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良妻賢母はどこへ行ってしまったの? [病める日本]

良妻賢母は
どこへ行ってしまったの?

 

女大学

江戸時代中期から明治時代にかけて流布した女子の日常生活における教訓書。
著者・成立年代については不詳であるが、1729年(享保14年)に初版本がある。

貝原益軒が1710年(宝永7年)にあらわした『和俗童子訓』の中の巻之五「女子を教ゆる法」をもとに後人が作成した者とする説が有力である。

19か条を箇条書き形式により、女子教育の必要と理念(3か条)および婚家での婦人としての心得(16か条)について諭(さと)している。

これは、両親・舅・姑・夫への絶対服従をはじめ、近世における社会・家族制度のもとでの家を存続し強化するのに必須の女子教訓を簡潔な形で示したものである。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デンマンさん、今日は定さんのことではないのですね?

いや、全く関係ないわけじゃありませんよ。定さんの事もそのうち出てきますよ。ところでレンゲさんはどう思いますか?

どう思うって、定さんの事ですか?

そうじゃなくて、“良妻賢母”のことですよ。

なんとなく古めかしい言葉として聞こえますわ。それも、デンマンさんが引用した女大学の“教え”なんでしょう?

そのように考えている人が結構多いんですよ。でもね、僕自身は“良妻賢母”と“女大学”とが関係しているとは全く考えても居なかったんですよ。

デンマンさんは、どう思って居たのですか?

僕は、読んで字のごとく、単純に“良い妻であり賢い母である”と理解していたんですよ。つまり、“good wife, clever mother”だと、素直に思っていた。要するに僕のオツムの中の辞書には“良妻賢母”と“女大学”との関連は全くなかった。

でも、実際には“良妻賢母”というのは封建的な考え方なんでしょう?

そう考えている人が居る事が僕も分かったんですよ。僕は次のような記事を書いたことがあるんですよ。
『日本から失われつつある良妻・賢母』

それで。。。?

この記事にコメントを書いてくれた人が居るんですよ。nakamuraさんという人です。去年(2005年)の7月6日にWABLOGのブログで書いた記事に次のようなコメントを書いてくれました。

懐古主義に過ぎないのでは。。。?

はじめまして。

私はむしろ良妻賢母という考え自体がおかしいのではないかと思います。良き妻、良き母はこうあるべきである、という考えは女性を抑圧し、そういった型にはめてしまう思想であると考えるからです。

戦前の軍国教育の成果としてデルマンさんたちの母君方が良妻賢母になったという考えは、失礼ですが懐古主義に過ぎないのではないでしょうか。

あの時代、父権は絶対視されており、子供時代は親に、嫁げば夫に、老いては子に従えといった当時の「女の教育」は絶対に評価されるべきものではないでしょう。

また、近年の母親による子供への虐待の原因を現在の日本の教育のみに帰するのはあまりに短絡的ではないでしょうか。虐待をする親は幼年期に同様の虐待を受けているケースが多いと聞きます。

そういった様々な要因が重なって怒った事件によってなぜ軍国教育うんぬんを持ち出されるのか、理解に苦しみます。

nakamura 2005年8月3日 06:43

『はじめまして』より

nakamuraさんは“「良妻賢母」という考え自体がおかしいのではないかと思います。良き妻、良き母はこうあるべきである、という考えは女性を抑圧し、そういった型にはめてしまう思想”と書いているんですよ。僕は、前にも書いたように、“良妻賢母”を単純に good wide, clever motherと考えている。

デンマンさんは、“良妻賢母”を軍国主義教育と結びつけて考えているわけではない、とおっしゃりたいのですね?

そうですよ。

でも、そのように考えている人は多いと思いますわ。

僕も、nakamuraさんのコメントを読みながら、説明不足だったと思いました。詳しい事は次のスレッドで書いていますので、関心のある人はクリックして読んでみてください。
『日本から失われつつある良妻・賢母』 (スレッド)

それで、良妻賢母というのは軍国主義とは関係ないのですか?

僕も、この言葉がどのように生まれたのか調べてみようと思って、検索エンジンに当たってみました。

それで。。。?

GOO国語辞典で調べたら次のように出ていましたよ。

夫にとってはよい妻であり、子にとっては賢い母であること。
日本の女子教育の中心的理念の一つとされてきた。

でも、出典までは書いてない。中国から伝わった考え方だと思ったから、四字熟語辞典で調べてみたんです。そしたら、中国では“良妻賢母”と言わないことが分かった。

なんと言うのですか?

