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日本女性の愛と情念の原点 [日本人・日本文化]

日本女性の愛と

情念の原点

この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?

。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。

この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。

この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。

もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
僕が、この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうと思って、そう想定したまでのことです。

阿部内親王以外にも、モデルになる女性が考えられるのだ!。。。と信じている人が居たら、ぜひコメントをお願いします。

ところで、更紗さんも指摘しているように...



阿部内親王(孝謙・称徳天皇)は
道鏡がらみの言い伝えのせいで
日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝ですね。

by 更紗 2006/05/29 01:22

『日本女性の愛と美の原点 PART 1』のコメント欄より

この阿部親王という女性は、後世によからぬことを言われた女帝なんです。
この女性が攻撃の対象となったというより、道鏡がボロクソに言われました。
その道鏡を庇護したというので、孝謙・称徳天皇もボロクソに言われたというわけです。

このコンビは江戸時代になるとアダルトグッズの業界ですっかり有名になってしまいました。
葛飾北斎が「魂胆遣曲道具」の中で『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題をつけて道鏡を登場させていますが、
道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。
この鎧甲(よろいかぶと)とは性生活をサポートするための性具なのです。
それに道鏡の名を付けたというわけです。
詳しいことは次の記事を読んでください。
『道鏡と孝謙女帝は性具でも有名』

道鏡を馬鹿にした、というより面白半分に道鏡を笑い者にした次の川柳に、この辺の事情が良く表れています。

道鏡は本当に悪者だったのか?

当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。

道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。

道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。

しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。

これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。

この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。

道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。

なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?

称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。

もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。

こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。

なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?

それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。

この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。

この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。

のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。
この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。

『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。

伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。

阿部内親王は、なぜ女帝になったのか?
 
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。

阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。

私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。

「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。

それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」

このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである

SOURCE: 『続日本紀』

つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。

一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。

天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。

聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。

それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。

美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。

藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。

僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?

長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。

本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。

上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。

父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。

でも、そればかりではないと僕は思います。
阿修羅像のまなざしの中に込められた奥深い苦悩は阿部内親王のものであると同時に光明皇后の感じてたものではなかったのか?

この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?

それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。

阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙女帝と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、光明皇太后は娘をないがしろにしていたわけです。
これでは孝謙女帝はおもしろくありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。

要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。

藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。
この野望さえなければ、阿部内親王はこれまでの他の内親王のように、すでに結婚し家庭を持ち子供も生まれて、ささやかな女の幸せに浸(ひた)っていたかもしれません。
しかし、阿部内親王には、それは許されなかった。
藤原一族の繁栄と栄光のために、阿部内親王は“犠牲”にならなければならない“宿命”を負わされていた。
他に藤原氏の血を持つ天皇後継者がいなかったから。。。

天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。
これは“むごい”と言えるかもしれませんよね。
生きていながらの“生贄(いけにえ)”---藤原氏のための“犠牲”

16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。
しかし、自分が結婚できない宿命にあることは、この時点ですでに十分に知り尽くしている。
この聡明な少女は、多難な将来を予感して苦悩している。
この表情に、僕はそのような聡明な少女の苦悩を見るのですが、僕の思い過ぎでしょうか?

ジューンさんは、どう思いますか?

ええっ?

長い間、お待たせしました。ジューンさんの出番ですよ。

急に、デンマンさんにそう言われても。。。なんだか戸惑ってしまいますわ。

ジューンさんのビキニの写真を載せましたからね、やっぱりジューンさんに登場してもらわないと、この記事が尻切れトンボになってしまいますよ。

どうしてですか?

だってね、“日本女性の愛と情念の原点”がタイトルですよ。それにもかかわらず、カナダ人のジューンさんのビキニ姿の写真がトップに出てくる。これを読み始めた人はきっと思うはずですよ。このビキニの女性と日本女性の愛と情念の原点と、一体どういう関係があるんだろうか?

そうでしょうね。。。

だから、ジューンさんに登場してもらったわけですよ。

そうでしたの?でも、わたしには、どうして呼び出されたのか、まだ良く分かりませんけれど。。。

実はね、長々と書いた上の記事は今年の5月30日に書いたモノの中から抜き書きしたものなんですよ。

5月に書いた記事をどうして9月になって。。。?

ジューンさんの掲示板にやたらに投稿を書いた“長野県のナッチー”君がいるでしょう?
『ナッチー君が投稿を書きまくったスレッド』

ええ、わたしも奇妙な人がたくさん投稿を書いているなと思っていましたわ。

そのナッチー君に、僕がSO-NETの記事を読むように言ったのですよ。

それで、デンマンさんの記事にコメントを書いたのですか?

そうですよ。馬鹿なようでいて、可愛いところがありますよ!うへへへへへ。。。でもね、どういうわけか知らないけれど、初め、去年の記事にコメントを書き始めたんですよ。つい最近、今年の記事にコメントをつけ始めた。それで、SO-NETに載った今年の5月30日の記事に次のようなコメントを書いてくれたんですよ。



漢字なら一字で好い。
花なら一輪で好い。
草なら雑草で好い。

母は強し、父も剛。

by 長野県のナッチー (2006-09-05 17:16)

『日本女性の愛と情念の原点』のコメント欄より

どうですか、ジューンさん。。。上の安部内親王の記事を読んだ後で、このナッチー君が書いてくれたコメントを読んで、どう思いますか?

なんとなく考え深いというか。。。含蓄(がんちく)があるというか。。。感想を俳句に書いたような。。。なんとなく日本的だと思いますわ。

そうですか。。。ジューンさんは、なかなか良いところに目をつけましたよ。“感想を俳句に書いたような”。。。ですか。。。なるほど。。。

それで、デンマンさんは、どう思われたのですか?

このナッチー君は42才と自分で言っていながら、まったく世間知らずで社会的にも揉まれていない、ノホホンとしたオツムの足りないトッチャン坊やだと僕は思っていたんですよ。

相変わらずデンマンさんらしい辛らつな言い方をなさいますね?

そう言う訳で次の記事の中で、ナッチー君の事を僕はけっこうボロクソに書いていましたよ。

■ 『眠り姫さん、今でも元気にやってますか? (9月3日)』

■ 『やっぱり不倫はいけませんか? (9月8日)』

でも、デンマンさんは、このナッチーさんに対して考え方を少し改めたのですか?
 
そう。。。ちょっとね。。。つまり、DEMPA55のように感情的になって、ただ単に嫌がらせをするような愚か者ではないと思いましたよ。少なくとも悪意を持たずに、コミュニケーションを持とうとしている姿勢が見えてきましたよ。でも、まだ、ちょっと波長がずれているけどね。うへへへへ。。。。

たとえば。。。?

読んでくれる人に分かりやすいような書き方になっていないでしょう?ジューンさんが言ったように、“感想を俳句に書いたような”書き方だと言えば、体裁よく聞こえるけれど、僕の眼には文章の書き方もよく知らない、自分本位のわがままな書き方に見えますよ。

どういうことですか?

つまりね、相手に読んでもらう。自分の考えている事が相手にどのようにしたら分かり易く伝わるのか?そういうことをじっくり考えて書いている書き方ではありませんよ。読み方によったら、禅問答をしているような、そんなコメントですよ。悪く言えば、トンチンカンなコメントですよ。波長が合っているというのは、更紗さんが書いたような、記事に即したコメントを書くことですよ。ところが、ナッチー君のコメントは良くても禅問答のような波長が合わないコメントになっている。安部内親王の記事と直接かかわってないようなコメントになっていますよ。

そうでしょうか?

僕はナッチー君が書いたコメントや投稿をこれまでに50以上読んでいるけれど、すべての文章が自分勝手な書き方になっていますよ。つまり、妄想かと思えるような事を、本人だけしか分かっていない事を、自分勝手に書いているだけ。相手が不在の書き方ですよ。

でも、日本の和歌だとか俳句には、そういうものが多いのではないですか?

ある意味では、そうですよ。俳句は世界でもっとも短い定型詩と言われていますからね。だから、読む人によって感じ方が違ってきてしまう。俳句の解説書をジューンさんは読んだ事がありますか?

ありますよ。haiku はオンライン無料百科事典Wikipediaにも書いてありますからね。日本以外の国でも、結構知られていますわ。

それで、解説書を読んだ感じは。。。?

ひとつの句を説明するのに1ページぐらいの字数を使って説明していますよね。

でしょう?だから外国人で全く俳句を知らない人には、それぐらいの字数を使って説明しないと、作者が何を言おうとしているのかが分からない。四季のない国で育った外人には“季語”なんて説明されない限り分かりっこないよね。でも、日本人ならば、季語なんて説明しなくても、分かると言う前提がある。くどくどと説明する必要などない。日本人には一般的にそういうところがある。良い例が教科書ですよ。最近では、分かりやすい教科書が書かれていると言う話を聞いたけれど、20年ほど前の大学の教科書は難しく書かれていた。わざと難しく書いているのではないかと思うほど難しかった。

どうしてですか?

難しい教科書ほど“権威”があるような印象を与える。著者がそう思っているとしか考えられませんでしたよ。哲学の本など読むと、さっぱり分からなかった。

アメリカやカナダの教科書は易しく書いてあるのですか?

そうですよ。僕はしみじみと実感しましたよ。日本で良く理解できなかった科目をアメリカとカナダで勉強した事があったけれど、その教科書は日本の教科書と比べると3倍ぐらい厚い。要するに、写真やらイラストやら、表やテーブルなどがふんだんに取り入れられて、分かり易く書かれている。だから、講義に出なくても十分に理解できるほどでしたよ。

それ程違うのですか?

20年前にはそれ程違っていましたよ。つまり、日本の教科書は読む人のことを十分に考えてない書き方になっている。語数も少ない。その影響が2ちゃんねるの掲示板などにも現れていますよ。

どういう風にですか?

語数制限があって、長い投稿は書けない。でも、アメリカ生まれのXOOPSのような掲示板タイプのフォーラムには語数制限はない。言いたい事、書きたい事が、ほぼ無制限に書ける。もちろん、長い文章が良いとは言わないけれど、分かり易く書けば、長くなるのは当然ですよ。今言ったように、欧米の教科書が厚いのは、分かりやすいように言葉を尽くして書いてあるからですよ。

デンマンさんは、ナッチーさんの文章にも、その悪い影響が出ているとおっしゃるのですか?

その通りですよ。ナッチー君はまだ海外生活経験がない。せいぜいハワイとかグアムへ1週間ほど行った程度ですよ。国際人となるには海外で生活しなければならない、と言うつもりはないですよ。でもね、海外生活経験がないと、それが文章にも表れてしまう。

どういう風にですか?

アメリカもカナダも移民の国ですよね。さまざまな人種、さまざまな民族が暮らしている。育った環境も、生まれ育った言葉までもが、すべて違っている。だから、考え方は違って当たり前だと言う事が常識ですよ。ところが、日本は、世界的に見て、1民族一様文化だと言われている。だから、同じ考え方を持っていて当たり前のような風潮がある。あまり言葉を書かなくても分かり合える。そう思っている。だから、俳句のような文化が生まれる素地がある。同じ環境、同じ言葉、同じ文化の中で育ってきている。そういう一様な文化の中で育つと、言葉をくどくどと書かなくても、ツーカーで分かるものだと言う事が常識のようになってしまう。だから、短い文章、短い会話で事が足りると思い込んでしまう。そういうわけで日本のサイトを見ると、語数制限が200語だったり500語だったりする。

そうなんですか?

そうですよ。欧米のサイトでは考えられないくらい僅(わず)かな語数制限のある掲示板は日本のサイトでは、いくらでもありますよ。

ナッチーさんの書いたモノは言葉足らずだとデンマンさんはおっしゃるのですか?

その通りですよ。ジューンさんの掲示板にナッチー君が書いた投稿を読んでみてくださいよ。まるで、妄想を書きなぐっているとしか思えないですよ。相手が良く理解できるように分かり易く書いてない。改行する事がまれだから、読みずらい。つまり、読む人のことを十分に考慮した書き方になっていないんですよ。他民族多様文化で暮らした経験がある人なら、もう少し分かり易いように書くものですよ。

デンマンさんのようにですか。。。?

僕の記事は長すぎるかもしれないけれど、誤解を与える事はまずないと思いますよ。易しく分かり易いように書いてあるから。。。

それで、“日本女性の愛と情念の原点”とこの事がどのような関係にあるのですか?

そうですよ。。。その事を言うために僕はナッチー君の短いコメントを持ち出したんですよ。つまりね、伝統的に日本の“感情文化”、“愛情文化”は寡黙の文化なんですよ。口下手の文化。短い文章しか書かない文化。

どういうことですか?

感情表現や愛情表現を日常ではめったにしない。愛や情念を表現する事がめったにない。僕とレンゲさんの対話の中で僕は“心の恋人としてレンゲさんのことを愛している”というような事をしばしば書いているんですよ。念のためにGOOGLEで検索してみましたよ。

『“心の恋人 レンゲさん 愛している”を入れてGOOGLEで検索した結果』

9月12日午前9時現在で1090件見つかりました。僕は欧米で生活している生活経験年数が、人生の半分を越えています。だから、愛情表現は欧米的なところがある。僕のように“愛している”と記事に書く日本人は極めて少ないと思いますよ。

そうでしょうね。

ところでね、僕がカナダで働いている時にびっくりしたと言うか、呆れた事があるんですよ。

どういうことですか?

僕があるコンサルタント会社でシステムズ・アナリストとして働いていた時に、僕の同僚が奥さんに電話をかけるんですよね。それも、1日に決まって最低3度は電話をかけるんですよ。休み時間ではないんですよ。働いている最中ですよ。日本では私用の電話はまずしないものですが、この点カナダでもアメリカでも、大目に見ていますよね。ジムは決まって最後に“I love you.”を3度ぐらい連発して電話を切るんですよ。“ジムよォ、さっきも電話したばかりじゃないか。また I love youを3度も言う必要があるのかよ?” そう僕が言うと、ジムは決まって言ったものですよ。“言わなかったら、離婚されちゃうよ。” 

うふふふふ。。。本当にそう答えたのですか?

もちろんジムは半分冗談で言ったと思うけれど、1日に奥さんに3回電話かけていた事を僕は決して誇張して言ったわけではありませんよ。しかも、必ず。。。必ずですよ。I love youを言う事を忘れませんでしたね。さらに驚きなのは、ジムは新婚ではないんですよ。結婚して3ヶ月だとか、半年ならば、なるほどと思うのだけれど、その当時、彼はすでに8年ぐらい奥さんと一緒に生活していたわけですよ。それでも、毎日最低3回奥さんに電話していましたね。そして、I love you ですよ。

その事はわたしにも分かりますわ。

そうでしょう?ジューンさんだって、ボーイフレンドが電話で最後に“I love you.”と言わなかったら、なんとなく不満と言うか、物足りないと思うでしょう?

そうですね。恋人や夫婦の間では、“I love you.”と言う事は挨拶のようなものですからね。言わないと、やっぱり変な感じですよね。でも、その事と“日本女性の愛と情念の原点”とどのような関係があるのですか?

だから日本ではね、伝統的にそのような感情表現をまずしませんよ。会社の電話を使って、しかも就業中にジムが奥さんに“I love you.”と誰にはばかる事もなく言ったような事は、日本では考えられない事ですよ。

なぜ、そうしないのですか?

だから、感情表現、愛情表現は寡黙のうちに伝わるものだと言う考え方が日本にはありますよ。つまり、言葉に出して言わなくても、愛し合っていれば以心伝心で愛情が伝わっているものだと、暗黙のうちに了解しているようなところがある。だから、人前などでは、欧米のように夫が妻に向かって“おまえの事を愛しているよ。”などとは絶対に言いませんよ。はしたない。気恥ずかしい。かっこ悪い。。。いろいろと理由はあるけれど、僕は日本で、そのような光景を見た事が一度もありませんよ。

どうしてでしょうか?

つまり、感情や情念を欧米のように素直な形で見せない。要するに感情や情念が外に向かわずに、内向する。そういうわけで、上の16才の安部内親王のような表情になる。僕はそう思っているわけですよ。このような内に秘められた感情表現は、欧米の16才のギャルにはまずできないですよね。うへへへへ。。。ジューンさん、そう思いませんか?

ところで、デンマンさんはレンゲさんには“心の恋人として愛しているんだよ”と、良くおっしゃるようですけれど、わたしにはそのような事を言ってくれたためしがないですよね。

ん? そうでしたかぁ~?

そうですわ。言ってくれた事がありませんわ。

つまり、なんですか?ジューンさんも、僕に“愛している”と言ってもらいたいのですか?

別に。。。言って欲しいと思っているのではなくて。。。レンゲさんに愛しているとおっしゃっているのに、わたしには言わない。。。つまり、わたしに対してデンマンさんは素直な気持ちを表現していないと言う事ですわよね?。。。と言う事は、あたしを素直に愛していないと。。。。

ちょっと。。。ちょっと、待ってくださいよ。僕はジューンさんも愛していますよ。でも、僕は言葉ではなく、じかに態度で示しましたよ。

ジューンの独り言

お食事の後で、デンマンさんは私をお部屋までエスコートしてくれました。そしてドアの前でお休みのキッス。

いつもより長めでした。フレンチキッスになりそうだったので私は、デンマンさんの胸板を突き飛ばして、はっきりと言いましたよ。

「デンマンさん、あしたは、お仕事があるんですよね?」

「仕事1日延期しようか?」ですってェ~。まったく、も~!

「わたし、あしたのお仕事の準備がありますから。。。」

「僕が手伝ってあげようか?」助平な(失礼!)笑いを浮かべて、そうおっしゃるんですよ。

デンマンさんとお話していると、どこまでが冗談でどこまでが本心なのか、よく分からなくなることがあるんですよ。でも心の優しい良い方ですからね、私もめったにデンマンさんの心を傷つけるようなことは言いたくないんです。それでとっさに言いました。

「デンマンさん、日本では奥様と久しぶりにお会いになってよかったですね。私はとてもあてられてしまいました。デンマンさんって、奥様をとっても愛していらっしゃるんですのね。。。」

そしたら、デンマンさん、妙な薄笑いを浮かべて、鼻の頭を人差し指でこすったりしておっしゃるんですよ。「ウン、僕は愛妻家だからね。へへへへ。。。」

「だったら、奥様以外の女性にフレンチキッスするのって、ちょっとまずいんじゃないのでしょうか?」

「ジューンさんにそう言われると、もう僕は塩を振りかけられたナメクジになっちゃうんだよなァ~」ですってェ。

そう言うと、ニヤニヤしながらご自分のお部屋へ戻って行きました。

『不倫した私を差別しているのですか?』より

分かるでしょう?僕はこうして。。。なんと言うかぁ~。。。僕の素直な思いを態度で示しましたよ。

でも、あの時のデンマンさんの愛は愛情と言うよりも。。。あのゥ。。。欲情でしたわ。

分かりました。。。では、愛情でやり直しすれば問題がないわけですよね。。。

。。。ちょっと。。。デンマンさん。。。

何ですか?。。。今では、都合が悪いのですか? 僕の素直な愛情表現のキスが受け取れないのですか?

