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2ちゃんねるとピアノの魔術師 [音楽、民謡、童謡、クラシック、歌謡曲、ポップス]

2ちゃんねるとピアノの魔術師

“ピアノの魔術師”

聞いたことがありますか?
上の写真のオッサンがそうなんですよ。

オッサンなんて言うと、このピアニスト・作曲家のファンは怒り出すかも知れませんよね。
うへへへへ。。。

でも、良く見ると、この風貌は“魔術師”と呼ばれるにはふさわしいと思いませんか?
なんとなく、怪しげな。。。
女であれば“魔女”と呼ばれそうな。。。
いや、顔のことだけで、その人物のことをとやかく言うのは邪道ですよね。
失礼いたしました。

僕はとりわけ音楽が好きだと言うわけではありません。
でも、一応音楽の常識的な知識は小学校・中学校を通して勉強させられました。
(つまり、テストがあったから。。。両親が勉強しろ、と言ったわけじゃない!)
とにかく、音楽はずっと“5”をもらっていました。
うしししし。。。。

小学校の時には“合奏部”に入っていて、あの大きなコントラバスを椅子の上に立って弾いていたものです。
中学の時には合唱部に入らされて、好きでもない歌を歌わされました。
高校の時には、その反動で美術を取りました。
大学に入ると、なぜか急に“乙女の祈り”にハマッテしまい独習でピアノを習い、その曲を弾いたものです。
今から思い返せばメチャクチャな演奏だったはずですよ。

なぜ“乙女の祈り”にハマッタのか?
それは、このかわい子ちゃんが僕が中学1年生の時に全校生徒の前で“乙女の祈り”を演奏したのですよ。
小学校の時は6年間隣のクラスに居た女の子だったのです。
この女の子と話をしたことは一度もなかったのに、この“乙女の祈り”が終生忘れられない曲になったのです。

それで、大学に入ってから、ピアノを独習で何とか弾けるようになって、
この“乙女の祈り”を弾いた。(僕はそう信じ込んでしまった!)
それで初めて迎えた大学の夏休みに、このかわい子ちゃんに電話して僕の演奏を聞いてもらったのですよ。

まあ、何と言うか。。。当時の僕が、かなりの心臓の持ち主であったことは確かですよね。
(今でも、そういうところがありますよ!うしししし。。。そうでなければ、海外生活が人生の半分以上を占めることは無かったでしょうね。)

しかも、驚いたことに、そのかわい子ちゃんは僕の演奏を聞いてくれたのですよ。
この女の子に面と向かって言葉を交わしたのも、会ったのも、その時が初めで最後。
こんな話をしたって、誰も信じてくれそうにありませんが。。。、

事実なんですよ。
この事については、すでに興味深い記事を書きました。
面白いから暇があったら次のリンクをクリックして、ぜひ読んでみてくださいね。
『ん? クラシック興味ある?』

どうしてこういう話をしたのか?
つまり、僕がリストのオッサンぐらい知っていますよ、と言いたくてわき道にそれたのですよ。
うへへへへ。。。
勿論、専門的なことは何も知りませんが。。。

フランツ・リスト(Franz Liszt)と言うのがこのオッサンのフルネームです。
1811年10月22日に生まれ、
1886年7月31日に亡くなっています。
ハンガリー生まれのドイツ人音楽家で、今日では特にピアニスト・作曲家として知られていますよね。
当時随一のピアノ音楽の巨匠として有名で、演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われています。
また交響詩の創始者としても知られています。

父親はオーストリア(ドイツ)系ハンガリー人でハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていました。
母親はオーストリア人でした。
家名の本来の綴りは List で、Liszt とはそれをマジャル語(ハンガリー語)化した綴りだそうです。
マジャル語では“sz”の綴りでs音を表します。
ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc または Ferencz)であるけれど、
リスト自身はこのハンガリー名を一度も使ったことがない。

ハンガリー語というのは中国語や日本語のように姓を先に書くんですよ。
HUNGARY の HUN とは、あの有名な“フン族”からとったと言う説があります。
つまり、現在ハンガリー人というのはヨーロッパ系民族になっていますが、
われわれの祖先にモンゴル人の血が入っているように、
ハンガリー人のなかにもモンゴル人の血が流れているらしい。