“賢妻良母”と言うんですよ。

うっそォ~~

中国の四字熟語が日本に伝わる際に、内容や順序が変わってしまうことが良くあるけれど、これもそのひとつですよ。韓国では、“賢母良妻”と言って、妻よりも母が先らしいですよ。ところで、中国製の洗濯機に“閑妻良母”というのがあるんですよ。もちろん、これは“賢妻良母”をもじってつけたわけですよ。要するに“「賢妻良母」のあなたなら、「閑妻良母」洗濯機を使ってね”と言うわけですよ。中国読みにすると、“閑妻良母”と“賢妻良母”は全く同じ読み方なんですよ。

日本語読みだと “カンサイリョウボ” と “ケンサイリョウボ” になりますよね。

そうです。でも、中国語読みだと、賢(xian)と閑(xian)が同音なんですよ。だから、全く同じ読みなんですよ。家事の中でも大変なのが洗濯ですよね。中国でも変わりません。それが機械でできるようになったことで女性たちは“解放”された。つまり、中国の女性たちも洗濯機を使うことによって“閑”(時間)を作れるようになった。洗濯機であなた自身を解放してくださいね、と言う宣伝文句がこめられている名前ですよ。

面白い名前ですね。

そうでしょう?女性解放のための洗濯機と言うわけですよ。四字熟語辞典を調べていたら、出典を書いてあるものがあったんですよ。次のように書いていた。

出典 「史記」魏世家・・・良妻  「戦国策」趙策・・・賢母

でも、これは間違いですよね。なぜなら、中国では“賢妻良母”なんだから、“賢妻” と “良母”の出典でなければならないと僕は思いますよ。

中国から渡ってきた言葉だから古い熟語なんでしょうね?

「史記」が成立したのは紀元前91年頃だと言われていますよ。だから、その頃には“賢妻良母”があったかも知れませんよ。この言葉の起源を知っている人がいたら、ぜひコメントに書いてくださいね。

デンマンさんにも、この言葉の起源が判らなかったのですか?

調べたのだけれど、見つけることが出来ませんでした。でもね、古い言葉には違いないと思いますよ。僕が中国の“賢妻良母”で思い出すのは孟子のお母さんですよ。

孟子のお母さんは“賢妻良母”と呼ばれたのですか?

そう呼ばれたのは聞いたことがないけれど、有名な“孟母三遷”と“孟母断機”と言う故事がありますよ。

孟母三遷(もうぼさんせん)

幼児の教育には、環境が大切であるという教え。

戦国時代の儒家である孟子(もうし)の母に関する話です。

孟子の母は、孟子を生んだ後、まず墓地の近くに住みましたが、孟子が墓堀人夫の真似ばかりしているので、これはいけないと思い、市場の近くに引っ越しました。

すると今度は商人のまねばかりするようになったので、これもいけないと思い、三度目、塾のそばに引っ越しました。

すると孟子は祭祀(さいし)の道具を並べ、礼のまねごとをするようになったので、「こういうところこそ、我が子を育てるのにふさわしい」と言って喜んだそうです。

出典:列女伝
孟母断機(もうぼだんき)

孟子が学問を怠って家に帰ってくると、機織りをしていた母親が、織っていた織物を断ち切って、

「学問を中途でやめるのは、私が織りかけの織物を断ち切るようなものだ」

。。。ときつく戒めたという。

つまり、孟子のお母さんは賢い母親だったんですよ。要するに、“賢母”だった。でも、“良妻”である事は書いてありません。孟子は紀元前372年頃生まれ、紀元前288年頃亡くなったと言われています。2200年以上も前の話ですよ。だから、この頃から賢いお母さんの話が伝えられてきたというわけですよね。僕が言いたいのは、“良妻賢母”は日本の軍国教育の中で作り出された言葉ではないと言う事ですよ。

日本では、いつ頃から使われたのですか?

その事も調べたんですよ。でも検索エンジンで調べても出ていませんでしたよ。しかし、日本の良妻賢母で有名なのは、なんと言っても山之内一豊の妻でしょうね。

山之内一豊の妻

天下へ華々しく進む織田信長軍の中に、「ぼろぼろ伊右衛門」と呼ばれる山内伊右衛門一豊という男がいた。
そんな彼のもとに、千代という美しい女子が嫁いできた。伊右衛門は千代に上手く励まされ、少しずつではあるが立身していく。
千代の夢は伊右衛門が一国一城の主となること。

千代は伊右衛門をべた褒めして、やる気を出させたり、ひそかに蓄えた金(10両)で馬を買わせるなどして、夫を盛り立てていく。
こうして一豊は一国一城の主になってゆく。

『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、司馬遼太郎さんが山之内一豊と彼の妻を取り上げて書いた歴史小説。
千代(見性院。初代土佐藩主山内一豊の妻)という、司馬作品には珍しく女性を主人公にした作品。
「良妻賢母」などを主題にしているといわれている。

1966年には日本教育テレビ=NETで、1997年にはテレビ朝日の連続ドラマになる。
2006年にはNHK大河ドラマの原作として使用される。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

“賢妻”である事は良く分かるけれども、“良母”の具体例は書いてありませんよね。あるのかもしれないけれど、僕は読んだことがありません。レンゲさんはどうですか?