だって、デンマンさんは、まだ記事を書いていますわぁ~。

うん。。。て言うかぁ~、あまりに長くなってしまったからね、そろそろ終わりにしようと思っていたところですよ。。。これで止めにしますよ。。。ねっ。。。

でも。。。

ジューンさん、どうか僕の素直な愛情を受けてくださいよね。。。(読者のあなたへ) じゃあ、そういうわけですので、申し訳ないけれど、立て込んでいますので今日はこれまでです。また、明日読みに来てくださいね。お待ちしています。うへへへへ。。。。。

ィ~ハァ~♪~!



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おほほほほ。。。。
ジューンさんが出て来たので、
あたくしもついでに
出てきてしまいましたわぁ~
ごめんあそばせぇ~~
ところで。。。
安部内親王という女性は
天皇という日本国の
最高位につきながら
夫を持つことが許されない。
これは“むごい”ですわよねぇ~。
あたくしも、なんだか身につまされて、
涙がこぼれてきましたわああああ。。。
だって、あたくしも結婚できないんですのよ。
ええっ?あたくしも女帝になるのかって。。。?
いいえ。。。あたくしは、まだ良い人と
巡り合っていないのですわよゥ~。
売れ残ってしまうのではないかと。。。
あたくし、心配になってきているのでござ~♪~ますのよ。
うしししし。。。。
でも、ジューンさんだってまだ独身ですもの。。。
それに、レンゲさんだって、まだですものねぇ~。。。
だから、あたくしも、あせる事ないと
自分に言い聞かせているのですわよ。
でもねぇ~、デンマンさんが、上でジューンんさんに
どのようなキスをするのか
ちょっと気になっていますわ。
うふふふふふ。。。。
とにかくね、あたしがマスコットギャルをやっている
“新しい古代日本史サイト”をよろしくね。
とっても、考えさせられる記事がたくさんありますわよ。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。


ん? いっちきちもんちきち? [日本人・日本文化]

ん? いっちきちもんちきち?

これは、実は高知県で話されている方言なんですよ。
どういう意味だと思いますか?

どのような使われ方をすると思いますか?
下の中からこれぞと思うものを選んでみてください。

1) このワインは、いっちきちもんちきち

2) 明日は出張で、いっちきちもんちきち

3) 恋人に振られて、いっちきちもんちきち

どうですか?
言葉の響きで感じがつかめますか?

正解は2です。

“いっちきちもんちきち”とは“行って戻ってくる、とんぼ返りする”という意味だそうです。
なんだか言葉遊びみたいでユニークな表現ですよね。

今、NHKで放送中の『巧名が辻』の主人公、山之内一豊は土佐の高知の江戸時代の最初の殿様です。

高知県はあなたにとってどのような思い出がありますか?

高知市には青空市があるのを知っていますか?
青空市は大変に賑わっています。
おそらく、あなたにも全部は廻りきれないでしょう。
日・火・水・木・金・新土曜市まで、ほとんど毎日市内のどこかで市が出ています。
地元の農産品の豊富さは特筆に値します。

高知といえばカツオですよね。
幡多郡佐賀町にある「カツオふれあいセンター黒潮一番館」ではカツオのタタキ作りを体験できます。
獲れたてのカツオをさばいてワラ火で表面を炙り、刻みねぎをたっぷりかけて皿鉢(さわち)に盛り付けます。
豪快な美味さで最高ですよ。

マダムロゼ

何だか分かりますか?

カクテル好きな女の子なら、マダムロゼを知らない子はいないそうです。
ただし高知限定。
正体はカシス・グレープフルーツ。

高知のバーテンダーさんが女性が頼みやすい名前として考えたそうです。
高知に遊びに行ったらぜひ頼んでみてください。

珍しいところでは、ぼうしパン。
地元高知では「ぼうしパン」って言う帽子の形をしたパンがどこのパン屋さんでも普通に売っています。
あたまの部分がやわらかいコッペパンで帽子のつばの部分がカステラ生地になっていて、
中身もチョコやジャムなどいろいろです。
これは、高知発祥のパンだそうです。
高知に行ったらあなたもぜひ試してください。

そういうわけで今日は土佐の高知の特集でした。

ええっ?
ついでに安い宿を紹介して欲しいのですか?

じゃあね、あなたのために快適でお得な土佐の宿を紹介しますね。

■ ペンション 太公望 高知県 檮原町
季節の料理を手作りで。
和洋室 (1人~3人) ペット可
  定価 4,725円 ⇒ 2,677円 44%OFF!

■ ホテル椿荘 高知県 足摺岬
38番札所や足摺岬に近く観光に便利、ペットも同宿できます
和室 (1人~4人)
 定価 4,725円 ⇒ 1,785円 63%OFF!

■ 柳瀬温泉 高知県 十和村
四万十川の閑静な宿
和室 (2人~5人)
 定価 5,300円 ⇒ 2,660円 50%OFF!

■ 民宿 たかはま 高知県 大方町
ようこそ!鯨に逢える町の民宿へ!
お得な朝食付プラン/和室 (1人~8人)
 定価 4,935円 ⇒ 2,748円 45%OFF!

■ ホテル足摺園 高知県 あしずり温泉
四国最南端 大自然足摺岬のいざない
和室(バストイレ付) (2人~5人)
 定価 8,400円 ⇒ 3,267円 62%OFF!

ええっ?
どのようにしたら会員になれて
安く利用できるの?
そう、お聞きですか?
次のリンクをクリックしてくださいね。
『あなたが癒しの旅を楽しめるように。。。』
じゃあ、あなたも土佐の高知のすばらしさを
満喫してくださいね。
Have a good trip!




あなたが絶対、
見たいと思っていた
面白くて実にためになるリンク




■ 『笑いが止まらない、お笑い掲示板』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』

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では、高知へ行かない人も、
もう一度このページを読み直して
行った気分になってくださいね。
いずれにしても、今日一日、
楽しくネットサーフィンしましょうね。
じゃあ、バ~♪~イ!


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母なる言葉を奪われたアイヌ人 [日本人・日本文化]

母なる言葉を
奪われたアイヌ人


おほほほほ。。。。

デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!

そうなんですのよ。
アイヌの人たちは
母なる言葉を
明治政府から
奪われてしまったのですよ。

こういう事は絶対にしてはならない事でござ~♪~ますよ。

ちょっと考えてみてくださいな。

太平洋戦争に日本が負けて
アメリカに占領されました。

あなたもきっと驚くと思いますが、
なんと、戦争に負けた1945年から
1952年までの7年間、
占領時代が続いたんでござ~♪~ますのよ。

この間に、もし日本語を使う事が禁止されたら
どのような事になっていたか?

万葉集は読めなくなる。
日本史もなくなる。
古文の授業もなくなる。
俳句や短歌も作ってはダメと言う事になる。
日本語の歌謡曲も演歌もなくなる!

日本の文化は消滅させられたはずです。
おそらく、デンマンさんはエルビスプレスリーのロックを子守唄として育てられたでしょうね。
日本語を話すことができず、英語がぺらぺらになっていたでしょうね。

現在のデンマンさんは、苦労して英語を勉強しましたが、
まだぺらぺらではござ~♪~ませんのよ!
うひひひひ。。。。

でもね、そういうひどい事を明治政府がアイヌの人たちにしたんでござ~♪~ますのよ。
アイヌ語を使うと厳しく罰せられた!
アイヌの子供たちは日本人として日本語を使って育てられた。

中には、自分がアイヌ人ではなく、
日本人だと信じていた子供もいたほどです。
アイヌ人差別にあうので、両親が隠れて暮らし、
子供たちにアイヌ人だということを隠していたのです。

これは、アイヌ人を生かしたままジェノサイドをしたようなものですよね。
デンマンさんが書いていたように
1979年にはアイヌ語が話せる人が10人ぐらいに減ってしまったのでござ~♪~ますのよ。

ふんと~♪~に、ひどいことをしたものでござ~♪~ますわねぇ~。
あたくしも、平安時代に生まれた大和撫子として責任を感じておりますことよ。

では、デンマンさんにバトンタッチしたいと思います。
おほほほほ。。。。。


卑弥子さん、いつもながら面白い表情を見せて紹介してくれてありがとう。
では、初めて読む人のために、言葉を奪われたアイヌ人の人たちの嘆きをここに引用したいと思います。

アイヌ語を奪われたアイヌ人



イランカラプテ。
この言葉を教わったのは、農家に嫁ぎ、二風谷のアイヌ語教室に通っている女性からだった。

「あなたの心にそっと触れさせて下さい」

そんな慎ましやかな意味をもつ言葉をアイヌは挨拶のときにかわす。
和語の「はじめまして」と同じように、である。
私には「イランカラプテ」がアイヌ語との最初の出会いだったけれども、
アイヌの、心の奥行きを見たようだった。

私は数ヶ月ぶりにアイヌ語教室を訪ねた。
開講して11年目を迎えたアイヌ語教室・子供の部に、
今年はちょっとした出来事があったと聞いた。

久しぶりの教室には、自分たちの想い出がつまったビデオを見る子供たちの騒がしい声に包まれていた。
「ああ、あの人だ!」と誰かが画面を指さして、皆の歓声が「爆発」する。
ビデオには、五月の連休にカナダの先住民を訪ねたとき、そこで出会った人たちが映っている。

先住民として、誇り高く生きる人々。
子供たちは、その生きざまと暮らしに触れて帰ってきた。

ここに来ているアイヌの生徒たちは、アイヌ語を母語として受け継ぐことはなかった。
母語とは、母が子に乳を与えるように、周囲に囁きかけられながら、知らず知らずのうち身につけていく言葉だとすれば、高齢者でも、母語・アイヌ語を獲得した人は、少ない。

「滅びゆく言語」と、実際を無視していわれた時期があった。
言葉をここまで追いつめた歴史を辿ると、アイヌ自身が自ら言葉を放棄せざるをえないほど、有形無形の社会的な圧力が存在していたことがわかる。

明治政府はアイヌから一方的に生きる基盤を奪い、彼らが貧窮してもそのまま「放置」していた。
だが、天皇制国家である以上、その子弟は「教育」し、皇民化しなければならない体面もあった。
「教育」とは民族の否定、同化を指向した。

アイヌ集落に建てられた「旧土人学校」は、アイヌに多大な影響を及ぼした。
「アイヌの言葉を喋ると、先生にひどく叱られた。
殴る先生がとても恐かった」と、ある老人は当時を語る。
また、アイヌ系児童の成績が良いと、「アイヌのくせに、そんなにできるはずはない」と叱り、シャモの子には、「アイヌでさえできるのにお前達はなぜできない!」と教師が渇を入れたとも聞いた。

子供たちは出口のない袋小路にいた。ひたすら、民族の誇りを奪われ、劣等感を植えつけられていく。

「悲しむべし今のアイヌはアイヌをば
 卑下しながらにシャモ化してゆく」

そう歌ったのは、昭和4年、27才で逝ったアイヌの歌人、違星北斗である。
容赦のない、同化への圧力が働いていた。
目には見えない、凍りつくような差別の空気。
真綿で首をしめていくような重たい圧迫感。

父や母、祖父母たちもアイヌのことを伝えられない。
口をつぐむぎ、わが「血をうすめる」ことが子供の幸せと考えるほかなかったからだ。
母語の灯は、自らの吐息で一つ一つ、ふき消されていった。

『イランカラプテ』より

当時の明治政府はアイヌ人同化政策のためにアイヌ人からアイヌ語を奪ってしまったんですよね。
同じような事を明治政府は台湾人、それに当時の朝鮮人に対してもしたんですよね。
明治政府が推し進めた“義務教育”は昭和になってから
日本が“経済大国”になる原動力になったけれど、
その影で民族の言葉を奪われてしまったアイヌ人が居たわけです。

このようなことは2度としてはならない事ですよね。

ところで、僕が6月25日にRealogで書いた記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』)に、しばしばコメントを書いてくれている更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
いつものことですが、ありがとね。

セクソロジストの高橋鉄(1907~1971)は、
当初は小説家を目指していたにもかかわらず、
アイヌ人を主人公にした短編小説が
発禁処分になってしまい、
それ以来、小説を書くことをやめてしまったそうです。

絵本や児童書ならアイヌ関係の本は結構残っているのに、
昔はアイヌ人が主人公のフィクションは
発禁処分だったなんて想像もつかず、
ちょっとショックでした(>_<)

by 更紗 2006/06/26 13:27

更紗さんはRealogのメンバーではありません。
彼女のブログは次のリンクをクリックすると読めますよ。
『更紗のタペストリー』

僕はさっそく次のような返信を書きました。

おおおお~~~更紗さん、
ちょうど良い時にコメントを書いてくれましたよ。
ありがとう!

あさって28日の題材はすでに決まっているんですよ。
真新主さんがレンゲさんの記事にコメントを書いてくれたので何を書くか決まったんですよ。

さて、明日何を書くかと考えていたところ、
更紗さんのコメントの通知をメールで見ました。

これで、明日27日の記事の題材が決まりました。
また更紗さんのコメントを使わせてもらいますよ。ありがとう。

僕は高校生の頃にフロイトの本を読んで精神分析にかなり興味を持ちましたが、
その関係で高橋鉄さんの本もかなり読みましたよ。

しかし、更紗さんのコメントを見るまで1971年に亡くなっている事を知りませんでした。
亡くなってはいるかもしれない。。。とは思いつつも、
まさか30年以上前に亡くなっていたとは。。。?
ちょっと驚きでした。

そうですよね。
高橋鉄さんは日本のセクソロジーの草分け的な存在でしょうね。
懐かしい名前を見ましたよ。

アイヌ人を主人公にした短編小説を高橋鉄さんが書いていたなんて全く知りませんでした。
それも驚きですが、アイヌ人を主人公にした短編小説が、
ただそのことだけのために発禁処分になると言うのも驚きですよね。

とにかくアイヌ人は大和朝廷の頃から不当な差別を受けてきたんですよね。
現在アイヌ語は復活したようですが、
Barbara Aoki Poissonという日系アメリカ人の書いた本
“First Peoples The Ainu of Japan”
を読むと、1979年には、アイヌ語を話せる人が、たったの10人程度だったそうですよ。

25日の記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人』)の中で引用したように、
アイヌ文化を残そうと言う人たちが現れてアイヌ語がまた息を吹き返してきたということはすばらしい事ですよね。

世界史を見ると過去にも、このような政府や時の実権者の差別政策によって
たくさんの言語が消滅しているんですよね。
つまり、その言葉でのみ記憶された歴史が、
その言語と共に消滅してしまったと言うことですよね。

人類の歴史の一部が欠けているということですよね。
こう言う事を繰り返さないためにも、
絶対に他の民族の文化を消滅させてはいけないことなんですよね。

人間として、自分の首を自分で絞めていることですからね。

他民族といえども、人間として、絶対にジェノサイドをしてはならないですよね。

とにかく、更紗さん、コメントありがとう。
またインスピレーションが湧いてきましたよ。
じゃあね。
時間があったら、明日の記事を読んでくださいね。
バ~♪~イ。

by デンマン 2006/06/26 14:43

『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』のコメント欄より

戦争と言う狂気の中の良識

ここで話しはガラット変わりますが、アメリカ占領軍がなぜ明治政府がやったような“文化的ジェノサイド”をしなかったのだろうか?
このことを突き詰めるために、僕は原爆と京都との関係を調べ始めたのです。
おそらく、かなりの人が知っていると思いますが、京都は空襲も原爆も免(まぬが)れた日本の文化都市、古都です。

京都を空襲から免れさせたのはワシントンに居た当時の日本文化愛好家が、戦争遂行関係者に文化都市京都を戦災から守るべきだ、と説得して回ったという事実があったことを僕は歴史書で読んだ事がありました。
それを確認するためにネットで調べ始めたというわけです。

そうしたら、とんでもない書評にぶち当たったのです。
次に引用します。

『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』
吉田守男 朝日文庫 ISBN4-02-261353-X

「太平洋戦争時、京都や奈良が空襲を受けなかったのは、
古い寺社などの文化財が多かったため、
アメリカが攻撃を控えていたからだ」
...という説を、あまり疑いもせず子どもにも教えていました。

山田克哉『原子爆弾(講談社ブルーバックス)』を読んで、京都が原爆の標的として上がっていたのを知っていたにもかかわらず、です。
全くもって不明のいたりです。

筆者は、アメリカ側のぼう大な資料や、どこがどれだけ爆撃を受けたかという日本側の資料を引き、

「京都が爆撃を免れたのは、原爆を落とすターゲットとして保護されていたからである」

...という自説を証明します。

では、奈良や鎌倉の場合は? 
これも明快に、

「軍事施設のない都市はほぼ人口の多い順に爆撃を受けていたが、
奈良や鎌倉は人口の少ない小都市だったから」

当時の人口(約5.7万人)から考えて、
もう少し終戦が遅ければ奈良は爆撃を受けた可能性が高いそうです。

ではなぜ、デマがもっともらしく吹聴され、現在まで信じられてきたのか。
それは、戦時中に京都市民の間で実際に流れた

「大都市のなかで京都だけ空襲を受けていないのは、
名所旧跡が多いせいだ」

...といううわさに、アメリカや御用学者が乗っかって広めたから。

同様なうわさが横浜・長崎(古くから外国とつきあいの深い港町だから)や広島(アメリカ本土には広島からの移民が多かったから)でも流れていたのは、自分の所だけは安全だと信じたい祈りのような心理が働いたからだろう、それがデマに過ぎない証拠に、横浜は大空襲を受け、広島・長崎は原爆を落とされた。
京都は、もう少しで原爆か大空襲を受けるというところで戦争が終わったために、デマまで生き残ってしまったのだ。

『黒推薦図書リスト』より
注: 読みやすく写真を加え、改行して大幅に構成を変えています。
   もちろん、内容には手を加えていません!

