足音が聞こえてはいたけれど、役人にはまだヒューマニズムという良識が残っていた。ところが“竹やり事件”では、そういうヒューマニズムが跡形もなく姿を消してしまっていますよ。軍国主義(militarism)というのは一口で言えば、人間を将棋の駒と思うような考え方ですよ。竹やり事件のトバッチリを受けて硫黄島に送られた250人の兵士を見て下さい。彼らは将棋の“歩”のように捨て駒にされてしまったんです。あの250人は全く根拠のない理由で死なされてしまったのだけれど、誰も責任を取ったものはいなし、誰もあの事件で裁判にかけられた者もいない!

戦争だったからでしょう?

確かに、その通りです。“戦争”という言葉ですべてが片付けられてしまった。軍国主義というものはそういうものですよ。人間の命よりも戦争をすることのほうが重要なんですよ。だから、人間は戦争のために捨て駒にされてゆく。

そういう時代だったから仕方がないのでしょう?

でもね、もしあの250人に選ばれてしまったら、たまったものではないですよ。

デンマンさんならどうしますか?

軍国主義になる前に国外に脱出しますよ。

ちょうど、現在、“腐ったリンゴのカゴ”だとデンマンさんが言う国から抜け出してカナダのバンクーバーに居るようにですか?

うへへへへ。。。。レンゲさん、ブラックユーモアがありますねぇ~。その通りですよ。年金をごまかすような政治家が治めている国に馬鹿らしくて居られますか?

デンマンさんだからできるのですわ。

僕の知っているだけでも、そういう人たちが、けっこうたくさん居ますよ。

つまり、あたしは“腐ったリンゴのカゴ”の中に残っている腐ったリンゴですかあああ~?

まだ腐ったわけではありませんよ。ちょっと腐りかけていますがね。。。

どうして、そのようなガッカリさせる事をおっしゃるのですか?

だってそうでしょう?ファンディーをはいてパンツの中でつながったまま清水君とドライブに出かける。高速道路を80キロで走りながらエッチに熱中すれば、遅かれ早かれ“あの世行き”ですよ。これが正常な女性のすることだと思いますか?

また、デンマンさんはファンディーを持ち出して、あたしを馬鹿にするのですね?

馬鹿にしていませんよ。ちょっとばかりアドバイスしているだけですよ。

いいえ、あたしを完全に馬鹿にしていますわああああああああ~~

【ここだけの話しですけれどね、またレンゲさんの口から河内弁が飛び出してきそうですよ。僕をすごい口調でこき下ろすんですからね。ここには書けませんよ。。。こういうところで終わらせるつもりではなかったのですけれど。。。へへへへ。。。とにかく、レンゲさんの話の続きは、ますます面白くなりますよ。どうか期待して待っていてくださいね。もっとレンゲさんのことが知りたいのなら、下にリンクを貼っておきましたからぜひ読んでくださいね。】

       
レンゲさんの愉快で面白い、そして悩み多い日々は
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■ 『レンゲさんのこれまでの話を読みたい人のために。。。』

■ 『レンゲさんの愛と心のエデン』

レンゲさんをもっと知りたい人は。。。。

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■ 『“愛の正体” と “レンゲのテーマ”』

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