あたしも一豊の妻が“孟母三遷”のような教えを子供に話していたという故事を聞いた事がありませんわ。

日本で“良妻賢母”と言う言葉がいつ頃から使われたのかと調べたけれど、残念ながら、はっきりとは分かりませんでした。江戸時代には、どうやら使われたことがなく、明治になってから中国の“賢妻良母”を受け入れて“良妻賢母”として使い始めたのではないか。。。僕はそう思っていますよ。

戦国時代の良妻賢母とは?

戦国時代というのは、大名同士の争いもあれば、一族間の争いもあって、一時も気をゆるめられない時代。
夫婦二人が協力しなければ、世の中を渡っていけないという状況下でしたので、血縁関係よりも、婚姻関係に比重が置かれていた。
妻はいくつもの危機を共に乗り越えてきた盟友であり、いちばん信頼できるパートナー。
それが、この時代の特徴。その最も象徴的な例が、山内一豊と千代です。

山内一豊は実直さが取り柄の凡庸な武将。彼が功名を上げ、土佐藩24万石の国主になった陰には、聡明な妻、千代の存在があったと言われる。
江戸時代になって、新井白石が『藩翰譜』(はんかんふ)で、千代のことを「さかしき人」(賢い人)と呼んで賞賛しますが、これを「内助の功」と言いかえるのには、いささか疑問が残ります。
内助とは、「夫が外で働き、妻は家にいて、社会的に評価されない家事や育児だけを行っていること」を意味する言葉。
夫婦がほぼ対等で、二人の協力でやっと家を存続させている戦国期の武士の夫婦の姿とは、似て非なるもの。

ところで、戦国大名には普通、正妻のほかに側室という妻がいる場合が多いのですが、山内一豊は千代以外に妻を娶ることはありませんでした。
待望の長女「与彌」を地震で亡くす、関ヶ原の合戦で危機的状況を間一髪で脱するなど、その後二人が歩んだ道はけして平坦なものではないのですが、困難を乗り越えていくことで、二人の絆はよりいっそう深いものに変わっていったようです。

千代は、良妻賢母の象徴であり、「内助の功」で夫を立身出世させた妻、と捉えられがちですが、実際にはその範疇だけには収まらない聡明で多才な女性だったようです。
戦国大名の妻は、時に武器を持って戦い、日頃は家内の仕事を一手に担うため、多岐にわたる高い能力を要求されていました。
千代は裁縫が上手かったという記述もあります。夫が馬に鞍をつけるあいだに、裃(かみしも)一着を縫い上げるのが普通だと言われるくらい、裁縫は武将の妻としての立派な才覚とみなされていました。

また、二人は12歳も年が離れていたのですが、千代には年齢差を越えた豊かな知識が備わっていたようです。
それは天性のものというよりは、経験で培った部分が大きいようです。
自分自身が経験したことに限らず、ほかのひとの経験を聞くことによっても、ひとは追体験をすることができます。
ひとの良いところ、優れた部分を自分の人生に積極的に取り入れていく、そのような能力が千代にはあったのではないでしょうか。

『山内一豊と千代』より

どうしてかと言うと、新井白石の『藩翰譜』の中にも“良妻賢母”は使われてないんですよ。でもね、良妻賢母と言ったら、おそらくたいていの人が山之内一豊の名を上げると思います。

あたしもそう思いますわ。

ただ、同じ良妻賢母でも、戦国時代の良妻賢母と、江戸時代、明治時代以降の良妻賢母では全く意味合いが違うんですよ。戦国時代の良妻賢母は、上の文章からも分かるように、夫と妻は対等ですよ。むしろ、現在の夫と妻の立場に似ている。でも、江戸時代以降の良妻賢母はそうではないんですよ。nakamuraさんが書いていたように、良妻賢母でありながらも女性は封建的な「家」の中で抑圧を受けていた。次の文章を読むと良く分かりますよ。