これはお話としては大変面白い考え方であり興味深い発想ですよね。
真理はやがて歴史が証明するでしょう。
まだ太平洋戦争が終了してから60年ほどです。
これが真相だ!。。。というには歴史的に早すぎるかもしれません。

でも、僕がこれまで20年余り自習してきた歴史的な事実を考えて批判するならば、
上の書評には大きな誤りがあるということです。

どこが?

つまり、歴史を一点だけ取り出して見ている。
この場合ならば太平洋戦争中の戦略的観点でしか見ていない。

しかし、歴史というものは一点だけを取り出して語っても意味がありません。
つまり、“群盲象をなでる”という事になってしまう。

ある人は尻尾を触って象とはヘビのようなものと言い、
ある人は足を触って象とは柱のようなものだと言う。
また、ある人は耳を触って、象とは団扇(ウチワ)のようなものだと言い、
別の人は鼻を触って、大きなホースのようなものだと言う。

目の見えない人にとって、一つの生き物を確認する場合、
このように、どこを触ったかによって、いく通りにも解釈ができてしまう。

要するに歴史を見る場合にも、これと全く同じような事が起こる場合があります。
上の書評も、本を書いた著者も同じような誤りを犯しています。
つまり、大局的に見てないんですよね。

歴史上の事件というのは相互に関連したものです。
全く孤立して事件が発生するという事はありえない。
自然現象とは違うのだから。。。

では、上の書評の見方のどこが明らかに間違っているのか?

それはね、明治政府がアイヌ人にやった“文化的ジェノサイド”と
敗戦後アメリカ占領軍が行った日本での占領政策を見比べれば明らかな事です。

つまり、アメリカ占領軍は日本文化を、また日本文化の中核をなす天皇制を抹殺する事を良策とは考えていなかった。
だから、日本語を使わせた。
天皇を戦争犯罪人リストからはずした。

このことから考えても、京都を爆撃標的からはずした事も明らかなんですよ。
京都を空襲しても全く意味がないばかりか、
アメリカの日本文化愛好家にとっては打撃になる。
つまり、世界の文化のために京都を残す必要があると考えていた人たちが居たのです。

その人たちにとっては、個人的にも、世界の文化のためにも京都は意味のある文化都市だった。
日本人のために保護したわけではない!

つまり、いつの時代にもそのような大局的な見方、考え方が取れる人間が居るものです。

ところが、明治政府の文部省の役人の中には、そういう大局的で文化的な考え方のできる人たちが居なかった。
だから、アイヌ人に対して“文化的ジェノサイド”を行ってしまった。
この“同化政策”を台湾人に対しても朝鮮人に対しても明治政府は行った。
これは、明らかに帝国日本人の恥部です。

我々現代日本人はこのような過ちを犯してはならないのですよね。
そう思いませんか?

京都を爆撃標的からはずす、という考え方が、現在の“世界遺産”という考え方を生み出したんですよ。
このように歴史というものは一部分だけを取り出してみると、どのようにも解釈ができる。
しかし、歴史の流れとして見る時、そこにはおのずとある方向が現れてくる。

“国際化” “グローバル化” は京都を爆撃標的からはずした時にすでに始まっていたんですよ。
それが、現在の“世界遺産”という考え方に結実している。

だから、文化的、国際的に見るならば、明治政府がアイヌ人に対して行った“文化的ジェノサイド”は帝国日本の汚点ですよ。
あなたも僕も世界のネット市民の一人として、このことを肝に銘じて文化的ジェノサイドは絶対にしてはいけないことだ!と言う事を子孫に語り継ぐ使命を持っていると僕は信じているのですよ。
うへへへへ。。。。。
(でも、マジだよ!)

では、以前に紹介したじゅぁきさんのコメントをもう一度。。。

アイヌの話はどこかで聞いた事があって、
正直すばらしい民族だと思いました。
確か宗教も万物に神が宿り、
全てに感謝して生きるというものだったと記憶しています。
もし、この文化が根付いていれば
戦争なくなる第一歩なんですが。

それと戦争インフラはものすごくわかります。
明らかに日本の政府は取り込まれてますよね?
ケネディがそうだったという噂はありますが、
まぁ内心事実と思っていますが、
一応証拠ないですので^^;;。

お金儲けのために何でもありの武器商人。
でもアメリカだけでなく三菱系や住友重工系でも武器って作ってませんでしたっけ?
こういった戦争インフラが戦争を好むんですよね?
どうやって失くせばいいんでしょう・・・。

最近は戦争とずれますが、
障害者自立支援法案という悪法が通ってしまいました。
無力を感じたできごとでした。

まずは声を出して言うことから始めるしかないですかね?
黙っていても何も変わらないのはわかってるし。

今はそんな気分です(笑)。

by じゅぁき 2006/06/16 09:19

『戦争を無くす事はできますよね。(2006/06/15 Thu)』のコメント欄より


 
つまり、僕が何を言いたいかというと。。。
古代日本人(アイヌ人の祖先)は万物に神が宿ると信じ、平和に感謝しながら生きていた、という事ですよ。
つまり、戦争など馬鹿馬鹿しくてやらなかった。
だから、中国やヨーロッパのように町を城壁で囲む事もしなかった。

万物に神が宿ると信じている!
戦争などできるはずがないんですよ!

山を崩したり、岩を押し上げたりして山城を築く事なんて神を冒涜する事ですよ。
山は聖域だった!
戦火で森や林を焼く事も神を冒涜する事です。

現在だって、素朴な農村に行けば、今でも万物に神が宿ると素直に信じているお年寄りが日本にはたくさん居ます。
我々、現代日本人の血の中にも、古代日本人の血が少しは流れているんですよ。


ミノア人のファッショナブルな女性たち。
クノッソス宮殿の発掘現場で
考古学者のアーサーエヴァンズが初めてこのフレスコ画を目にした時、
思わず “可愛いパリジェンヌ” と口から出たと言う、いわく付きの壁画。

このお話については次のリンクをクリックして読んでくださいね。
『ラピスラズリ と 美女アメニア (前書き)』

古代日本人はミノア人(古代クレタ人)と同じように平和を愛する民族だったんです。
現代日本人のようにアメリカの防波堤にされて、ぇへらぇへら不気味に笑うような国民ではなかったんですよ!
(これはちょっと飛躍でしたよね!えへっへへへ。。。。)

とにかく、そのようなわけで、現在、純アイヌ人は好戦的な日本人に追いやられて、北海道の北の端でひっそりと暮らしています。

でもね、どちらが幸せな民族なのか。。。?
昔ながらの伝統を守って、こじんまりと落ち着いた生活を送っているアイヌ人。

現代日本人は経済大国になったけれど、
今夜のテレビニュースを見るまでもなく、
崩壊家庭に育った若者が常識では考えられないような悲惨な事件を引き起こしている!
それも、ほとんど毎日のように!

日本はどこか狂ってしまったのではないか?
。。。こう思うのは僕だけではないと思いますよ!
でしょう?
あなただって、日本がちょっと異常になり始めていると思いませんか?

何度も言うように、政治家が年金をごまかす!
日本国民の福祉と幸せを願って国政を預かる人たちが年金をごまかす。
一体、どういう神経を持っているのか?
どういうオツムを持っているのか?

年金をごまかした国会議員のほとんどすべてが、
今でもあなたの税金を使いながら、国会議事堂の中を歩いていますよ。
うへへへへ。。。。

“デンマンさん、日本へもどってきて政治家になってください”、と言ってくれた人が居ますが、
年金をごまかすような日本のダメな政治家と国会で政治をやるなんて馬鹿らしくてできませんよ。
あの大橋巨泉さんが嫌気がさしてしまうぐらいの政治の内容なんですからね。。。。
馬鹿馬鹿しくてやってられないんでしょうね。その気持ちが分かりますよ。

だから僕は、国を越えたレベルで、世界のネット市民の一人として正しいと思うことを一人でも多くの人に読んでもらう。
それが僕のできる事だし、それが僕にとって“草の根政治”だと信じていますよ。

戦争が無くなるまであと200年はかかるでしょうね。
でもね、いつか必ず地球から戦争は無くなりますよ!

戦国時代のことを考えてみてくださいよ!
戦国時代に、マジで戦争がなくなる日本を考えた人が居たと思いますか?
でも、現在、日本国内で県と県が戦争する事なんて絶対にありえませんよね。

つまりね、まだまだ、世界レベルで政治や戦争の事をマジで考える事のできる人たちが、極めて少ないという事ですよ!
僕は早く生まれすぎたんですよ!
100年遅く生まれてきたら政治家になりますよ!
しかし、日本に年金をごまかす政治家が居る限り、馬鹿馬鹿しくて政治家なんかになれませんよ。
時間の無駄です。
意味のない事をやる事は犬死ですからね。
年金をごまかす政治家と肩を並べて政治をやるのは、僕にとって犬死に等しいですよ。
それよりも、自分の信じる事をこうしてブログで記事にして書いた方がよっぽど世界のネットの発展のためになると信じているんですよ。
うへへへへ。。。。

いつの時代にも、戦争などする事は馬鹿馬鹿しいという事は常識だったんですよ。
頭のいい民族はやらなかった。
古代ミノア人!
古代日本人!

どうして戦争をやめないのか?
戦争をすると。。。
金が儲かる人たちがいる。
権力を維持できる人たちがいる!

馬鹿を見るのは何も知らない庶民です!
僕はそのような馬鹿な庶民の一人として死にたくない。

だから、世界のネット市民の一人としてバンクーバーでこうしてブログを書いています。
Grassroots Net Politicsを実践しているつもりなんですよ。。。うへへへへ。。。。。

"grassroots net politics" を入れてGoogleで検索してみたら、一つも引っかかりませんでした。
でも、このような活動をしている人が全世界に居ますよ。
僕もそのうちの一人です。

So, let's carry out grassroots net politics, shall we?

とにかく、時間があったら次の記事を読んでくださいね。

■ 『戦争はなくす事ができるものです』

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『日本のネットではありませんよ! 世界のネットです!』

■ 『日本の皇室はどうあるべきでしょうか?』

■ 『一体、日本は良くなるの?』

■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』

■ 『日本人に欠けているものは?』

■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


気になる日本語って何? [日本人・日本文化]

気になる日本語って何?  

“日本語が乱れている”と言うことを聞くことがありますよね。
あなたも、誰かがそう言うのを聞いたことがあるでしょう?

でもね、
「乱れているのではなく、進化している」と言う人も居ますよ。

僕は“日本語は生きている”と思いますね。
日本語だけでなく、どんな国の言葉も生きていますよ。
つまり、言葉は変わってゆくものですよね。
時代とともに変わってゆく!

言葉も、我々と同じように変わってゆくのですよね。
そう思いませんか?

人それぞれに意見はあると思いますが、先日「気になる言葉づかい」ランキングが掲載されているのを見ましたよ。
それによるとワースト3は次のようなものでした。

1 「○○でよろしかったでしょうか」
2 「○○円からお預かりします」
3 「私って○○じゃないですか」

実は僕は人生の半分以上を海外で暮らしています。
現在カナダのバンクーバーに居るんですよ。
直美(日本で暮らす僕の妻)やレンゲさんと国際電話で話す以外、めったに日本語の会話をしません。
圧倒的に英語を聞いたり話している時間の方が多いのです。

だから、ワースト3と言われている上の語句が、ワーストだと言うように僕の耳に響いてこないのですよね。
僕は、これまでに30カ国近くを放浪していますから、言葉にイイ悪いがあるものか!。。。と言う事を主義にしているのですよ。
つまり、僕にとって言葉は生き物ですからね。

だから、外国に出たら、その言葉と仲良くする以外にしょうがないんですよね。
とにかく話せるようにならなければならない。
イイ悪いなんて言っていられない。

僕にとって日本語もそのようなものです。
日本語が変わってゆくことを僕は当然のこととして受け入れています。
それは、ちょうど海外を放浪している時に、その土地で話されている言葉を素直に受け入れて、その言葉を使って、コミュニケーシオンをしなければならない、と言う僕の生活習慣そのものだからですよね。
だから、イイ悪いなんて判断する気にならない。

そういう訳で、僕にとって上のワースト3が、まったくワーストとして響かないんですよね。
鈍感になったんじゃなくて、ありのままを受け入れるような癖(クセ)ができてしまったようです。

その他にもランクインしている言葉には次のようなものがありました。

「うざい」
「ゲロうま」
「きしょい」
「ぶっちゃけ」
。。。

確かに響きとしてもあまり美しくない言葉ですけれど。。。、
でもね、考えてみれば、“美しくない”と言うこと自体が、きわめて主観的なのではないだろうか?
僕はそう思いますよ。

僕は、これまでに30カ国を放浪したからだと思います。
外国語を美しいと感じるか?
まず、美しいとは感じませんよ。

奇妙なもの。。。
それこそ、美しいと感じるよりも“きしょい” とか、 “きっしょい” と感じるものですよ。
分からない外国語を聞いていると“うざい”と思いますね。
“ぶっちゃけ”たはなし、僕はそう思いますよ。

つまり、僕にとって「うざい」「ゲロうま」「きしょい」「ぶっちゃけ」。。。は外国語と変わりないものです。
だから、僕は、正に外国語を学ぶようなつもりで、このような言葉を受け入れて理解しようとしたのでした。
そうして、今、その言葉をこうして使えるようになったのです。うへへへへ。。。。

「日本語が乱れている」と言うよりも、日本語が生きていることだと思いますね。
僕にはそう感じられます。

美しく感じるかどうかは、きわめて個人的な受け取り方だと思いますね。

だから、“美しさ”よりも、“使いやすさ”、その国で話されている言葉の“すばらしさ”の方が大切だと思いますね。

たとえば、日本語の“すばらしさ”は、特に自然を表す言葉が非常に詩的で細分化されていると言うことですよね。
これは日本という国に四季があること、そしてその四季を受け止める感受性の豊かさの表れだと思いますね。
日本語をマスターした外国人からも高く評価されているところです。

以前、日本からやってきた教育者と話したことがあります。
その人は言ったものです。

“英語ができることも必要だが、まずは日本語をキチンと話せるかどうかを見ます。
美しい言葉、プラスの言葉を使うと、その人の性質まで変わります。
言霊の力を信じて、美しい言葉を使うよう心がけたいものです。”

確かにその教育者の言ったことが僕にも理解できますよ。
でもね、海外で暮らしたことがある人ならすぐに分かりますが、言葉というのはまずコミュニケーションの道具なんですよね。
“キチンと話す”かどうかよりも、まず理解できるかどうかの方が重要なんですね。

“キチンと話す”事にこだわると、外国語はなかなか身につかないんですよ。
“キチンと話す”事も大切でしょう。
でも、もし、あなたが英語を勉強しようと思ったら、“キチンと話す”事にあまりこだわらない方がいいですよ!

僕もそうでしたが、“キチンと話す”事にこだわりすぎると、英語がなかなか身につかないものです。
言葉は生き物です。
だから、仲良くする以外に言葉を習得することはできないんですよね。
美しいだとか、ブスだとか、きしょいだとか。。。そのような事はどうでも良いことです。
とにかく、言葉と仲良くすることなんですね。
僕はそう思います。

そういうわけですから、あなたも海外に出て外国語を学ぶ時には、あまり“キチンと話す”ことにこだわる必要はないと思います。
まず、言葉と仲良くなることが重要です。
言葉と仲良くなると言うことは、世界の人と仲良くなると言うことですよ。
戦争のない平和な世界ができると言うことです。
ちょっと飛躍しすぎましたが、あなただって、そう思うでしょう?

あなたも、世界の人たちと仲良くなりませんか?
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もし、たくさんの質問があったら、カウンセラーと会って話を聞く事もできます。

何事も一歩を踏み出すことが大切ですよ。
あなたも知っている通り、“万里の道も一歩から”ですからね。。。
じゃあ、頑張ってくださいね。
応援していますよ。

Good luck!

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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
もう、イヤ~~、
なんて言わないでよね。
ええっ、何で現代日本語の記事に
顔を出すのかって?
だって、“気になる日本語”
と言うタイトルで
ござ~♪~ますのよ。
やっぱり、気になったから
出てきたざ~♪~ますのよ。
とにかくグローバル化しているでしょう?
日本語もグローバル化しているのよねぇ~
そう思いませんか?
気になるの?なんて聞かれたら、
あたくしにとって、
今の日本語はすべて気になりますよ。
現代日本語は、あたくしにとって
外国語のようなものなのですからね。
お分かりになるでしょう?
こういう十二単(じゅうにひとえ)なんか
着ている場合じゃないのよねぇ~?
これって、ダサイでしょう?
そういうわけですから、あなたも
ぜひ生きている国際語を勉強してくださいね。
それから、『新しい古代日本史』サイトも
よろしくね。
あたくしがマスコットギャルをやってるので
ござ~♪~ますのよ。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。

 


性と愛と批判 [日本人・日本文化]

性と愛と批判
万葉集の中の政治批判?





  

茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る


原文:茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

意味: 茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。

「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされている。

大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。



額田女王は美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。

額田女王が生きた奈良時代というのは、男と女が互いに平等な性愛の喜びを分かち合うと言う理想を和歌の中で詠(うた)い上げるという自由な気風があったと言われています。奈良時代、平安時代の女は、江戸時代や明治時代の女よりも自由恋愛をしていた、と言うことができると思います。

シカゴ大学の研究グループが29カ国の40代から80歳代の夫婦を対象にした調査によると、日本で満ち足りた夫婦生活を送っているのは25.7%だということです。
つまり、日本がランキングでは最下位だったそうです。

ざっと言うと、4組の夫婦のうち3組が日本では不満を持っているのですね。
不幸な結婚生活を送っている75%の妻たちよりも奈良時代、平安時代の女は性愛の喜びを感じていたのです。

どうしてそのような事が言えるのか?
それは次の結婚生活に不満を抱いている妻たちの嘆きを読むと実に良く分かりますよ。
あなたもそう思いませんか?

夫のパンツは雑巾と便座カバーと一緒に洗濯します。

夫のパンツを洗うために大学を出たんじゃないわ!

夫のパンツを見るとムカつく!

