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性と愛と批判 [日本人・日本文化]

性と愛と批判
万葉集の中の政治批判?





  

茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る


原文:茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

意味: 茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。

「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされている。

大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。



額田女王は美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。

額田女王が生きた奈良時代というのは、男と女が互いに平等な性愛の喜びを分かち合うと言う理想を和歌の中で詠(うた)い上げるという自由な気風があったと言われています。奈良時代、平安時代の女は、江戸時代や明治時代の女よりも自由恋愛をしていた、と言うことができると思います。

シカゴ大学の研究グループが29カ国の40代から80歳代の夫婦を対象にした調査によると、日本で満ち足りた夫婦生活を送っているのは25.7%だということです。
つまり、日本がランキングでは最下位だったそうです。

ざっと言うと、4組の夫婦のうち3組が日本では不満を持っているのですね。
不幸な結婚生活を送っている75%の妻たちよりも奈良時代、平安時代の女は性愛の喜びを感じていたのです。

どうしてそのような事が言えるのか?
それは次の結婚生活に不満を抱いている妻たちの嘆きを読むと実に良く分かりますよ。
あなたもそう思いませんか?

夫のパンツは雑巾と便座カバーと一緒に洗濯します。

夫のパンツを洗うために大学を出たんじゃないわ!

夫のパンツを見るとムカつく!

夫のパンツの中にムカデを入れておいたわ。

汚い夫とは、もう2年やってません。

ウンチの付着した夫のパンツを洗わされるのはもう嫌です。

私の横でパンツいっちょになった夫のパンツを見たら吐き気を催(もよお)しました。

夫のパンツは汚いから、捨てる割り箸でつまんで洗濯機に入れています。

夫のパンツと一緒に自分のパンツは洗いません。

最近、夫のパンツを見るのもイヤです。

これは、つい最近、結婚生活に不満な妻たちの“グチ”を、僕がネットで調べてここに書き出したものですよ。
こういう愚痴を、もう少し文学的に表現すれば、良い作品が出来ると思うのですけれどね。。。

少なくても上の万葉集に収(おさ)められた歌の中で、額田女王は自由恋愛の思いを謳(うた)いあげています。
汚い男のフンドシのことなど詠(うた)っていませんよね。でしょう? へへへ。。。
そう思いませんか?

文化的な次元の違いに気づきませんか?

僕は、不満を抱いている妻たちが“生(なま)の嘆き”を書いていることは、それなりに意味があることだと思いますよ。
でもね、まったく“文化の香り”が欠如していますよね。

性と愛の満足度ばかりでなく、文化のレベルまでが奈良時代、平安時代の女よりも落ちてしまっているのではないのか?
奈良時代、平安時代にはテレビも洗濯機もありませんでした。

ところが、現在では、かぐや姫の物語が現実になって、人間が月に行ける時代になりました。技術的には奈良時代、平安時代の人間など想像もつかないようなハイテク時代に我々は生きています!

でもね、文化的には、そして、性愛のレベルでも、奈良時代、平安時代と比べて進化しているとは思えませんよね。
つまり、心の進化ですよ。
人間は技術的・科学的・医学的には進化を遂げてきたけれども、心はむしろ退化していますよ。

その証拠が戦争ですよ!

一人の人間を殺しただけでも裁判にかけられて死刑にされることがある!
人殺しは悪い事に決まっているんですよ!どういう場合でも。。。!
つまり、死刑も法律に基づいた“人殺し”ですよ!人道に反する事ですよ!

ところで、戦争で多くの人間を殺すと勇敢だと言って勲章がもらえる!
このようにして軍神になった人が日清戦争や日露戦争、太平洋戦争には居たものですよ。
僕は馬鹿馬鹿しい事だと思いますね。
こういう馬鹿馬鹿しい考えを当たり前だと思うから、原爆や水爆が作られてしまう!

ところが、ミノア文明の1200年の間には戦争がなかった!
考古学的に戦争の跡が見出されない!
詳しい事は次の記事を読んでくださいね。
『戦争はなくす事ができるものです』

ミノア文明に比べると、“すばらしい”と言われている古代ギリシャ文明や古代ローマ文明も野蛮な文明ですよね。
なぜなら、戦争が絶えなかった。
だから、ミノア人は古代ギリシャ人を野蛮人だと呼んでいた。

現代の我々の住んでいる“アメリカ文明”は、元をたどってゆくと古代ギリシャ文明に行き着きます。
この古代ギリシャ文明は心が退化して出来た文明です。
だから、それまでの1200年の間に戦争がなかったのに、古代ギリシャ人は戦争を好んでやった。そうして領土を広げていった。
“アメリカ文明”はこの古代ギリシャ文明の流れから派生しています。
そういうわけで、“戦争インフラ”を温存している!

ブッシュ大統領がこの戦争インフラを大切に温存しています。だから、中国や北朝鮮も見習っている。
この戦争インフラをなくさない限り、戦争は絶対になくなりません。
なぜなら、戦争をやらなければならない仕組みになっている!
それが“アメリカ文明”ですよ。
この戦争インフラについても、近いうちに書こうと思っています。

例によって、話がそれてしまいました。へへへ。。。。
でもね、額田女王の“愛の歌”から、こうして話が性生活の満足度のことへ、それから戦争の話しへと話題がそれてしまった。

なぜなのか?
もともと額田女王の“愛の歌”は政治的な事と無関係ではなかったからです。

実は、僕はこの歌に極めて政治的なものを感じるのですよ。 
これまで、この歌の解説書を読んでも、政治的なものをこの歌から読み取ってクドクドと書いている人は、僕の知る限り一人も居ません。
つまり、この歌は愛の歌、恋の歌なんですよね。そう思われてきました。
でも、僕は、そのように単純には受け取れないのです。

なぜか?