国策の良妻賢母

明治初期まで、女性は政治の世界から遠ざけられ、国家とは関係のないものとして位置付けられていた。女性自身もそのような自体を当然と受け止めていた。これに、変化をもたらしたのが、明治政府による戸籍制度の創出と近代的性役割分業を特徴とする新しい家族形態の出現である。

富国強兵を掲げ、上からの近代化政策を進める明治政府は、明治4年、国民総人口の把握、脱籍者の取り締まりを目的として戸籍制度を創出した。これにより、家族は国家の基礎単位として把握される存在となり、家庭は私的存在として把握されるようになった。

近世の「いえ」は、主君に対する家臣の忠誠奉公を条件として存続し、家名・家禄・家業が三位一体となっており、職業や財産も「いえ」もついたものであったという意味で、公共領域と家内領域の区別が存在していなかった。つまり、近世社会においては、子どもも家名・家禄・家業を体現した「いえ」を存続させていくための公的存在であり、出産や育児なども私事ではなかったのである。

しかし、明治政府成立により、「いえ」とそれら共同体の関係性が希薄化し、公共領域と私的領域の区別が存在するようになり、家庭は私的な存在として把握されるようになったのである。

日清・日露戦争を経ると日本の資本主義が発達し、近代的職業が成立する。この近代的職業が登場してきたことにより、「家内領域は女、公共領域は男」という近代的な性別役割分業が成立したのである。こうして、「女性は家を守り、家事・育児を担当し、男性は外で働く」という新しい家族の形が出現することとなった。

また、国家は、国家の発展のためには、次世代を担う子供の教育が重要であるとし、国策の一つとして次世代の「国家の子供」を育てようとする学校教育制度を成立させる。これにより、それまでは男性が担当していた子供の教育を学校が担うようになる。しかし、家庭内で子供の教育を行うのは、家内領域を担当する女性である。そのため、開明派知識人たちを中心に、この「国家の子供」を育てるために、国家の基礎単位である家族の家内領域を担当し、家庭内での子供の教育を担当する女性にも啓蒙が必要であると考え始めたのである。こうして、家庭を守る妻として、子供を教育する母として女性に良妻賢母が求められるようになり、それまで、国家とは関りのないものとして位置づけられていた女性の位置づけに変化が起こったのである。

SOURCE:小山静子・著『家庭の生成と女性の国民化』 頸草書房、1999年

つまり、“良妻賢母”と言っても、時代とともにその意味する事が微妙に違ってきている、と言うわけですのね?

そうですよ。だから、良妻賢母を軍国主義だけに結びつけるのは、やはり可笑しいと僕は思いますよ。

結局、デンマンさんは、長々と話してきましたけれど、その事がおっしゃりたかったのですね?つまり、デンマンさんは、ご自分の言った事を正当化するために、こうしていろいろと引用して、やはりnakamuraさんの言った事は間違っていると指摘したかった訳ですのね?

レンゲさんにそう言われると、。。。ウ~ン、なるほど、僕は無意識のうちに自分の書いた事を正当化しているんだと思えてきましたよ。

なんですかぁ~。。。意識の上では、そのようなつもりではなかったとおっしゃるのですか?

そうですよ。僕は自分の書いたことを正当化するために、こうして長々と話してきたわけではないんですよ。

では、一体何のために。。。?

僕は、あくまでもレンゲさんのために長々と話を進めてきたんですよ。

あたしのために。。。?

そうですよ。

どういうことですか?

レンゲさんも、そろそろ良妻賢母になったらどうですか、と言いたかったわけですよ。うへへへへ。。。。

それって、マジですの?

もちろんですよ。これだけ長々と話を進めてきて、これがすべて冗談でした、なんて言えませんよ。この記事は、あくまでもレンゲさんのために書いている記事なんですよ。

今日は、格調高く終わるのではないかと、あたしは期待していたのですけれど、デンマンさんは、またあたしをコケにするつもりなのですね?

そういう予感がするのですかアアア?

そうですわぁ~。。。いや~♪~な予感がいたしますわぁ~。

じゃあ、はっきりと言わせてもらいますけれどね、いつまでも、清水君とファンディーをはいて夜桜見物している場合じゃないでしょう?

どうして、。。。どうして、またファンディー(fundies)を持ち出すのですか?

いけませんか?

だって、これまでの話の中で、ファンディーなんて全く出てきませんでしたわ。

でも、夕べレンゲさんは、またファンディーをはいて清水君とつながったでしょう?

どうして。。。どうして。。。そんな事までデンマンさんに分かるのですか?