夫のパンツの中にムカデを入れておいたわ。

汚い夫とは、もう2年やってません。

ウンチの付着した夫のパンツを洗わされるのはもう嫌です。

私の横でパンツいっちょになった夫のパンツを見たら吐き気を催(もよお)しました。

夫のパンツは汚いから、捨てる割り箸でつまんで洗濯機に入れています。

夫のパンツと一緒に自分のパンツは洗いません。

最近、夫のパンツを見るのもイヤです。

これは、つい最近、結婚生活に不満な妻たちの“グチ”を、僕がネットで調べてここに書き出したものですよ。
こういう愚痴を、もう少し文学的に表現すれば、良い作品が出来ると思うのですけれどね。。。

少なくても上の万葉集に収(おさ)められた歌の中で、額田女王は自由恋愛の思いを謳(うた)いあげています。
汚い男のフンドシのことなど詠(うた)っていませんよね。でしょう? へへへ。。。
そう思いませんか?

文化的な次元の違いに気づきませんか?

僕は、不満を抱いている妻たちが“生(なま)の嘆き”を書いていることは、それなりに意味があることだと思いますよ。
でもね、まったく“文化の香り”が欠如していますよね。

性と愛の満足度ばかりでなく、文化のレベルまでが奈良時代、平安時代の女よりも落ちてしまっているのではないのか?
奈良時代、平安時代にはテレビも洗濯機もありませんでした。

ところが、現在では、かぐや姫の物語が現実になって、人間が月に行ける時代になりました。技術的には奈良時代、平安時代の人間など想像もつかないようなハイテク時代に我々は生きています!

でもね、文化的には、そして、性愛のレベルでも、奈良時代、平安時代と比べて進化しているとは思えませんよね。
つまり、心の進化ですよ。
人間は技術的・科学的・医学的には進化を遂げてきたけれども、心はむしろ退化していますよ。

その証拠が戦争ですよ!

一人の人間を殺しただけでも裁判にかけられて死刑にされることがある!
人殺しは悪い事に決まっているんですよ!どういう場合でも。。。!
つまり、死刑も法律に基づいた“人殺し”ですよ!人道に反する事ですよ!

ところで、戦争で多くの人間を殺すと勇敢だと言って勲章がもらえる!
このようにして軍神になった人が日清戦争や日露戦争、太平洋戦争には居たものですよ。
僕は馬鹿馬鹿しい事だと思いますね。
こういう馬鹿馬鹿しい考えを当たり前だと思うから、原爆や水爆が作られてしまう!

ところが、ミノア文明の1200年の間には戦争がなかった!
考古学的に戦争の跡が見出されない!
詳しい事は次の記事を読んでくださいね。
『戦争はなくす事ができるものです』

ミノア文明に比べると、“すばらしい”と言われている古代ギリシャ文明や古代ローマ文明も野蛮な文明ですよね。
なぜなら、戦争が絶えなかった。
だから、ミノア人は古代ギリシャ人を野蛮人だと呼んでいた。

現代の我々の住んでいる“アメリカ文明”は、元をたどってゆくと古代ギリシャ文明に行き着きます。
この古代ギリシャ文明は心が退化して出来た文明です。
だから、それまでの1200年の間に戦争がなかったのに、古代ギリシャ人は戦争を好んでやった。そうして領土を広げていった。
“アメリカ文明”はこの古代ギリシャ文明の流れから派生しています。
そういうわけで、“戦争インフラ”を温存している!

ブッシュ大統領がこの戦争インフラを大切に温存しています。だから、中国や北朝鮮も見習っている。
この戦争インフラをなくさない限り、戦争は絶対になくなりません。
なぜなら、戦争をやらなければならない仕組みになっている!
それが“アメリカ文明”ですよ。
この戦争インフラについても、近いうちに書こうと思っています。

例によって、話がそれてしまいました。へへへ。。。。
でもね、額田女王の“愛の歌”から、こうして話が性生活の満足度のことへ、それから戦争の話しへと話題がそれてしまった。

なぜなのか?
もともと額田女王の“愛の歌”は政治的な事と無関係ではなかったからです。

実は、僕はこの歌に極めて政治的なものを感じるのですよ。 
これまで、この歌の解説書を読んでも、政治的なものをこの歌から読み取ってクドクドと書いている人は、僕の知る限り一人も居ません。
つまり、この歌は愛の歌、恋の歌なんですよね。そう思われてきました。
でも、僕は、そのように単純には受け取れないのです。

なぜか?

それは、額田女王の生きた時代が極めて政治的に波乱に富んでいたからです。
 
僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。

“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか”

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。

確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。つまり、批判していたのです。
額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。

額田女王とは一体どのような女性なのか?

額田女王には『莵道宮(うじのみや)』を偲んで詠んだ次のような歌があります。

秋の野の

み草刈り葺き

宿れりし

莵道の宮処(みやこ)の

仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ

『萬葉集7』

この歌は皇極天皇(女帝:中大兄皇子の母)の代に詠んだと万葉集の詞書(ことばがき)にあります。
額田女王の少女の頃です。
皇極天皇と額田女王は従姉妹同士です。

この歌はまた、皇極自身の作とも、皇極の気持ちを額田女王が代作したのだとも言われています。
そういう事から考えても皇極と額田はとても仲が良く、気持ちは通じ合っていたと思われます。
この歌には、この二人の女性にとって大叔母にあたる莵道皇女(うじのひめみこ)が住んでいた宮をともに偲ぶ気持ちが込められています。

ところで、額田女王は、推古女帝(額田部皇女)の曾孫でもあり、聖徳太子の姪にも当たります。
額田女王が後の宮廷でなぜあれほど尊崇されたのか、歌の才能以外にもこういう縁があったからだと思います。

なぜ、僕がこのような事を語るのか?
それは、皇極女帝と額田女王が仲の良い気持ちが通じ合った従姉妹だったという事を読むあなたに印象付けたいためなのです。
額田女王の生い立ちについて、さらに詳しく知りたいのであれば、次のリンクをクリックして読んでください。
『性愛の自由の影に』

ここで一枚の絵をお目にかけます。

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かります。
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」

こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか? 
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。

かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。

上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。

「オイ!大年増のお姉さん!俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んでしまって平気なンかよ!俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」

そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)ーー藤原氏のバイブル』

つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。

ここで、額田女王と皇極女帝が気心が知れた仲の良い話し相手であった事を思い出してください。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。

しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!

こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
その女性が、ただノー天気に“あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
彼女が詠んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。

万葉集は政治批判のために。。。?

僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?

万葉集

万葉集(まんようしゅう)とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集です。
『萬葉集』が本来の表記であり、日本の文部省・国語審議会の漢字制限(当用漢字、常用漢字)後は「万葉集」と書く。

天皇、貴族から名もない防人、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以前と見られる。

歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったが考えられる。

【編者】

万葉集の成立に関しては詳しくは判っておらず、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など、古来種々の説がある。万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力である。



【歌風】

「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な資料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵(かものまぶち)はこの集を評してますらをぶりと言った。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

万葉集の編者は誰か?
上の引用の中でも書いてあるように、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。

なぜか?

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見ると実に良く分かりますよ。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴氏は古代日本の有力氏の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。

雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。

これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。

しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。

つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。

武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?

歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。

そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れて“愛の歌集”としてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。

防人の歌がなぜそれほどまでに
政治批判になるのか?

防人は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味だと言われています。

664年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が防人と烽火(のろし)の制度を置いてからのことです。

これは、前年、663年の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために作った制度です。
防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかはいろいろな説がありますが、東国の力を弱めるためだったでしょう。

任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替することになっていましたが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。

東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が連れて行きます。
もちろん徒歩で北九州まで行くわけです。
当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。
帰りは、なんと、自費なのです。
だから、帰りたくても帰ることができない人がいました。
また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。

ホテルだとか旅館などはありませんでしたからね。
野宿ですよ。
追いはぎだとか野党に教われて命を落とす人もいたのです。
一文無しになって放り出されれば乞食になるか野垂(のた)れ死にするか、わが身が今度は追いはぎや野党になるしか生き延びる道はありません。
だから、防人に選ばれると言うことは特攻隊員に選ばれるような悲痛なものがあったはずです。
生きて帰れるかどうかを本人も家族も心配しなければならなかった。
だから、次のような歌があります。

防人に

行くは誰が背と

問ふ人を

見るが羨しさ

物思ひもせず


万葉集 4425番の歌 読み人知らず(不明)

原文: 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受

よみ: 防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず

意味: 防人に行くのはどなたのだんな様?と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。

つまり、防人に選ばれてしまった男の妻が夫を見送りながら詠んだ歌ですよね。
“どなたの旦那様なの?”と囁(ささや)く声が聞こえてくる。
もうあの人と会えないかもしれないと、私はこれほど心配しているのに、私の心配など全く気にならないように他人事として尋ねているその女性がうらやましい。
私の気持ちを察してくださいな。生き別れになるかもしれないんですよ。本当につらいんです。泣きたいのを我慢しているんですよ。
。。。そのような気持ちを詠んだものでしょうね。

大伴家持は、当時、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。

大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。

武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。
つまり、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。
天智政権の非人間的な政策に興味のある人は次のリンクをクリックして読んでください。
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり


僕はたくさんの“座右の銘”を持っています。
座右の銘というのは普通1つか2つか3つぐらいまでのようですが、僕はたくさん持っているんですよ。へへへ。。。。
座右の銘は3つ以下でなければならない、と言う法律はありませんからね。多ければ多いほど良いことだと思っています。
上のスローガンはそのうちのひとつです。
どうしてこれを持ち出したのか?

万葉集を眺めていると、正にこのスローガンが行間に織り込まれているような気がするんですよ。
当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。

しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。
“愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり”

つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。

でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として僕は額田女王と防人の歌を挙(あ)げたつもりです。

大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。

額田女王が詠(うた)った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?

あなたはどう思いますか?

防人の妻が詠(よ)んだ歌を“愛の歌”と見るか?それとも“政治批判の歌”と見るか?

正解はありません!

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよ!

額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

大伴家持は一読者として額田女王の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


性愛の自由の影に。。。 [日本人・日本文化]

性愛の自由の影に。。。

額田女王(ぬかだのおおきみ)の
天智天皇批判?





茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る


原文:茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

意味: 茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。

「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王との恋の歌とされている。

大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。



この歌には額田女王の性格が、生き生きと現れている。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。

戦後、女性が性的に“解放”されたのは、『完全なる結婚』だとか『夫婦生活』が出回った事がかなり影響したようです。
女性が“性の平等”に目覚めたのもこのような本や雑誌の影響を見過ごす事は出来ないでしょう。

しかし、現在、本当に性の平等になっているのか?

初めて『完全なる夫婦』が日本語に訳された1930年から数えて今年で76年目です。
戦後訳されて出版された1946年から数えても、60年の歳月がたっています。
しかし、残念ながら本当に性が平等になっているとは言いがたいですよね。
次の統計を見れば明らかです。

性生活満足度ランキング最下位は日本



AP通信によると、米シカゴ大学の研究グループが29カ国・地域を対象に実施した性行動・態度に関する調査の結果が、学術誌アーカイブス・オブ・セクシャル・ビヘイビアー4月号に発表された。
それによると、性生活に満足している人の割合が最も高かったのはオーストリアだった。
71.4%が「満足している」と答えた。
一方、最も低かったのが日本で25.7%だった。

上位5カ国は、オーストリア71.4%、スペイン69.0%、カナダ66.1%、ベルギー64.6%、米国64.2%。
下位5カ国は、タイ35.9%、中国34.8%、インドネシア33.9%、台湾28.6%、日本25.7%

ただし、この研究の対象者は40歳から80歳まで。

結論:

性的問題で肉体的要素が占める割合は、年を重ねるにつれて男性の方に大きく影響する。
しかし、心理的な要素、パートナーとの人間関係が、肉体的要素と同様に性的満足感とパーフォーマンスに大きな影響を与えているようだ。

SOURCE: AP通信 (2006年4月19日)
“Sexual Problems Among Women and Men Aged 40-80”

日本に本当に“性の平等”が根付いているならば、このような統計は表れないはずですよね。
なぜなら、心理的な要素、パートナーとの人間関係が、肉体的要素と同様に性的満足感に大きな影響を与えているようだと報告されている。
確かに、そうだろうと僕も思います。

つまりね、日本は戦後、焼け野原から経済復興を遂げて、経済大国になった。
ハイテク工業立国にもなった。
世界で有数の長寿国にもなった。
このことを自慢に思っている日本人は意外に多いですよ。

でもね、こうして性生活満足度の調査をすれば、日本人の夫婦生活が外国と比べてすっかり荒(すさ)んでいることが、はっきりと表れてしまう。
つまり、現在の日本では、不満を抱えている夫婦が4組に3組あると言う事ですよ!

現在の日本人は性と愛の点で
額田女王が生きていた頃よりも
不幸なのではないか。。。?

江戸時代から明治時代を経て、戦争中も女性の“性”は抑圧されていた。
結婚生活の中で女性が性的満足感を詠(うた)いあげるなんて、とても考えられなかった。
女は天皇の国家に奉仕する“家”の制度の中で“重い荷を背負わされ”、男に抱かれても、冷凍されたマグロのように寝床の中で、じっとして横たわって居なければならなかった。

実際、そのような教えを受けて、良家の女はマグロでなければならなかった。
このような『女大学』的な“教え”の中では“性の平等”など望んでも実現できる事ではなかった。
でも、もちろん当時の女性に不満がなかったというわけではないでしょう。

でも、その不満を口に出す事が出来なかった。
本音では不満でも、建前ではあくまでも『女大学』の“教え”を守らなければならなかった。

分かりますよね。
“建前”と“本音”!

日本に、こういう考え方が根付いてしまった背景には、“性の不平等”が長い間、日本文化の中に温存されていたからだと僕は信じているほどですよ。
僕の妻は京都出身ですが、旧家の生まれですから、お公家さんの流れをくむ、しつけの厳しい家庭に育ちました。
だから、本音と建前を使い分けるのがとても上手ですよ。
もちろん、京都出身の人がすべて本音と建前を使い分けるのが上手だと言うつもりはありませんよ。へへへへ。。。。

概して、日本では女性の方が昔から(性的以外にも)抑圧されていたので、本音と建前を使い分ける人が多いですよね。
もちろん例外は居ます。
大正昭和では阿部定さんなどは本音で生きた人でしょうね。
本音で生きた結果、あのような事件を起こしてしまった。

最近では、レンゲさんでしょうね。
ファンディーをはいてパンツの中でつながりながら、高速道路を80キロのスピードで突っ走る。そうしながら清水君とエッチに夢中になってしまう。
まだ交通事故を起こしていませんが、このまま続けていれば、遅かれ早かれ事故を起こしてしまいますよ。
平均的な女性ならば、本音では考えていても、建前ではOKしないものですよ。

でも、レンゲさんは本音の人だから、ついついやってしまう。
阿部定さんのような事件になったら取り返しが付かないのですが、レンゲさんにはまだよく分かっていないようです。
だから、本音だけで生きるのも、このように問題がある場合もありますよね。

これは余談ですが。。。、
でもね、古代の日本では、男と女が互いに平等な性の喜びを分かち合うと言う理想を、詩や散文の中で謳(うた)いあげていたんですよね。

どうしてそのような事が言えるのか?

額田女王(ぬかだのおおきみ)が、このページのトップで引用したような歌を詠(うた)っていたわけです。

つまり、額田女王が生きた奈良時代というのは、男と女が互いに平等な性愛の喜びを分かち合うと言う理想を和歌の中で詠(うた)い上げるという自由な気風があったということですよ。
奈良時代、平安時代の女は、江戸時代や明治時代の女よりも自由恋愛をしていた、と言うことができると思います。

さらに現在、日本で不幸な結婚生活を送っている75%の妻たちよりも奈良時代、平安時代の女は性愛の喜びを感じていたのです。
どうしてそのような事が言えるのか?
それは次の結婚生活に不満を抱いている妻たちの嘆きを読むと実に良く分かりますよ。
あなたもそう思いませんか?

夫のパンツは雑巾と便座カバーと一緒に洗濯します。

夫のパンツを洗うために大学を出たんじゃないわ!

夫のパンツを見るとムカつく!

夫のパンツの中にムカデを入れておいたわ。

汚い夫とは、もう2年やってません。

ウンチの付着した夫のパンツを洗わされるのはもう嫌です。

私の横でパンツいっちょになった夫のパンツを見たら吐き気を催(もよお)しました。

夫のパンツは汚いから、捨てる割り箸でつまんで洗濯機に入れています。

夫のパンツと一緒に自分のパンツは洗いません。

最近、夫のパンツを見るのもイヤです。

これは、つい最近、結婚生活に不満な妻たちの“グチ”を、僕がネットで調べてここに書き出したものですよ。
こういう愚痴を、もう少し文学的に表現すれば、良い作品が出来ると思うのですけれどね。。。

少なくても歌の中で額田女王は自由恋愛の思いを謳(うた)いあげていますよ。
汚い男のフンドシのことなど詠(うた)っていませんよね。でしょう? へへへ。。。
そう思いませんか?

文化的な次元の違いに気づきませんか?

僕は、不満を抱いている妻たちが“生(なま)の嘆き”を書いていることは、それなりに意味があることだと思いますよ。
でもね、まったく“文化の香り”が欠如していますよね。

性と愛の満足度ばかりでなく、文化のレベルまでが奈良時代、平安時代の女よりも落ちてしまっているのではないのか?
奈良時代、平安時代にはテレビも洗濯機もありませんでした。

ところで、僕は今でもテレビを持っていませんよ!
下らない民放のアホな番組など見ている暇があったら、まだ読み応えのある記事をブログで書いていた方がマシですよね!
そう思いませんか?

とにかく、かぐや姫の物語が現実になって、人間が月に行ける時代になりました。
技術的には奈良時代、平安時代の人間など想像もつかないようなハイテク時代に我々は生きています!

でもね、文化的には、そして、性愛のレベルでも、奈良時代、平安時代と比べて進化しているとは思えませんよね。
つまり、心の進化ですよ。
人間は技術的・科学的・医学的には進化を遂げてきたけれども、心はむしろ退化していますよ。

その証拠が戦争ですよ!

一人の人間を殺しただけでも裁判にかけられて死刑にされることがある!
人殺しは悪い事に決まっているんですよ!どういう場合でも。。。!
つまり、死刑も法律に基づいた“人殺し”ですよ!人道に反する事ですよ!