それは、額田女王の生きた時代が極めて政治的に波乱に富んでいたからです。
 
僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。

“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか”

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。

確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。つまり、批判していたのです。
額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。

額田女王とは一体どのような女性なのか?

額田女王には『莵道宮(うじのみや)』を偲んで詠んだ次のような歌があります。

秋の野の

み草刈り葺き

宿れりし

莵道の宮処(みやこ)の

仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ

『萬葉集7』

この歌は皇極天皇(女帝:中大兄皇子の母)の代に詠んだと万葉集の詞書(ことばがき)にあります。
額田女王の少女の頃です。
皇極天皇と額田女王は従姉妹同士です。

この歌はまた、皇極自身の作とも、皇極の気持ちを額田女王が代作したのだとも言われています。
そういう事から考えても皇極と額田はとても仲が良く、気持ちは通じ合っていたと思われます。
この歌には、この二人の女性にとって大叔母にあたる莵道皇女(うじのひめみこ)が住んでいた宮をともに偲ぶ気持ちが込められています。

ところで、額田女王は、推古女帝(額田部皇女)の曾孫でもあり、聖徳太子の姪にも当たります。
額田女王が後の宮廷でなぜあれほど尊崇されたのか、歌の才能以外にもこういう縁があったからだと思います。

なぜ、僕がこのような事を語るのか?
それは、皇極女帝と額田女王が仲の良い気持ちが通じ合った従姉妹だったという事を読むあなたに印象付けたいためなのです。
額田女王の生い立ちについて、さらに詳しく知りたいのであれば、次のリンクをクリックして読んでください。
『性愛の自由の影に』

ここで一枚の絵をお目にかけます。

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かります。
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」

こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか? 
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。

かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。

上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。

「オイ!大年増のお姉さん!俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んでしまって平気なンかよ!俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」

そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)ーー藤原氏のバイブル』

つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。

ここで、額田女王と皇極女帝が気心が知れた仲の良い話し相手であった事を思い出してください。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。

しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!

こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
その女性が、ただノー天気に“あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
彼女が詠んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。

万葉集は政治批判のために。。。?

僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?

万葉集

万葉集(まんようしゅう)とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集です。
『萬葉集』が本来の表記であり、日本の文部省・国語審議会の漢字制限(当用漢字、常用漢字)後は「万葉集」と書く。

天皇、貴族から名もない防人、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以前と見られる。

歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったが考えられる。

【編者】

万葉集の成立に関しては詳しくは判っておらず、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など、古来種々の説がある。万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力である。



【歌風】

「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な資料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵(かものまぶち)はこの集を評してますらをぶりと言った。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

万葉集の編者は誰か?
上の引用の中でも書いてあるように、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。

なぜか?

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見ると実に良く分かりますよ。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴氏は古代日本の有力氏の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。

雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。

これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。

しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。

つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。

武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?

歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。

そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れて“愛の歌集”としてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。

防人の歌がなぜそれほどまでに
政治批判になるのか?

防人は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味だと言われています。

664年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が防人と烽火(のろし)の制度を置いてからのことです。

これは、前年、663年の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために作った制度です。
防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかはいろいろな説がありますが、東国の力を弱めるためだったでしょう。

任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替することになっていましたが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。

東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が連れて行きます。
もちろん徒歩で北九州まで行くわけです。
当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。
帰りは、なんと、自費なのです。
だから、帰りたくても帰ることができない人がいました。
また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。

ホテルだとか旅館などはありませんでしたからね。
野宿ですよ。
追いはぎだとか野党に教われて命を落とす人もいたのです。
一文無しになって放り出されれば乞食になるか野垂(のた)れ死にするか、わが身が今度は追いはぎや野党になるしか生き延びる道はありません。
だから、防人に選ばれると言うことは特攻隊員に選ばれるような悲痛なものがあったはずです。
生きて帰れるかどうかを本人も家族も心配しなければならなかった。
だから、次のような歌があります。

防人に

行くは誰が背と

問ふ人を

見るが羨しさ

物思ひもせず


万葉集 4425番の歌 読み人知らず(不明)

原文: 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受

よみ: 防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず

意味: 防人に行くのはどなたのだんな様?と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。

つまり、防人に選ばれてしまった男の妻が夫を見送りながら詠んだ歌ですよね。
“どなたの旦那様なの?”と囁(ささや)く声が聞こえてくる。
もうあの人と会えないかもしれないと、私はこれほど心配しているのに、私の心配など全く気にならないように他人事として尋ねているその女性がうらやましい。
私の気持ちを察してくださいな。生き別れになるかもしれないんですよ。本当につらいんです。泣きたいのを我慢しているんですよ。
。。。そのような気持ちを詠んだものでしょうね。

大伴家持は、当時、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。

大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。

武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。
つまり、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。
天智政権の非人間的な政策に興味のある人は次のリンクをクリックして読んでください。
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり


僕はたくさんの“座右の銘”を持っています。
座右の銘というのは普通1つか2つか3つぐらいまでのようですが、僕はたくさん持っているんですよ。へへへ。。。。
座右の銘は3つ以下でなければならない、と言う法律はありませんからね。多ければ多いほど良いことだと思っています。
上のスローガンはそのうちのひとつです。
どうしてこれを持ち出したのか?

万葉集を眺めていると、正にこのスローガンが行間に織り込まれているような気がするんですよ。
当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。

しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。
“愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり”

つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。

でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として僕は額田女王と防人の歌を挙(あ)げたつもりです。

大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。

額田女王が詠(うた)った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?

あなたはどう思いますか?

防人の妻が詠(よ)んだ歌を“愛の歌”と見るか?それとも“政治批判の歌”と見るか?

正解はありません!

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよ!

額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

大伴家持は一読者として額田女王の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


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