ほらね、。。。ほらね。。。やっぱり、ファンディーを愛用しているのでしょう?

。。。つうことわあああ。。。あてずっぽうで言ったまでの事ですかぁ~~?

うへへへへ。。。

デンマンさん、。。。デンマンさんは、あたしを一体何度コケにすれば気が済むのですか?あたしは。。。あたしは。。。

レンゲさん、落ち着いてくださいよ。僕は何度も言うように、レンゲさんを馬鹿にしていませんよ。心配しているんですよ。そろそろ家庭を持ってレンゲさんが良妻賢母になろうと思えば、山之内一豊の妻のように、ファンディーをはいて高速道路に出て80キロで飛ばしながらエッチに夢中になるなんて。。。絶対にしないんですよ。

それって、。。。それって。。。デンマンさんは、あたしを絶対にコケにしていますわあああ。。。。

だから、落ち着いてくださいよ。

落ち着けって言われたって。。。山之内一豊の妻が、なぜファンディーをはくのですの?

だから、それは、たとえですよ。山之内一豊の妻がファンディーをはくわけがないじゃないですか!でも、たとえ話にしても、バ.カらしいでしょう?そう思いませんか?

それは。。。それは。。。

だから、レンゲさんも、そういう馬鹿らしい事はやめて、そろそろ良妻賢母になる準備をしたらどうですか?そうすれば、レンゲさんから清水君に、きっと注意する決心がつきますよ。いつまでも、ファンディーをはいて遊んでいる場合じゃないとね。

あたしたち、。。。あたしたち。。。遊んでいるのではありませんてばああああ。。。。愛し合っているのですわ。

だから、愛し合っているのなら、山之内一豊の妻のように愛し合ってくださいよ。

つまり、。。。つまり。。。ファンディーを使ってはダメだと。。。。

そうですよ。。。。ファンディーをはいて、つながったまま高速道路に出るのは絶対に危ないですよ。 

だから、。。。あたしは言ったではありませんかぁ~~。。。あたしたち、ドライブしている最中はしませんでした。

しませんでしたって、。。。パンツの中でつながっているんですよ。しているじゃありませんか。

“パンツの中で
 つながったまま、
 カップルが
 80キロで走行中に
 エッチに夢中になって
 ガードレールに激突、
 そのまま昇天!”

こんな事になったら目も当てられませんよ!

だから、ドライブしている時には、夢中にはならないようにしているんです。

つまり、なんですか。。。つながってはいるけれども、荒川の堤に着くまで我慢していた、と言うわけですね?

(聞こえないくらいの小さな声で)。。。そうです。

それで、また夕べも夜桜を眺めてから、花咲く桜の木の下でゆっくりと愛し合ったわけですか?

(うつむくようにしてレンゲさんはうなづきました。)

夜桜の下で愛し合うなんて風流で、うらやましいと思うけれどさぁ~、ドライブ中につながっているのは、やっぱりエログロナンセンスだと思うなあ~~。

いけませんか?

ファンディーをはいてドライブする必要はないでしょう?山之内一豊の妻だって、絶対にそんなことはしませんよ!

時代が違いますってばああああ。。。。デンマンさんはあたしたちの気持ちを、ちっとも理解していないんですわ。あたしも洋ちゃんも、いつでも愛し合っていたいんです。

たとえそうだとしても、ドライブしている時ぐらい離れていたっていいじゃないですかぁ~?人生は長いんだから。。。交通事故を起こして死んでは元も子もないんですよ。どうしてアパートのベッドの中でゆっくりと楽しまないのですか?高速道路に出て80キロで突っ走らないと、スリルがなくてつまらないのですか?

それって、。。。それって、絶対にあたしたちをコケにしていますよねぇ?

違いますよ。レンゲさんのことを僕は心配しているんですよ。

いいえ、。。。デンマンさんは、またこの記事の中であたしを可笑しな女にしているんですわああああああああ~~

【ここだけの話しですけれどね、今日もダメだったですよね。。。格調高く終わらせようとしたのですけれど。。。へへへへ。。。でもね、レンゲさんの話の続きは、ますます面白くなりますよ。どうか期待して待っていてくださいね。もっとレンゲさんのことが知りたいのなら、下にリンクを貼っておきましたからぜひ読んでくださいね。】

       
レンゲさんの愉快で面白い、そして悩み多い日々は
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■ 『レンゲさんのこれまでの話を読みたい人のために。。。』

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■ 『女探偵ふじこが試みたレンゲさんの素行調査』

■ 『“愛の正体” と “レンゲのテーマ”』

■ 『不倫の悦びと苦悩』

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