ところで、戦争で多くの人間を殺すと勇敢だと言って勲章がもらえる!
このようにして軍神になった人が日清戦争や日露戦争、太平洋戦争には居たものですよ。
僕は馬鹿馬鹿しい事だと思いますね。
こういう馬鹿馬鹿しい考えを当たり前だと思うから、原爆や水爆が作られてしまう!

ところが、ミノア文明の1200年の間には戦争がなかった!
考古学的に戦争の跡が見出されない!
詳しい事は次の記事を読んでくださいね。
『戦争はなくす事ができるものです』

ミノア文明に比べると、“すばらしい”と言われている古代ギリシャ文明や古代ローマ文明も野蛮な文明ですよね。
なぜなら、戦争が絶えなかった。
だから、ミノア人は古代ギリシャ人を野蛮人だと呼んでいた。

現代の我々の住んでいる“アメリカ文明”は、元をたどってゆくと古代ギリシャ文明に行き着きます。
この古代ギリシャ文明は心が退化して出来た文明です。
だから、それまでの1200年の間に戦争がなかったのに、古代ギリシャ人は戦争を好んでやった。そうして領土を広げていった。
“アメリカ文明”はこの古代ギリシャ文明の流れから派生しています。
そういうわけで、“戦争インフラ”を温存している!

ブッシュ大統領がこの戦争インフラを大切に温存しています。だから、中国や北朝鮮も見習っている。
この戦争インフラをなくさない限り、戦争は絶対になくなりません。
なぜなら、戦争をやらなければならない仕組みになっている!
それが“アメリカ文明”ですよ。
この戦争インフラについても、近いうちに書こうと思っています。

例によって、話がそれてしまいました。へへへ。。。。

額田女王のことなんですよね。
太平洋戦争中ならば、この女性の歌はとても活字には出来なかったですよ。
二人の天皇を手玉にして“不倫”という自由恋愛をしている邪(よこしま)な女だというレッテルを捺(お)されてしまうのが関の山です。
これを印刷して出版したら、天皇制を侮辱するものだということで特高に捕まって拷問を受けるのがオチですよ。

ところで、額田女王の歌は、雅(みやび)やかに詠(うた)っていますがね、その歌の内容はかなりきわどいものです。
この歌の相手、つまり、後の天武天皇との間に、額田女王は十市皇女(といちのひめみこ)を儲(もう)けているのですからね。
雅(みやび)な歌の裏には、情熱的な“濡れ場”が隠されています。

。。。と言っても、実は、僕はこの歌に極めて政治的なものを感じるのですよ。 
これまで、この歌の解説書を読んでも、政治的なものをこの歌から読み取ってクドクドと書いている人は、僕の知る限り一人も居ません。
つまり、この歌は愛の歌、恋の歌なんですよね。そう思われてきました。
でも、僕は、そのように単純には受け取れないのです。

なぜか?

それは、額田女王の生きた時代が極めて政治的に波乱に富んでいたからです。
“阿部定事件”について僕はかなりしつこく書いてきましたが、あの事件にも時代的な背景が色濃く出ています。
阿部定さんも時代の落とし子だったんですよね。
彼女があと10年遅く生まれていたなら、あの事件を起こしてはいなかったでしょう。

なぜなら、定さんは青春時代を大正デモクラシーの中で過ごした。
昭和11年5月5日に明治座で定さんは“つや物語”を見た。
これは泉鏡花が書いた新派の名作「通夜物語」のことです。
この原作品を定さんは読んでいたんです。
あの血なまぐさい事件は、この作品からヒントを得たと定さんは言っています。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『愛は野バラのように』

定さんが10年遅く生まれていたら、青春時代を軍国主義の中で過ごしていた事になります。
つまり、軍国の母になる教育を定さんは受けたはずなんですよね。
「通夜物語」は軍国の母になるような人の心を揺さぶるような話ではないんですよ。

要するに定さんが過ごした大正デモクラシーを無視したら、あの“阿部定事件”を語れません。
ちょうどそれと同じように、額田女王が過ごしたあの政治的な波乱の時代を無視しては、額田女王の恋愛も語れない。
僕はそう思いました。
それ程、額田女王の恋愛には、その当時の政治的な背景が色濃く出ている。

僕が初めてこの歌を読んだのは高校1年生の古文の時間だったように記憶しています。
その時、奇異に感じたのは“額田女王は、どうして後の天智天皇でなく天武天皇の子供を宿したのだろうか?”。。。と言う事だったのです。

そんな事は人の好き好きではないのか?
誰が誰を好きになるかは、もちろん人の好き好きですよね。
でも、その当時の時代的背景を無視したら、やはりこの選択も可笑しな事になってしまいます。

たとえばですよ。政治家で誰が好きか?
太平洋戦争が華々しかった頃、後に首相になった東条陸軍大臣の積極的でハキハキしているところが気に入って、やがては首相になる人だろうと考えて、東条さんを政治家で好きな人にあげた人がたくさん居ました。だから、首相にもなった。

ところが、戦後はどうか?
東条さんは負け戦を推し進めた事でずいぶんと批判された。
ゴミ箱を覗き込んで大衆の生活度を見るとか、
ピストルで自殺して死に損なった事を馬鹿にする人だとか、。。。
とにかく、人気がすっかり反転してしまった。

このように、時代的背景が人の評価にも強く影響を与えてしまう。
額田女王の相手になる人物は、二人とも後に天皇になる人物です。
言ってみれば政治的人物です。

だから、政治的な背景を無視して人物を選んだとしたら、その女性は余程の愚か者としか言いようがありません。
しかし、額田女王は“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”だった。
どの解説書を読んでも、この女性が愚かだったとは書いていません。

ところで、僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。

でも、中学校の歴史の時間は面白かった。先生が歴史が好きな事が良く分かった。その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。

ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。

そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。

“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか”

これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。

しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。

大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。

その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。

しかし、こんなひどい仕打ちを受けても、なおかつ歌心を忘れていないというところが、なかなかどうして、孝徳天皇は馬鹿にできない立派な人だと僕は感心させられます。
この時に詠んだ歌が上に示した歌です。
国文学者の吉永登さんは次のように解釈しています。

誰よりも愛していたお前を他人が奪ってしまったではないか。
お前は私を捨てて他の男のもとに走ったのではないか。

上の歌を見て、間人(はしひと)皇后が孝徳天皇を捨てたと解釈するのは間違いで、中大兄皇子によって捨てさせられたと解釈すべきだと僕は思っています。
そのように理解したうえで、上の歌をもう一度かみ締めて味わうと、次のようになるのではないでしょうか?

確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。

間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。

僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
『定慧(じょうえ)出生の秘密』

要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。

何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。

この天智天皇の政治や生い立ちを調べてゆくうちに、いろいろな事が分かってきました。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

僕が、この人物を調べながら感じた事は、天智天皇の人間としての非情さが浮き彫りにされてゆくんですよ。
それで、ハタっ。。。と思い当たったのが額田女王の歌だったわけです。
20年ぶりで額田女王の歌を調べなおしてみました。

すると、ジグゾーパズルの抜けていた箇所が埋め合わされてゆくように、天智天皇の人間像が額田女王の歌からも、よりはっきりと浮かび出てくるのです。
額田女王が、なぜ中大兄皇子ではなく大海人皇子を選んだのか?
20年以上、僕のオツムの片隅で不思議であったこの謎が氷解してゆくような思いでした。

額田女王(ぬかだのおおきみ)は建前で“性の平等”を詠(うた)っていたのです。
でも、本音では天智天皇の政治を嘆いていたんですよね。つまり、批判していたのです。
額田女王は、やはり人間を見極める目を持っていた才媛だったのです。
僕はそう思ったものですよ。

額田女王とは一体どのような女性なのか?

この女性のことを話すには莵道皇女(うじのひめみこ)の事から話し始める必要があります。
当時、高貴の人には、その人が育った土地の名をつけるという習慣がありました。
莵道皇女(うじのひめみこ)と言う名前も土地の名を取ったものです。
莵道(うじ)とは、現在の京都府宇治市のことです。

皇女(ひめみこ)ですから、天皇の娘だと言うことです。
この女性の父親は敏達(びだつ)天皇です。
母は息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘の廣姫(ひろひめ)で敏達天皇の皇后(おおきさき)でした。

同母兄に押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)がいます。
皇子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)・大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)の祖父(父方)であり、曾祖父(母方)でした。

廣姫が若くして亡くなったので、敏達(びだつ)天皇は蘇我系の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ:幼名・額田部皇女【ぬかたべのひめみこ】:後の推古女帝)を皇后に迎えました。

ところで、この莵道皇女は敏達天皇の7年に伊勢の斎王(さいおう)になりました。
斎王(さいおう)とは、天皇にかわって伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕えた女性のことです。
斎王は、天皇の娘やいとこ、天皇の兄弟の子どものなかから占いで選ばれ、都から遠くはなれた斎宮(さいぐう)にやってきました。
天皇の代ごとに斎王を選ぶきまりは、飛鳥時代から660年以上にわたって続きました。

斎王はその役目についている間は独身で居なければなりません。
そればかりではありません。絶対に男に抱かれてはダメだと言う掟(おきて)もあったのです。
斎王は、年に3度、伊勢神宮の大きな祭に参加する以外は、1年のほとんどを斎宮ですごしました。
そこで、毎日、天照大神に仕えるわけです。
斎王が役目を終えるのは、天皇が次の天皇に位をゆずった時や、天皇や斎王の親・兄弟などが亡くなった時でした。

でも、この莵道皇女は掟を破ってしまったのです。
つまり、池邊皇子(いけのべのおうじ)に抱かれたのです。
この情事が露見してしてしまい、皇女は斎王を解任されてしまったのです。

子供ができたことに気づいたのは、斎宮を退いてからのことでした。
莵道皇女にとっては初めての、そしてひどく辛い恋の結晶でした。
斎王の務めを完(まっと)うできなかったという非難が声なき声となって皇女の心に暗い染みを広げたのです。
池邊皇子には既に正妃の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:泥部穴穂部皇女【はしひとのあなほべのひめみこ】とも言われる)がおり、数人のかわいい御子(みこ)までいたのです。
その中で長男の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)は人並外れて聡明だとうわさされました。
莵道皇女の気持ちは塞がれるばかりでした。

皇女の心を気遣って、池邊皇子は彼女を莵道宮(うじのみや)に移しました。
人目が多く、あることないこと噂される大和で出産するのは地獄だったからです。
それよりも皇女が幼時を過ごした懐かしい莵道(うじ)に移った方が、皇女のためになろうとの配慮でした。

莵道皇女はようやく心静まる日々を取り戻し、そこで月満ちて安らかに御子を産んだのです。
池邊皇子は彼女とともに新生児の顔を見守りながら、つかの間の平安な日々を過ごしました。

池邊皇子というのは用明天皇の若かりし頃の名であり、皇子が莵道皇女と通じて生まれた子が鏡王(かがみのおおきみ)だったのです。
つまり、この人が額田女王の父なのです。

用明天皇の宮は『池邊雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)』と呼ばれました。
額田女王の名は用明天皇の同母妹・額田部皇女(後の推古女帝)にゆかりのものではないか、と言われています。
額田女王の母は額田部皇女の孫・山背姫王(やましろのおおきみ)とされており、こちらの縁からも額田部皇女に関わりがあります。

額田女王には『莵道宮(うじのみや)』を偲んで詠んだ次のような歌があります。

秋の野の

み草刈り葺き

宿れりし

莵道の宮処(みやこ)の

仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ

『萬葉集7』

この歌は皇極天皇(女帝:中大兄皇子の母)の代に詠んだと萬葉集の詞書(ことばがき)にあります。
額田女王の少女の頃です。
皇極天皇と額田女王は従姉妹同士で、押坂彦人大兄皇子はともに祖父に当たります。
また、莵道皇女は、この二人の女性にとって、ともに大叔母に当たります。
額田女王にとっては大叔母であると同時に祖母でもあります。

この歌はまた、皇極自身の作とも、皇極の気持ちを額田女王が代作したのだとも言われています。
そういう事から考えても皇極と額田はとても仲が良く、気持ちは通じ合っていたと思われます。
この歌の背景には、大叔母の宮をともに偲ぶ気持ちが感じられます。

ところで、額田女王は、推古女帝(額田部皇女)の曾孫でもあり、聖徳太子の姪にも当たります。
額田女王が後の宮廷でなぜあれほど尊崇されたのか、歌の才能以外にもこういう縁があったからだと思います。

なぜ、僕は額田女王の生い立ちを、このように詳しく語るのか?
それは、この女性が情愛に無関心ではいられなかった家庭の事情と、皇極女帝と仲が良く気持ちが通じ合っていた、と言う事を読むあなたに印象付けたいためなのです。
ここで一枚の絵をお目にかけます。

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かります。
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」

こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか? 
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。

かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。

上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。

「オイ!大年増のお姉さん!俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んしまって平気なンかよ!俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」

そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)ーー藤原氏のバイブル』

つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。

ここで、額田女王と皇極女帝が気心が知れた仲の良い話し相手であった事を思い出してください。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。

しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!

こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
その女性が、ただノー天気に“あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
彼女が詠んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。

額田女王が詠った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?

あなたはどう思いますか?

正解はありません!

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよ!

額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいって言うんですよ。
どうして?と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


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“縦社会” と “横社会” (再考) [日本人・日本文化]

 

“縦社会” と “横社会” (再考)

日本は“縦社会”であり、欧米は“横社会”である、と言うような事を聞いたことがありますか?
次のコメントはスマットさんが書いたものですが、
この短い文章に“縦社会”に生まれ育った人間の思考方法が極めてはっきりと出ています。

Re[2]:記事引用における著作権の取り扱い

Name: smz E-MAIL
Date: 11/14 17:53

とりあえずPREP公式側に確認を依頼しました。
第三者目線でダメということになれば何らかのアクションがあると思います。

反論ですが、わたしが書いたコメントについてですが、

1. 文章というものは文芸の範囲です。
  文章なくして、文芸をなしえません。
  あのコメントは文章であり、従って文芸の範囲にあります。

2. あれはわたしの思想を表現したものです。

1、2の両面を定義に照らせば、あのコメントは著作物です。

『Re[2]:記事引用における著作権の取り扱い』より

スマットさんは海外で暮らした事がありません。
つまり、欧米の“横社会”に住んだことがありません。

スマットさんは“縦社会” と “横社会”について聞いたことがあるかもしれません。
しかし、実際にはそのような横社会を肌で感じた事がありません。

本題に入る前にここで“畳の上の水練”ということについてちょっと考えてみたいと思います。
あなたが、もしこれまでに海外で暮らした事がないとしても、あなたは自分のことを国際感覚が無いとは思っていないかもしれません。
あなたは恐らく海外事情についてかなり知っていると思っているはずです。

なぜなら、テレビで海外の事を良く見ているから知っているつもりになっている。
映画でも、海外の事を見た事がある。
ネットでも、海外の情報が手に入る。

あなたは“畳の上の水練”と言う事を聞いたことがありますよね。
畳の上でいくら泳ぎを練習したとしても、水に入って練習しなかったら絶対に泳げないという事です。
あなただって、このことなら良く理解が出来ると思います。

つまり、実際に海外で生活してみない事には海外事情と言うのは表面的にしか分からないものです。
何度他人が泳いでいるのを見ても泳げるようにはなりません。
畳の上で手足をばたつかせても泳げるようにはなりません。
実際に水に入って泳ぎを学ばねばなりません。


あなたはゴルフをやりますか?
やる?
10年ぐらいうの経験がありますか?

あなたはテニスをやりますか?
やる?
10年ぐらいの経験がありますか?

もしそうなら、ゴルフクラブを素振りしている人を見て、
あるいはテニスラケットを素振りしているのを見て、
その人が初心者か、上級者か分かるはずです。

僕は人生の半分以上を主に欧米で暮らしています。
だから、“縦社会” と “横社会”がどういうものなのかを肌で感じて知っています。

スマットさんが書いてくれたコメントの中で触れているPREPというのは、関西地区を主なサービスエリアとしている
ブログサービス運営会社です。スマットさんも僕もこのブログのユーザーです。

“PREP公式側”と書いていますが、PREPという組織は官庁でもないし、公社でもありません。
日本の小さな一企業に過ぎない。だから、“公”ではあり得ない。
どうして、“公”と書くのか?
“PREP側”で充分ですよ!
無意識のうちに“公”は“親方日の丸”、つまり、“上位の者”という意識が働いています。

こういうところが“縦社会”に住んでいる者の発想ですよね。
要するに“上位の者にたいしてお伺いを立てました。私の言う事を取り上げてくれ、きっとあなたを懲らしめてくれるでしょう。”
そのような気持ちがスマットさんの上の文章の中に込められています。

この“お上にお伺いを立てる”という考え方は、江戸持代の“身分制度”の名残(なごり)ですよね。
あの“士農工商”という身分制度です。


その当時、この身分制度の一番上にいた武士には“切り捨て御免”という特権があった。
つまり、町人や百姓が武士に対して無礼な事でもすれば、武士は剣を抜いて町人や百姓を切り殺しても、何の咎(とが)めも無かった。
ひどい話です。
このように同じ日本人なのに“お上”は人間に上下をつけた。

もちろん、民主主義の現在にあっては、こんな非常識な話はどこの国に行っても通用しないでしょう。
でも、スマットさんは、無意識のうちに、この“縦社会”の“掟(おきて)”を持ち出して“お上(公)”にお伺いを立てたのです。
“お上”に何をして欲しいのかと言うと、僕に対して“切り捨て御免”をやって欲しいわけです。

“横社会”の人間はこの様な発想をしません。お互いに平等同等なのだから“上位の者”と言う考えは無い。
あくまでも当事者間で話の決着をつける。
“お上”を持ち出しません。

結果としてスマットさんは一体どうなったか?
すでに10日以上が経過していますが、スマットさんは、この件に関しては全く触れていません。
つまり、“お上”に無視されたわけです。

【デンマン注釈:】 
これを書いている時点で、すでに3ヶ月が過ぎようとしていますが、
スマットさんのお伺いはPREPによって無視されてしまいました。

何らかの返事が来たのなら、スマットさんは得意になって勝ち誇り、報告するはずです。
つまり、この“お上”の対応も“縦社会”の良い見本です。

“スマットよ!オマエは下々の分際(ぶんざい)で何を下らない事をほざいているんだよ!
 お上は忙しいのだよ!そんな下らない事で手を焼かせるな!”

このようにPREPは思ったのでしょうね。へへへ。。。。
スマットさんのお伺いを無視したのです!
これが“縦社会”の実態です。

日本国憲法の下では、日本人は法人も含め、法の下に平等です。
例え国を訴えても、日本国憲法の下では公人も私人も平等です。
法律的にはそうなっています。

しかし、現実には“縦社会”の日本は、なかなかそのようにはゆかない。
なぜなら、江戸時代の“負の遺産”である身分制度の名残があって、
上で僕が説明したように“縦社会”に生まれ育ったスマットさんは
無意識のうちに“縦社会”的思考にすっかりはまっています。

じゃあ、“横社会”ではどうなっているのか?

僕のエピソードをここでお話します。
カナダには全国に支店網を持っている大きなカナダの銀行が7つあります。
その一つがノバ・スコシア銀行です。

バンクーバーのロブソン・ストリートの支店に僕はアカウントを持っているのですが、
ここで働いている女子行員と借入金の限度額について交渉していた時の話です。
担当の女性は“オフィサー”という肩書きを持っていましたから、日本流に言えば個室を持っている課長級の人でしょう。

ところが、電話したのに折り返しの返事はよこさない。
僕がその事を追求したら、対応の仕方がふざけている。
僕と電話で話している最中に、同僚と冗談言って笑ったりしている。
僕が常識を持ち出して相手の非を説明したのに全く取り合おうとしない。

僕はかなり頭にきたので、本社の人事・教育担当の副社長にタラタラと苦情の手紙を書きました。
要するに訓練・教育の不行き届きですよ!と書いたわけです。
“お上”にお伺いを立てたのではありません。
僕と法の下で平等同等な副社長の責任を追求したのです。

もちろん僕はその副社長と面識はありません。
彼は僕の事も知りません。
でも、2ページに亘(わた)る丁重な手紙をもらいました。
翌日、支店長から謝罪の電話をもらいました。

つまり法の下での平等ですよ。対等ですよ。
どこの馬の骨だか分からないような僕が手紙を書いたからって、無視しません。

ところが“縦社会”では、このようには行きません。
ナイトメア・ネッツ(仮名)というブログサービスを運営している会社があります。
中国地方の小さな会社ですよ。
この社長がナイトメア・ブログの管理人をしています。

もちろん、“お上” の “縦社会思考” にどっぷりとつかっている“田舎侍”は“武士気取り” で “問答無用!”と言って、僕のブログを丸ごと“切り捨て”てしまいました。

問答無用!のあとの削除です!

この管理人が僕に対して次のような警告文をメールで送ってきました。

Subj: ナイトメア・ブログのご利用につきまして
Date: 06/11/2005 10:31:24 PM Pacific Standard Time
   07/11/2005 3:31:24 PM 日本時間
From: info@nightmareblog.jp (架空)
To: barclay1720@aol.com


ビーバーランド ネット様

この度は、当社のナイトメア・ブログにご登録いただき、誠に有難うごさいました。

弊社にてお客様サイトを確認させて頂きました。
お客様の投稿で利用規約に違反する内容がありますので修正してください。
修正が完了するまで、ポータルへ公開することが出来ません。

修正が完了致しましたら、連絡いただけますでしょうか。
連絡がいただけない場合、2週間後にサイトを削除させて頂きます。

詳細は以下を参照して下さい。

利用規約禁止事項 2.
(3)ポルノ、売春などわいせつ、わい雑な内容、倫理的に問題のあるコンテンツの表示
(5)その他、公序良俗に反する行為、あるいは社会的に不適切な行動と解される行為に違反していると判断しました。

・2005年10月28日 ビジネスに関係なく女性の下着画像を載せられている
・2005年11月03日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではありません)に対して馬鹿であると数回にわたり記述されている。
・2005年11月04日 コメントに対して>お前のようないい加減で無責任な低脳児童が日本にはたくさん居るんだよ、と返している。
・2005年11月06日 2005年11月04日の引用文掲載
・2005年11月06日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではない)に対して人間のクズという表現を使っている

この警告文に対して僕は次のような公開抗議文を書きました。

・2005年10月28日 ビジネスに関係なく女性の下着画像を載せられている


この問題の下着画像は次のリンクをクリックすると見る事が出来ます。
『問題になった10月28日の下着画像を含んだ記事』

この程度の下着画像は社会生活上から見ても、これまで全く問題にされませんでした。
日本のプロバイダーからも欧米のプロバイダーからも指摘された事はありません。

つまり、このグローバル化・国際化の時代にあって、責任者であるあなたの倫理観が時代遅れであることを物語っています。
要するに、あなたが責任者としてプロバイダーを統括する資格が乏しいものと僕は理解しています。
         
社会的に反しているのは僕ではなくあなた自身です。
教養も無く、時代に即した倫理観を持っていないあなたが責任者としてナイトメア・ブログを運営している事自体が非社会的な行為なんですよ。

つまり、こうしてあなたが僕に対して時代遅れで非国際的な倫理観を押し付けている事自体が世界のネットの発展のためにならないという事です。
ネットの現状とプロバイダーのあるべき姿をあなたは全く理解していません。

・2005年11月03日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではありません)に対して馬鹿であると数回にわたり記述されている。

“馬鹿”という言葉は法律的には全く誹謗中傷には値しないものです。
過去の判例を参照してください。
11月3日の記事の文脈から考慮しても、この言葉が非倫理的には使われていません。

責任者であるあなたの倫理観に問題があります。
グローバル化・国際化の時代の流れについてゆけないあなたの教養の無さと、“倫理観”の貧弱さがプロバイダーとしてやってゆくだけの能力の無さをあなた自身が暴露しています。

・2005年11月04日 コメントに対して>お前のようないい加減で無責任な低脳児童が日本にはたくさん居るんだよ、と返している。

この件に関しては、あなたは中立の立場にあるべきなんですよ。
このようなブログ・プロバイダーとしての基本的なことがあなたには理解できていない。

欧米でも日本でも、このことは常識ですよ。
欧米なら、さしずめ、None of your business! とあなたは言われますよ。 

つまり、コメントを書いた“Akitu”と僕の問題です。
こんな基本的なことがあなたには理解できていない!
あなたがノコノコとしゃしゃり出てくるような問題ではないのですよ。

Akituは反論していないんです。
つまり僕の指摘した事に対して非を認めているからこそ反論ができないんです。

この記事の中ですべてが言いつくされています。
つまり、僕は正々堂々と僕の信条・信念に基づいてAkituを批判しているのです。

それに対してAkituは全く反論していません。
URLも書いていないし、どう見てもAkituの書き方こそ非難されるべきで、あなたがプロバイダーの責任者として、この事実が全く理解できていないという事は非常識・無教養としか言いようがありません。

他のプロバイダーの事も良く知らず、ネットの現状の認識も浅く、まさに時代遅れなあなたがナイトメア・ブログを運営している事に驚きを感じる次第です。

・2005年11月06日 2005年11月04日の引用文掲載

11月4日の記事が問題ない以上、それを掲載した事も全く問題になりません。

・2005年11月06日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではない)に対して人間のクズという表現を使っている


              
“人間のクズ”という言葉も、法律的には“馬鹿”と同様全く誹謗中傷には値しないものです。
過去の判例を見ても問題にならないものです。

責任者としてのあなたが首を突っ込んでくる問題ではないのです!
もし、問題があるならば、当事者の間で解決するような問題です。
あなたは、このような点について全く理解していません。
     
つまり、あなたはプロバイダーとしてネット社会に貢献するような形でユーザーをサポートしていないばかりか、あなた自身の教養の無さ、法律的問題に対する理解力の無さのために、時代遅れの倫理観をユーザーに押し付けようとしている。

非常識、非社会的としか言いようがありません。
要するに、あなたはプロバイダーとしての良識と、教養を身につけていないわけです。
言論の自由という事も全く理解できていません。

あなたは日本のネットのためにも世界のネットの発展のためにも即刻プロバイダーとしての責任者の立場から身を引くべきです。
あなたの“利用規約”の解釈の仕方が時代錯誤であり、ネットの現状とネットの発展を全く考慮していません。

つまり、言論の自由を守りネット社会をオープンなものとして発展させてゆくという観点から見て、あなたの態度と倫理観が全く時代遅れになっている事をここに指摘しておきます。

この文章は責任者であるあなたとナイトメア・ブログに対する公開抗議文のつもりで書きました。
僕の指摘した点について、あなたが明確に回答する事を望みます。


このような公開抗議文を送りつけたのですが、期限の2005年11月21日までに全く返事をよこしませんでした。
つまり、僕の公開抗議文を無視したのです。
ノバ・スコシア銀行と比べたら、この会社は本当に吹けば飛ぶような小さなヴェンチャー企業ですよ。
ところが、この田舎者の社長は、“縦社会”しか知らない人物です。

そのくせ、言う事だけは“国際派”を気取っています。
もちろん、海外生活経験はゼロです。
僕はほぼ確信を持って言う事ができます!

誤解しないでくださいね。
海外生活経験が無いから人間的に劣っていると言うつもりはありません。
僕が言おうとしている事は、圧倒的に“横社会”型になりつつある世界をもっと目を開いてみたらどうなの?
。。。と言う事です。

この田舎者の社長の言う事がふるっていますよ。

GE(ゼネラルエレクトリック社)のジャック・ウィルチCEOが言っています。
「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」

... (中略)

ターゲット市場を出来るだけ絞り込んで、その市場でNo1を目指すこと。
これが重要なのです。
しかし、当社はまだ実践できていない


あたりまえですよ。
そのような“縦社会思考”にハマッている“田舎社長”が業界一位に成れるはずが無い。

「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」

このまま、“縦社会”思考にはまっていたら、遅かれ早かれ撤退する事になるでしょうね。
ユーザーに対する“横社会”型の対応が全く出来ていません。

僕に反論のある人は是非次のスレッドをじっくりと読んでから書いてくれるとうれしいです。

『ナイトメア・ブログとその責任者に対する公開抗議文!』

実はここまでの文章は
2005年11月28日の記事として書いたのです。

どうしてまた、このようにして再考する必要があるのか?

11月28日の記事に対してSO-NETのNTHAWKSさんから次のようなコメントをもらったのです。

本筋からはずれますが

>あの“士農工商”という身分制度です。

江戸時代にこういう身分制度はありません。
武士と百姓・町人の関係を中心とした
職業と身分が結びついた制度ということです。
「士農工商」というのは明治になってはじめて使われた言葉です。
現在はこういう序列で江戸時代の身分制度を考えるのは
あやまりだとされています。

by NTHAWKS (2005-11-28 20:32)

この件に関してはこれまでにかなりの議論をしました。
もしあなたが今日の記事を読んで僕にコメントを書く場合には
次の2つのスレッドをよく読んでからコメントを書いてくれるとありがたいです。
なぜなら、あなたが同じ事を蒸し返して書くことになりかねないからです。

■ 『☆ 日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論 ☆ 』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

(同じ議論はしたくない!僕にとっては時間の無駄ですから。。。。)

NTHAWKSさんのコメントに対して僕は去年の12月3日にGOOで次のような記事を書いたのです。

『“士農工商”という身分制度はなかったのか?』

この記事に対して3日前に次のようなコメントをもらいました。

驚いたので・・・ (P)

2006-02-22 21:36:42

NTHAWKSさんは間違ってませんよ。
NTHAWKSさんは身分制度が全く無かったと言ったわけではなく、職業区分と身分制度が渾然一体となったような制度だったと言いたかったのではないでしょうか。
士分をお金で買ったり、養子に入ったりして商家から侍になったり、侍よりこっちが向いていると、浄瑠璃作家になったり、商人になったりといった話が多くあるようです。まぁ、士は武士だけど役人(公務員)でもあったわけで・・・。
絶対的なと言うほど硬直した制度ではなかったってことですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86

このコメントをもらったことが今日のこの記事を書くきっかけになったというわけです。
事実上、名無しのPさんに対する返信をここに書きます。

コメントありがとう!
でも、君は歴史をしっかりと
勉強していませんよ!
驚きです! (デンマン)


2006-02-23 09:43:40

まず、僕の記事にコメントを書いてくれたことに感謝しますよ。ありがとね。

でもね、君は歴史をしっかりと勉強していませんよ!
なぜそう言えるのか?

君はURLを書いていないんだよ!

君が歴史をしっかりと勉強しており、
さらに、僕が何を言いたいのか?

そのことが知りたくて僕の記事を読んでいるならば、
君は自分のURLをしっかりと書いているはずなんですよ。

僕の上の記事にコメントを書いてくれた人たちは皆そうしている。

君だけがハンドル名もURLも書いてない!

分かる?

“士農工商”はNTHAWKSさんも認めている通り、
僕の記事の主旨からは外(はず)れているんですよ。

“本筋からはずれますが”。。。とNTHAWKSさんも書いているんですよ!

一連の記事で僕は何が言いたかったのか?
君は、この最も重要なことを読み飛ばしている!

つまり、君の“読解力”が極めて乏しいことを物語っているんですよ!
しかも、君はネチケットを知らない!ネット歴もほとんどないんだよね。
図星でしょう?へへへへへ。。。。

つまり、人間的にも極めて未熟なんですよ!

僕は日本が“縦型社会”から脱却して“士農工商”のない本当に“四民平等”の
“横型社会”にならねばならない。。。。そういうことを言おうとしたんですよ。

つまり、本当の意味で日本人一人一人が“市民意識”を持つ必要があると
僕は信じているんですよ。

その“市民意識”とは?

それは社会的に自我を確立することなんですよ。

社会的に自我を確立するとは?

それは、これまでに上の記事にコメントを書いてくれた人たちのように、
少なくとも自分のハンドル名とURLを書くことができると言うことですよ!

ところが、君には出来ない!

ハンドル名も書いてなければ、URLも書いてない!
つまり、君はまだ社会的な自我が確立していない未熟者なんですよ。

僕のいう事が理解できますか?

どうしてハンドル名を書かなかったのか?
なぜ、URLを書かなかったのか?

その理由を書いてくれると、僕にも、これを読んでいる人にも、
とっても参考になると思うんですよ。

どうですか?

社会的な自我が確立しているのなら、書けるはずですよね?へへへ。。。

僕は、君を馬鹿にしているわけではありませんよ。
余り堅苦しくなると、君が更に書きづらくなると思っておどけているんですよ。。。
うへへへへ。。。。。



そういうわけです。

君が人間性に目覚めて理由を書いてくれると、
更に有意義な記事が書けると思うのです。

どうか協力してくださいね。

とにかく、僕の記事にコメントを書いてくれてありがとう。
感謝していますよ。(マジで。。。)

じゃあね。

『“士農工商”という身分制度はなかったのか?』のコメント欄より

またお会いしましたわね。
おほほほほ。。。。
『新しい古代日本史』サイトの
マスコット・ギャルの卑弥子ざますゥ~。
これからもよろしくね。




あなたが絶対、
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面白くて実にためになるリンク




■ 『笑いが止まらない、お笑い掲示板』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『興味深い写真や絵がたくさん載っている世界の神話』

■ 『現在に通じる古代オリエント史の散歩道』

■ 『見て楽しい、読んで面白い 私版・対訳ことわざ辞典』

■ 『笑って楽しめる 私版・対訳 慣用句・熟語辞典』

■ 『辞書にのってない英語スラング』

■ 『オンライン自動翻訳利用法』


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“縦社会” と “横社会” [日本人・日本文化]

 

“縦社会” と “横社会”

日本は“縦社会”であり、欧米は“横社会”である、と言うような事を聞いたことがありますか?
次のコメントはスマットさんが書いたものですが、
この短い文章に“縦社会”に生まれ育った人間の思考方法が極めてはっきりと出ています。

Re[2]:記事引用における著作権の取り扱い

Name: smz E-MAIL
Date: 11/14 17:53

とりあえずPREP公式側に確認を依頼しました。
第三者目線でダメということになれば何らかのアクションがあると思います。

反論ですが、わたしが書いたコメントについてですが、

1. 文章というものは文芸の範囲です。
  文章なくして、文芸をなしえません。
  あのコメントは文章であり、従って文芸の範囲にあります。

2. あれはわたしの思想を表現したものです。

1、2の両面を定義に照らせば、あのコメントは著作物です。

『Re[2]:記事引用における著作権の取り扱い』より

スマットさんは海外で暮らした事がありません。
つまり、欧米の“横社会”に住んだことがありません。

スマットさんは“縦社会” と “横社会”について聞いたことがあるかもしれません。
しかし、実際にはそのような横社会を肌で感じた事がありません。

本題に入る前にここで“畳の上の水練”ということについてちょっと考えてみたいと思います。
あなたが、もしこれまでに海外で暮らした事がないとしても、あなたは自分のことを国際感覚が無いとは思っていないかもしれません。
あなたは恐らく海外事情についてかなり知っていると思っているはずです。

なぜなら、テレビで海外の事を良く見ているから知っているつもりになっている。
映画でも、海外の事を見た事がある。
ネットでも、海外の情報が手に入る。

あなたは“畳の上の水練”と言う事を聞いたことがありますよね。
畳の上でいくら泳ぎを練習したとしても、水に入って練習しなかったら絶対に泳げないという事です。
あなただって、このことなら良く理解が出来ると思います。

つまり、実際に海外で生活してみない事には海外事情と言うのは表面的にしか分からないものです。
何度他人が泳いでいるのを見ても泳げるようにはなりません。
畳の上で手足をばたつかせても泳げるようにはなりません。
実際に水に入って泳ぎを学ばねばなりません。

あなたはゴルフをやりますか?
やる?
10年ぐらいうの経験がありますか?

あなたはテニスをやりますか?
やる?
10年ぐらいの経験がありますか?

もしそうなら、ゴルフクラブを素振りしている人を見て、
あるいはテニスラケットを素振りしているのを見て、
その人が初心者か、上級者か分かるはずです。

僕は人生の半分以上を主に欧米で暮らしています。
だから、“縦社会” と “横社会”がどういうものなのかを肌で感じて知っています。

スマットさんが書いてくれたコメントの中で触れているPREPというのは、関西地区を主なサービスエリアとしている
ブログサービス運営会社です。スマットさんも僕もこのブログのユーザーです。

“PREP公式側”と書いていますが、PREPという組織は官庁でもないし、公社でもありません。
日本の小さな一企業に過ぎない。だから、“公”ではあり得ない。
どうして、“公”と書くのか?
無意識のうちに“公”は“親方日の丸”、つまり、“上位の者”という意識が働いています。

こういうところが“縦社会”に住んでいる者の発想ですよね。
要するに“上位の者にたいしてお伺いを立てました。私の言う事を取り上げてくれ、きっとあなたを懲らしめてくれるでしょう。”
そのような気持ちがスマットさんの上の文章の中に込められています。

この“お上にお伺いを立てる”という考え方は、江戸持代の“身分制度”の名残(なごり)ですよね。
あの“士農工商”という身分制度です。


その当時、この身分制度の一番上にいた武士には“切り捨て御免”という特権があった。
つまり、町人や百姓が武士に対して無礼な事でもすれば、武士は剣を抜いて町人や百姓を切り殺しても、何の咎(とが)めも無かった。
ひどい話です。
このように同じ日本人なのに“お上”は人間に上下をつけた。

もちろん、民主主義の現在にあっては、こんな非常識な話はどこの国に行っても通用しないでしょう。
でも、スマットさんは、無意識のうちに、この“縦社会”の“掟(おきて)”を持ち出して“お上(公)”にお伺いを立てたのです。
“お上”に何をして欲しいのかと言うと、僕に対して“切り捨て御免”をやって欲しいわけです。

“横社会”の人間はこの様な発想をしません。お互いに平等同等なのだから“上位の者”と言う考えは無い。
あくまでも当事者間で話の決着をつける。“お上”を持ち出しません。

結果としてスマットさんは一体どうなったか?
すでに10日以上が経過していますが、スマットさんは、この件に関しては全く触れていません。
つまり、“お上”に無視されたわけです。

何らかの返事が来たのなら、スマットさんは得意になって勝ち誇り、報告するはずです。
つまり、この“お上”の対応も“縦社会”の良い見本です。

“スマットよ!オマエは下々の分際(ぶんざい)で何を下らない事をほざいているんだよ!お上は忙しいのだよ!そんな下らない事で手を焼かせるな!”

このようにPREPは思ったのでしょうね。へへへ。。。。スマットさんのお伺いを無視したのです!
これが“縦社会”の実態です。

日本国憲法の下では、日本人は法人も含め法の下に平等です。例え国を訴えても、日本国憲法の下では公人も私人も平等です。
法律的にはそうなっています。しかし、現実には“縦社会”の日本はなかなかそのようには行かない。
なぜなら、江戸時代の“負の遺産”である身分制度の名残があって、上で僕が説明したように“縦社会”に生まれ育ったスマットさんは無意識のうちに“縦社会”的思考にすっかりはまっています。

じゃあ、“横社会”ではどうなっているのか?

僕のエピソードをここでお話します。
カナダには全国に支店網を持っている大きなカナダの銀行が7つあります。
その一つがノバ・スコシア銀行です。

バンクーバーのロブソン・ストリートの支店に僕はアカウントを持っているのですが、
ここで働いている女子行員と借入金の限度額について交渉していた時の話です。
担当の女性は“オフィサー”という肩書きを持っていましたから、日本流に言えば個室を持っている課長級の人でしょう。

ところが、電話したのに折り返しの返事はよこさない。
僕がその事を追求したら、対応の仕方がふざけている。
僕と電話で話している最中に、同僚と冗談言って笑ったりしている。
僕が常識を持ち出して相手の非を説明したのに全く取り合おうとしない。

僕はかなり頭にきたので、本社の人事・教育担当の副社長にタラタラと苦情の手紙を書きました。
要するに訓練・教育の不行き届きですよ!と書いたわけです。
“お上”にお伺いを立てたのではありません。
僕と法の下で平等同等な副社長の責任を追求したのです。

もちろん僕はその副社長と面識はありません。
彼は僕の事も知りません。
でも、2ページに亘(わた)る丁重な手紙をもらいました。
翌日、支店長から謝罪の電話をもらいました。

つまり法の下での平等ですよ。対等ですよ。
どこの馬の骨だか分からないような僕が手紙を書いたからって、無視しません。

ところが“縦社会”では、このようには行きません。
ナイトメア・ネッツ(仮名)というブログサービスを運営している会社があります。中国地方の小さな会社ですよ。
この社長がナイトメア・ブログの管理人をしています。

もちろん、“お上” の “縦社会思考” にどっぷりとつかっている“田舎侍”は“武士気取り” で “問答無用!”と言って、僕のブログを丸ごと“切り捨て”てしまいました。

問答無用!のあとの削除です!

この管理人が僕に対して次のような警告文をメールで送ってきました。

Subj: ナイトメア・ブログのご利用につきまして
Date: 06/11/2005 10:31:24 PM Pacific Standard Time
   07/11/2005 3:31:24 PM 日本時間
From: info@nightmareblog.jp (架空)
To: barclay1720@aol.com


ビーバーランド ネット様

この度は、当社のナイトメア・ブログにご登録いただき、誠に有難うごさいました。

弊社にてお客様サイトを確認させて頂きました。
お客様の投稿で利用規約に違反する内容がありますので修正してください。
修正が完了するまで、ポータルへ公開することが出来ません。

修正が完了致しましたら、連絡いただけますでしょうか。
連絡がいただけない場合、2週間後にサイトを削除させて頂きます。

詳細は以下を参照して下さい。

利用規約禁止事項 2.
(3)ポルノ、売春などわいせつ、わい雑な内容、倫理的に問題のあるコンテンツの表示
(5)その他、公序良俗に反する行為、あるいは社会的に不適切な行動と解される行為に違反していると判断しました。

・2005年10月28日 ビジネスに関係なく女性の下着画像を載せられている
・2005年11月03日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではありません)に対して馬鹿であると数回にわたり記述されている。
・2005年11月04日 コメントに対して>お前のようないい加減で無責任な低脳児童が日本にはたくさん居るんだよ、と返している。
・2005年11月06日 2005年11月04日の引用文掲載
・2005年11月06日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではない)に対して人間のクズという表現を使っている

この警告文に対して僕は次のような公開抗議文を書きました。

・2005年10月28日 ビジネスに関係なく女性の下着画像を載せられている


この問題の下着画像は次のリンクをクリックすると見る事が出来ます。
『問題になった10月28日の下着画像を含んだ記事』

この程度の下着画像は社会生活上から見ても、これまで全く問題にされませんでした。
日本のプロバイダーからも欧米のプロバイダーからも指摘された事はありません。

つまり、このグローバル化・国際化の時代にあって、責任者であるあなたの倫理観が時代遅れであることを物語っています。
要するに、あなたが責任者としてプロバイダーを統括する資格が乏しいものと僕は理解しています。
         
社会的に反しているのは僕ではなくあなた自身です。
教養も無く、時代に即した倫理観を持っていないあなたが責任者としてナイトメア・ブログを運営している事自体が非社会的な行為なんですよ。

つまり、こうしてあなたが僕に対して時代遅れで非国際的な倫理観を押し付けている事自体が世界のネットの発展のためにならないという事です。
ネットの現状とプロバイダーのあるべき姿をあなたは全く理解していません。

・2005年11月03日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではありません)に対して馬鹿であると数回にわたり記述されている。

“馬鹿”という言葉は法律的には全く誹謗中傷には値しないものです。
過去の判例を参照してください。
11月3日の記事の文脈から考慮しても、この言葉が非倫理的には使われていません。

責任者であるあなたの倫理観に問題があります。
グローバル化・国際化の時代の流れについてゆけないあなたの教養の無さと、“倫理観”の貧弱さがプロバイダーとしてやってゆくだけの能力の無さをあなた自身が暴露しています。

・2005年11月04日 コメントに対して>お前のようないい加減で無責任な低脳児童が日本にはたくさん居るんだよ、と返している。

この件に関しては、あなたは中立の立場にあるべきなんですよ。
このようなブログ・プロバイダーとしての基本的なことがあなたには理解できていない。

欧米でも日本でも、このことは常識ですよ。
欧米なら、さしずめ、None of your business! とあなたは言われますよ。 

つまり、コメントを書いた“Akitu”と僕の問題です。
こんな基本的なことがあなたには理解できていない!
あなたがノコノコとしゃしゃり出てくるような問題ではないのですよ。

Akituは反論していないんです。
つまり僕の指摘した事に対して非を認めているからこそ反論ができないんです。

この記事の中ですべてが言いつくされています。
つまり、僕は正々堂々と僕の信条・信念に基づいてAkituを批判しているのです。

それに対してAkituは全く反論していません。
URLも書いていないし、どう見てもAkituの書き方こそ非難されるべきで、あなたがプロバイダーの責任者として、この事実が全く理解できていないという事は非常識・無教養としか言いようがありません。

他のプロバイダーの事も良く知らず、ネットの現状の認識も浅く、まさに時代遅れなあなたがナイトメア・ブログを運営している事に驚きを感じる次第です。

・2005年11月06日 2005年11月04日の引用文掲載

11月4日の記事が問題ない以上、それを掲載した事も全く問題になりません。

・2005年11月06日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではない)に対して人間のクズという表現を使っている


              
“人間のクズ”という言葉も、法律的には“馬鹿”と同様全く誹謗中傷には値しないものです。
過去の判例を見ても問題にならないものです。

責任者としてのあなたが首を突っ込んでくる問題ではないのです!
もし、問題があるならば、当事者の間で解決するような問題です。
あなたは、このような点について全く理解していません。
     
つまり、あなたはプロバイダーとしてネット社会に貢献するような形でユーザーをサポートしていないばかりか、あなた自身の教養の無さ、法律的問題に対する理解力の無さのために、時代遅れの倫理観をユーザーに押し付けようとしている。

非常識、非社会的としか言いようがありません。
要するに、あなたはプロバイダーとしての良識と、教養を身につけていないわけです。
言論の自由という事も全く理解できていません。

あなたは日本のネットのためにも世界のネットの発展のためにも即刻プロバイダーとしての責任者の立場から身を引くべきです。
あなたの“利用規約”の解釈の仕方が時代錯誤であり、ネットの現状とネットの発展を全く考慮していません。

つまり、言論の自由を守りネット社会をオープンなものとして発展させてゆくという観点から見て、あなたの態度と倫理観が全く時代遅れになっている事をここに指摘しておきます。

この文章は責任者であるあなたとナイトメア・ブログに対する公開抗議文のつもりで書きました。
僕の指摘した点について、あなたが明確に回答する事を望みます。


このような公開抗議文を送りつけたのですが、期限の11月21日までに全く返事をよこしませんでした。
つまり、僕の公開抗議文を無視したのです。
ノバ・スコシア銀行と比べたら、この会社は本当に吹けば飛ぶような小さなヴェンチャー企業ですよ。
ところが、この田舎者の社長は、“縦社会”しか知らない人物です。

そのくせ、言う事だけは“国際派”を気取っています。
もちろん、海外生活経験はゼロです。
僕はほぼ確信を持って言う事ができます!

誤解しないでくださいね。
海外生活経験が無いから人間的に劣っていると言うつもりはありません。
僕が言おうとしている事は、圧倒的に“横社会”型になりつつある世界をもっと目を開いてみたらどうなの?
。。。と言う事です。

この田舎者の社長の言う事がふるっていますよ。

GE(ゼネラルエレクトリック社)のジャック・ウィルチCEOが言っています。
「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」

... (中略)

ターゲット市場を出来るだけ絞り込んで、その市場でNo1を目指すこと。 これが重要なのです。 (しかし、当社はまだ実践できていない


あたりまえですよ。
そのような“縦社会思考”にハマッている“田舎社長”が業界一位に成れるはずが無い。

「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」

このまま、“縦社会”思考にはまっていたら、遅かれ早かれ撤退する事になるでしょうね。
ユーザーに対する“横社会”型の対応が全く出来ていません。

僕に反論のある人は是非次のスレッドをじっくりと読んでから書いてくれるとうれしいです。

『ナイトメア・ブログとその責任者に対する公開抗議文!』

では、よろしく。
あなたのご意見・ご批判をお待ちしています。


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自分に自信と誇りが持てない日本人 [日本人・日本文化]

自分に自信と誇りが持てない日本人

「デンマンさん、日本人は本当に自分に対して自信と誇りが持てないのですか?」
「もちろん日本人すべてが自信と誇りを持っていない、と言うつもりはありませんよ。ただ、欧米人と比べて自分というものを前に出そうとしない所がありますよ」
「確かに自分の意見をはっきりと述べない人が多いですよね」
「ジューンさんもそう思うでしょう?」
「でも、そのことと自分に自信と誇りを持つことと関係があるのですか?」
「日本人が自分を前に出そうとしない、自分の意見をはっきりと人前で言わない、というのは日本人の気質にも関係するけれど、自分自身に自信と誇りを持つことができない、という事とも大いに関係があると思うよ。この事をジューンさんに分かりやすく説明するために数年前に起こったある殺人事件のことをここで話そうと思う」
「殺人事件ですか?その事件が日本人の自信と誇りに関係あるのですか?」
「ちょっと見ただけではあまり関連性がないと見えるけれど、じっくり見てゆくと大いに関係がある」
「どのような事件なの?」
「もう、多くの日本人の記憶から忘れ去られているかもしれない。春奈ちゃん(2歳)殺害事件というのがこの事件の呼び名ですよ。またの名を“お受験殺人事件”。 この名前を聞けば思い出す人もいるかもしれない」
「2才の女の子が殺されたの?どうして?」
「この事件は平成11(1999)年11月に起きたんだ。加害者は山田みつ子という当時35才の主婦。その動機や背景事情は、いろいろとマスコミでとりざたされた」
「まだ2才という、いたいけな子供をどうして殺したりしたの?とても信じられないわ」
「春奈ちゃんには5才のお兄ちゃんがいる。その子と加害者の息子がおない年で、同じ幼稚園に通っていたんだ。ところが春奈ちゃんのお兄ちゃんは、なにかにつけて良くできるのに、加害者の息子はできが良くなかった。母親どうしのサークルでは、そのことが加害者に劣等感を植えつけた。しかも加害者の目には春奈ちゃんのお母さんが彼女をのけ者にしているように思えた」
「さか恨みじゃないの?」
「そんなわけで二人の母親は仲が悪かった。そんなある日、二人は激しい口論になった。とにかく加害者はもう我慢がならない限界にまできていた。本来ならば春奈ちゃんの母親を殺すところなのだが、それができずに憎悪の対象が春奈ちゃんに向けられたらしい」
「そんな!それは、あまりにひどすぎるでしょう。子供には何の落度もないわ」
「11月22日、東京の文京区にある音羽幼稚園から春奈ちゃんを連れ出し、近くの公衆便所へ連れてゆきスカーフで絞め殺したんだ」
「いやだわ!普通の神経の持ち主には、とてもできないわ。被害妄想に陥っていたんじゃないの?」
「そうかもしれない。しかし裁判を受けられないほどの精神異常者ではなかった。死体を旅行カバンに詰めて静岡県の田舎にある実家へ行き、裏庭に穴を掘って、そこへ春奈ちゃんの遺体を埋めた」
「計画的な犯行だったのね?」
「そういうことのようだ。彼女の裁判は世間の注目を集めた」
「それはそうでしょう!そんなひどいことをしたのだから」
「58人だけしか収容できない傍聴席に、なんと800人近くの人が押し寄せたんだ」
「一体なぜ、そんなひどい事したのか、本当に知りたかったんでしょう?小さい子を持つ親にしてみると他人事ではないわ」
「そうかもしれない。しかし、ずいぶんと暇な人がいるんだね?」
「それで、本当の動機はなんなの?」
「加害者は春奈ちゃんのお母さんとの精神的なもつれ、不和だと言っている」
「もっと深い理由があるんでしょう?」
「しかし、裁判では加害者はあまり詳しいことを言ってないんだ」
「でも、この話しを持ち出したからには当然『お受験』との関わりがあるんでしょう?」
「もちろん!実は春奈ちゃんは有名な幼稚園の『お受験』に合格していたんだ。一方、加害者の娘は落ちてしまった」
「加害者はひけめを感じ、劣等感に悩まされていたわけね?」
「たぶん、そうだと思う」
「でも、そんなにしてまで有名幼稚園に通わせねばならないの?」
「一部の母親はそう思っている。ジューンさんは受験戦争ということ聞いたことあるだろう?」
「ええあるわ?それに、デンマンさんと、そのこと話したことあるじゃない」
「そうだった。何年か前は一流大学を出れば一流会社に就職できた。でも今は、一流大学を出ても、昔みたいに絶対安泰な会社はなくなっちゃった。一流会社も倒産する時代だからね」
「それなのに、まだお母さんたちは幼稚園から子供に一流のところに行かせようとするの?」
「日本のほとんどのお母さんたちは、それほどの教育ママではない。ただ東京、横浜、大阪などの大都市に住んでいるお母さんたちの中には、とりわけ教育に熱心な人たちがいる」
「それ、本当に子供のためを考えているのかしら?母親自身の見栄じゃないの?」
「ジューンさんもだいぶ日本人の心が分かるようになったんだね?」
「それはそうよ。最近、日本人のことについて書かれた本をかなり読んでいるもの。でも、あたしは、受験戦争というのは大学へ入学する時だけだと思っていたわ」
「そうじゃないんだ。幼稚園からある。もちろん、だい部分の親たちは、そんなに有名な幼稚園に子供を入学させるわけではない。近くの幼稚園や保育園で充分だ。義務教育制度があるから入学試験など受けずに誰でも小学校や中学校にゆける」
「それなのに、幼稚園から入学試験を受けさせて有名校へやる親たちがいるのね?」
「そうなんだ。数は少ないとはいえ、そのための準備を引き受ける『お受験』のための塾がかなりある。そのような塾がやってゆけるというのだから、かなりの親たちが子供を塾に通わせていることになる」
「いったい幾らぐらいかかるの?」
「参考までに、ある『お受験』準備サイトの御案内情報をここに載せてみるね」

●どうしても合格させたいコースは2歳からあります。
 (入学金7万円・月謝2万円)

●完全必勝コースは月謝10万円(入学金別)。
 塾生は模試の費用が割引されます。

●どんな様子か体験したい方は冬季講習会や
 模擬テストを受けることができます。

●春休み・夏休みの集中コースもあるので参加するのも一つの方法でしょう。

●毎月ある模擬テストは1回8千円、4回2万8千円、8回4万8千円です。

●春季講習会は6日で7万円、3日で3万円。塾生には約2割引の特典があります。

●入試直前講習、1回体験教室もあります。
 しかし、定員があるので事前申込みが必要です。

●特定の有名私立校コース、特別強化コースもあります。入会金7万円、月謝6万円。

●国立小週2回コースは入学金7万円、月謝5万円です。

●必勝コースなら入学金・月謝・特別講習・強化コース(合宿)と
 模擬テスト・直前コースなどあわせて1年間で約150~200万円ほど必要でしょう。

「どうですかジューンさん?」
「なんだか、すごいですね!どうも、うまい言葉が見つからないわ。あきれるというか、驚きとういか……カナダの幼稚園は只ですよ。もちろん教育委員会が運営しているんだけれど。幼稚園のための塾もないし、特別な教育費は全くかからない」
「日本もそうなるといいんだけれど。しかし、そうなったところで、教育ママゴンは依然として私立の有名幼稚園へ子供をやるだろうと思う」
「どうして?」
「何年か前は一流大学を出れば一流会社に就職できた。だから一流会社を望むなら、一流幼稚園から始めることも理屈に合う。でも今は、一流大学を出ても、昔みたいに絶対安泰な会社に就職できなくなった。前にも言った通り、一流会社も倒産する時代だからね」
「それなのにどうして?」
「ジューンさんが言ったように、親の見栄が大きな理由だとおもう。一流大学を出たところで何の保証があるわけでもない。それでも一流幼稚園から始まって、一流大学を出させるということは、自分が果たせなかった夢を子供に託すという意味があると思う」
「しかし、それにはずいぶんと時間とお金がかかるでしょう?」
「しかし母親たちはそのことに意義を見い出している。有名幼稚園に子供が受かったということが親には喜びであり誇りとなる。その当時『お受験』という映画までできた。このことからみても『お受験』というのは多くの日本人にとってかなりの関心事なんだ」
「でも、有名幼稚園に入っても、子供が果して一流大学を出るかどうかは全く分からないでしょう?それなのに200万円も出して塾へやるだけの値打ちがあるのかしら?」
「ジューンさんはブランド思考ということを知っている?」
「ええ、聞いたことあるわ。イタリアへいって、GUCCIのハンドバッグを買ってそれを持ち、いい気分にひたる。そういうことでしょう?」
「その通り」
「カナダ人やアメリカ人にもそういう人がいないわけではないけれど、日本人はそれが特にひどいわね。あたしなんかブランド品なんて一つも持っていないわ。安くていいもの、ただその一言につきるわ!だいいちGUCCIのハンドバッグを持ったからっていい気分になれないし、そんなものを持ったところでステイタス・シンボルにはならないもの」
「たぶん多くの日本人が自分に対して自信を持てなくなったんだと思う。自分に一体誇れる物があるだろうか?多くの人がそんな風に自問しているんじゃないかな?」
「それで?」
「てっとり早く誇れる物を持つのはブランド品を買うことだ。ブランド品を持っていれば他人が羨ましがるのではないか? 生活が豊であることを認めてくれるのではないか? そんな風に考えてブランド品を買うのではないだろうか?」
「そんなに日本人は単純なの?」
「なかには、そういう人もいる。しかしブランド品では満たされない人もいる。そういう母親はどうするかというと、有名幼稚園へ我子をやる。ブランド品にお金を使うよりも有意義だと思うからだ」
「でも結局ブランド指向と変わりないでしょう?」
「でも『お受験』に夢中な親にはそのことが分からないに違いない。そんなわけで、相変わらず子供を有名幼稚園にやる親があとをたたない」
「有名幼稚園って、本当に良い幼稚園なの?」
「中には良い幼稚園もあるだろうとは思うけれど、本当に幼稚園の良さを理解してん入園させている親が一体何人いることか?僕は疑問に思っている」
「たとえば、どういう幼稚園が有名なの?」
「お茶の水大附属幼稚園などは知名度がある」
「どんな利点があるの?」
「学校の授業で脱落しなければ、女の子はお茶の水附属高校へ無試験で入学できる。男の子の場合は、中学3年で放り出される」
「どうして?」
「お茶の水附属高校は女の子だけ。しかし入試を受けずにエスカレーターに乗るように上級学校に進むということは生徒にとって楽ではない」
「なぜ?」
「幼稚園とか小学校から無試験で上がってくる生徒は、中学入試、高校入試を経て入ってくる秀才には、とてもじゃないが太刀打ちできない。なかには、みじめな思いで学校生活を過ごさないといけない生徒もでてくる。それに国立の学校(教育学部の実験校)というのは、受験対策など全然しないのが普通。担任の教師は実験授業で忙しいか、出張不在。こんな状況下でもなおかつ大学入試において抜群の成績を上げるのは、ひとえに高校入試や中学入試で学力の高い生徒を集めるからなんだ」
「お茶の水大学というのは女の子にとっては憧れなんでしょう?」
「ある種のブランドとして考えている親たちもいるらしい。でも、お茶大ブランドはあてにならない。それは、自信のない男子大学生は、自分より明らかに優秀な女子学生を好まない。花嫁修行のつもりで娘を大学にやるというのは時代錯誤もはなはだしい」
「それでも、お茶の水大附属幼稚園へ入園させるという親たちがいるわけね?」
「もちろん、なかには教育の内容の良さを理解して入園させるという親たちもいるかもしれない。しかし、問題なのは、娘のために『お得』だとおもって『お茶大附属』を『お受験』させる親がいることだ。『お茶大附属・父母サロン』に親たちが憧れを持ち、夢を見ようとしているなら、それは見栄、虚栄心以外の何ものでもない。それは不幸の始まりだとしか言いようがない」
「つまり、自分に自信と誇りを持つことがどういうことなのか?そういうことをじっくりと考えてないってことなのね?でしょう?」
「そういうことです」
「日本人の精神レベルが向上しないと、また第二の春奈ちゃん事件が起きるかもしれない、ということですね?」
「僕もそう思いますよ」


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昔むかし、日本は人種の坩堝だった? [日本人・日本文化]

昔むかし、日本は人種の坩堝だった?

ノルウェーの探検家・人類学者のトール・ヘイエルダールさんが1947年に、上の絵のような、いかだ舟コンティキ号(Kontiki)によって、南米からポリネシアまでの約7千キロにわたる太平洋横断航海して世界から脚光を浴びたことがあります。
でも本当に、こんな筏で、7,000キロも漂流したんでしょうか?嵐に出会ったらひとたまりも無く、粉々に分解してしまいそうにみえますねェ。でも、何とか無事に航海を果たしました。

彼は1936年に調査のためにマルキーズ諸島を訪れた際、ポリネシア人の起源が西方にあるとの定説に疑問を抱き、南米から移住してきた可能性があると提起しました。自説を実証するために南米のインディオが用いたバルサ材のいかだを復元し、コンティキ号と名づけ漂流実験を行なったんですね。そして、見事実証しました。

このことからも分かるように、古代人は私たちが考える以上に海のハイウエイを頻繁に利用していたんですね。マヤ人が、太平洋を島伝いに航海して、インドネシアに漂着したということも、決して不可能ではありません。また、バリ島から黒潮に乗って日本へやってくることも十分に考えられます。

マスコットガールの卑弥子がご案内いたします。


主な潮流 (Major Ocean Currents)
1 - Gulf stream
3 - Laborador current
7 - North equatorial current
8 - North equatorial counter current
9 - South equatorial current
10 - South equatorial counter current
11 - Equatorial counter current
12 - Kuroshio current
14 - Alaska current
16 - California current

上の地図で見るとおり、海にはたくさんのハイウエイが走っているんですね。7号ハイウェイの北赤道海流に乗ると、これは黒潮と合流して間違いなく日本へ着いてしまいます。また中国沿岸沿いにも海流が日本を目指して流れていて、このハイウェイに乗ってやってきたのが、例の鉄砲を日本へもたらしたポルトガル船だったというわけです。

海洋民族は、風の吹く方向、雲の動き、海面の波の様子、鳥の飛行状態、漂流物、海水の色、匂い、透明度などから、これらの海のハイウエイを的確に見出して航海するといわれています。私たちがちょうど地図を見てナビゲートしながら高速道路を通って目的地へ行くようなものです。海にあまりなじみの無い生活をしている現代人には、想像もつかないほど、彼らは、この海のハイウエイを利用して、交易や、文化の交流を深めていたようです。

原日本人南方起源説

卑弥子さんが説明してくれたような理由で、この学説を主張する研究者がかなりいますが、それも上のような説明を聞くと納得が行きます。
しかし日本人の起源を調べてゆくと、それほど単純に決め付けることが出来ないのですね。
南方だけ見ていたのでは分からないことがたくさんあるんです。私たちが、毎日使っているこの日本語の中に古代、日本が人種の坩堝であった証拠が隠されているのです。
では日本語の起源をたどると、どういうことになっているのでしょうか?

ということで現在までにいろいろと出揃った学説を大きく分けてみると、およそ次の3つの分野に分かれて研究が進められてきたようです。

1.) 起源説:ある言語とその起源を同じくしている。
  
 A.) 北方起源説

     一番有力なのがウラル・アルタイ語です。
     韓国・朝鮮語は、言語タイプでいうと
     膠着語(助動詞や助詞が名詞・動詞・形容詞
     などの自立語のあとに、膠でくっつけたように
     貼り付けられる)であり、モンゴル語、トルコ語、
     満州語などと共にウラル・アルタイ語族を
     形成しています。

     語頭に重子音がこない、文法上の性がない、
     冠詞がない、前置詞ではなく後置詞を用いる、
     疑問文では文末に疑問の助詞がくる、
     などの共通点があります。      

     これが定説のようになっています。
     これには理由があります。
     新村出や金田一京助などの超大物が
     基本的に受け継いだ学説であるためです。      

     金田一京介はこう述べています。
     「文法がほぼ一致する上に、
     音韻組織にも重要な共通点があるとすれば、
     この上は、語彙の確実な一致さえ見出される
     ならば、国語はアルタイ語族に属することが
     実証されるわけである」      

     ところが、この「語彙の一致」が見出されないのです。
     さらに、現在では、ウラル語とアルタイ語を
     一まとめにする立場も保留されており、
     アルタイ語族そのものの成立も疑われてます。
     
 B.) 南方起源説     

     これが、このサブタイトルに掲げた
     原日本人南方起源説です。
     いわゆるオーストロネシア語(南方諸島の
     言葉)が日本語の起源であるとする学説です。
     これは、先ほどの卑弥子さんの説明からも
     十分に可能性があります。

     つまり、筏や丸木舟に乗ってやってきた南方人
     によって彼らの言葉ももたらされたというわけです。    
     また、奇抜な学説ではインドのタミル語が
     日本語の起源ではないかという説もあります。

     今のところ、日本語との間に規則的な音声対応が
     成立し、姉妹関係にあるのがわかっているのは
     琉球語だけだということです。

2.) 重層論:ある地域の言語に別の地域の
         言語が積み重なった。

 A.) 二重層説

     基層となる言語の上に、あとからきた言語が重なって
     上層となり、両者が混合(たとえば、
     基層語の文法の上に上層語の語彙がはめ込まれた)
     して現代日本語の源ができあがったという説です。

     これには「南方語の上に北方語」というパターンと、
     その逆とがあります。
     前者は、ロシアの言語学者ポリバーノフが
     「日本語は南方的的要素と西の大陸的な
     朝鮮語(および他の東アジアの大陸の
     アルタイ的諸言語)との共通の要素との混合
     である」と1924年に唱えたことから
     注目されるようになりました。

     この説によると、縄文時代には琉球から九州、
     西南日本にかけて南東系の言語が使われていたが、
     縄文晩期か弥生初期に朝鮮半島経由で
     アルタイ・ツングース的な言語が九州に渡来し、
     しだいに骨格である文法は北方系、中身の語彙は
     南方系である原始日本語が生まれたというのです。

     これに対して、全く逆パターンの説では、
     「日本列島には縄文時代の末期、
     アルタイ語的な言語が話されていた。
     そこへ優れた稲作文化を担った南島語族が
     オーストロネシア語をもたらした」と述べています。   

     いまのところ、どちらが基層語かの決め手は
     ないようです。
  
 B.) 多重層説

    この説は次のように主張するものです。

    i) 日本語・朝鮮語・アイヌ語の母胎となる
      「古極東アジア語」があった。

    ii) 6000年ないし7000年前に
      インドネシア・カンボジア系の言語が流入した。

    iii) 紀元2、3世紀に、稲作とともに中国の
       江南地方からビルマ系の言語が流入した。

    iv) 紀元前後から、現代まで中国語が影響を
       及ぼしてきた。

    この説は人類学・考古学の定説と矛盾するのが
    問題とされており、今のところ受け入れられて
    いないようです。      

    考古学上の定説に従うと、日本列島には
    縄文時代の1万数千年にわたり、アイヌ人を含む
    南方モンゴロイド系の縄文人が住んでいました。
    紀元前200ないし300年ごろ、
    北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたのです。
    この考え方と矛盾するわけです。      

    もちろん、この考古学上の定説といわれて
    いるものも絶対ではありません。
    最近では諸説入り乱れており、
    考古学上の新説が迎えられれば、
    当然のこととしてこの多重層説も
    見直されるでしょう。

3.) 国内形成論:縄文時代の言語から原日本語とも
            いうべき弥生語が出来上がった。
   
 A.) 邪馬台国が言語でも畿内方言を制服した。
     北九州に発生した邪馬台国の言語の
     担い手が東進し、畿内方言を制服して
     日本祖語を形成した、というものです。

     しかし、外来民族の渡来を考慮していないために、
     この説はあまり受け入れられていないようです。

 B.) 「本土縄文語」と「琉球縄文語」
     これに対し、渡来人の存在とその影響を
     肯定しつつも、縄文語の有力な方言の
     一つから弥生語が形成されたという説もあります。
     縄文語の北九州方言が渡来人の言語の
     影響を受けて弥生語となった、
     と考えているわけです。      

     九州・関西・関東・東北の方言から
     「本土縄文語」を、奄美・沖縄・宮古・
     八重山の方言から「琉球縄文語」を復元し、
     両者の比較から「原縄文語」を再構成しようと
     試みています。   

母音について振り返ってみると。。。

『いろは51文字に隠された秘密』で説明したように、昔の日本人は2重母音を現在よりも頻繁に使っていました。一体どこから入ってきて、なぜ、現在あまり使われなくなったのだろうか?

しかしこの疑問に答えることはさして難しいことではないのです。というのは、お隣の国の朝鮮語を考えてみれば、大体回答をつかむことができるのです。日本古代史の本をめくって見ずとも、弥生時代以後、朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来たことは歴史的な事実として多くの人の認めるところです。

しかし、「朝鮮」と言う時、人によっては、この言葉を差別用語と考える人が居るかも知れません。確かに、両国が常に仲がよかったというわけではありませんでした。朝鮮人に対する差別ということもありました。関東大震災の時に、朝鮮人が大量に虐殺されたことなどは、その一例です。

このような問題は非常に重要なことですが、しかし、ここでは言語について考え、そのような問題は別のページで取り上げたいと思います。

いずれにしても、地理的に見て、朝鮮半島と日本の関係は先史時代から切っても切れない関係にありました。昔は、朝鮮半島と日本は、文字どうり陸続きで結びついていたわけです。そういうわけで、朝鮮半島の文物は、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えてきました。このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然なことです。

例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように書かれています。しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドウ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法があって、古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記していたのです。

したがって、日本の万葉仮名はこの吏読からヒントを得て作られたと考えたほうが自然です。万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。このため現代の国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。しかし、韓国人が万葉集を読むと、日本の専門家でなければ区別できない甲類と乙類を、一般の人でもごく簡単に区別することができるそうです。

実際、研究者の中には、古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、現在の韓国のように、さらに3つの異なる母音「イエオ」があったのではないか、と考えている人たちもいます。

現在の韓国語には10種類の単母音と、2つ以上の母音が合成されてできた複合母音が11種類あります。古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。古代日本語は古代朝鮮語から強い影響を強く受けていましたから、たくさんの母音があったとしても不思議ではありません。実際、前のページで見たように、確かに現在よりも多くの母音があったわけです。

どうして今に残ってないの?

日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの血が交じり合ってできあがった民族です。このことは、上で述べた日本語の起源を探る研究からもよく分かります。

要するに、『日本語』というのは、その起源を探るだけでも簡単にかたずかないわけです。それはなぜかといえば、地図の上で見るとこれ程狭いちっぽけな日本にも、先史時代あるいは古代を通して、いろいろな土地からさまざまな人間が渡ってきたからです。

当時の日本列島は19世紀から20世紀にかけて、新大陸のアメリカを目指して、ヨーロッパから続々と移民が押し寄せて行ったように、いわば人間の掃き溜めのようになっていた観がありました。そのよい例が、滅んだ呉からやって来た人たちです。

呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。

隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。必ず戦乱がつき物です。すると、当然のことながら難民が出ます。これは何も、古代にかぎったことではありません。ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?

サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。

それで結論は?

したがってどういうことが言えるかというと、この当時の日本では、もうさまざまな言語や方言が混在していたのです。しかも、ペルシャ人やユダヤ人までがやって来ていました。このように言うと、論理の飛躍じゃないかと思われるかもしれません。そのように思われる人のために、特別なページを用意したので読んでください。

■ 飛鳥とシルクロード
■ ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た
■ 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話
■ 聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた

古代においては、朝鮮半島の影響は言語学的にも非常に強いものがあります。しかし、その影響力を撥ね退けるほどの言葉や、方言の混在を考えない限り、今日のように日本語に母音が少なくなったのかどうしてなのか?を説明することができません。

中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違うので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に変わっていったと考えられます。つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられるわけです。現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音です。言語や方言を異にするさまざま人たちの共通母音になったわけです。

現在、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

名古屋地方の人たちが、「野球でもやるきゃぁ」とか「宿題やるみゃぁ」と言うのも、昔使われたヤ行の2重母音が現在に残っている例です。

また、母音の例ではありませんが、東北地方の田舎に行くと、まれには聞くことがあります。「おら、東京さいぐだ」

これは文章中の清音が濁音になる例です。この方言とよく似た発音が韓国語、特に、古代の新羅に当る朝鮮半島南東部の慶尚道地方の方言に現存しています。これなどは、奈良時代にはもっと広い地域で多くの人によって、このように話されていたのでしょう。「おら、都さいぐだ」

しかし、他からやって来た人たちの耳には、ちょっとばかり、いただけない発音だったのでしょう。そんなわけで、だんだんと廃れていって、東北地方だけに残るようになったようです。


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