そういう訳かもしれませんが、ハンガリー人は他のヨーロッパ諸国の人に比べると、
東洋人に対する偏見が少ないようです。
僕がブダペストに滞在した時にマリアちゃんと親しくなりましたが、
たぶん、そのような偏見が余り無いので友達になれたのだと思うのですね。。。
容貌は東洋的な感じが少しはありましたが、髪は金髪でしたね。

僕はマリアと呼んでいましたが、Maricaと綴っていたように記憶しています。
外国語はどの国の言葉でも初めはとっつきにくいものですが、
マジャル語は、とりわけとっつきにくかったです。
だから、マリアちゃんとも英語で話していたのですが、
3単現(3人称、単数、現在形)のSを使いませんでしたね。

She do this.
He love me.

このように話していましたよ。
つまり、日本語のように3単現のSが無いのだと思います。
だから、言葉にも東洋系の流れがあるのではないか。。。?
そう思ったものです。

リストは、民族としてのマジャル人の血をほとんど引いていないようです。
また、生涯マジャル語(ハンガリー語)を話せなかった。
そういうわけで、今日では多くの音楽辞典がドイツ人と書いています。
でも、ハンガリーでは、同国の音楽の中興に尽くしたと言われ、名誉あるハンガリーの音楽家として尊敬されています。

なぜ、このオッサンが魔術師と呼ばれるのか?

演奏技術と初見に関しては比類なき能力を持っていたと言われているんですよ。
どんな曲でも初見で弾きこなしたそうです。
今だに彼を超えるピアニストは現れていないとすら言われています。

その余りある技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。
でも、それはちょっとオーバーじゃないか?
要するに、それ程の魔術師だったらしい!

ところが、ショパンの練習曲作品10だけは初見で弾きこなすことができなかった。
そのことが気になったためか、リストはパリから突如姿を消してしまった。
どうしたんだろうか?
友人たちはそう思っていた。
数週間が過ぎた頃にリストが戻ってきた。
そして、ピアノに向かって全曲を弾きこなした。

そのことに驚嘆したショパンが、練習曲作品10をリストに献呈したという有名な話が伝わっています。

ところで、どうして僕がこのオッサンのことを書く気になったのか?
なぜなら、
太田さんから、本のコピーを送ったと言うメールをもらったんですよ。
。。。で、次の本のコピーを受け取ったのです。

前奏曲集
ー私はアマチュアであるー
作品 1の2

Les Préludes
Je Suis Amateur
Opus 1.2
by Masahiro Ota

著者: 太田将宏
初版: 1989年7月
改定: 2006年5月

幾冊か、もらった内の最新版です。
いつも興味深く読んでいるので、さっそく手にとって読み始めたのです。
最初の章に次のように書いてありました。

0.0 Prélude

(前略)

もともと、言葉の網目は音楽のnuanceをすくいあげるのには粗すぎるので、
音楽そのものについて直接的に表現されたものはすべて嘘である。
例えば、F.Lisztは、二つの深淵の間に咲いた可憐な花、などと L.v.Beethovenの
Klaviersonate in cis-moll (Op.27,Nr.2)の第二楽章を表現していたが、
もし、私が、同じ曲に違ったimageを感じたら、何か私が間違っているのであろうか。

仮に、Lisztがそのように感じた事実は事実であったとしても、
それを言ったり書いたりすることは全く無意味である。
それを、私は、言い(書き)っぱなしという。

それは、Lisztの自分自身に対する事実であって、
必ずしも音楽に対する事実ではないからである。
気障に気取って他人に話すような事ではない。

私は、これをローマン派の甘えと言いたい。
現代の音楽評論にも、作品につけ、演奏につけ、この類の文章が多すぎる。

(中略)

慇懃無礼に言って、Lisztのような文章を書くことは、私の手に余る。
私たちの出来ることは、音楽を聴いて、
客観的な事実に基づいて考えたことを記すことでしかない、と自覚しようではないか。

蛇足(コーダ):

昨今、自分史などを書いている人がいる、と聞いているが、いい気なものだ、と私は思う。
私は、自分のことなどを書いても仕方がない、と考えている人間である、と自分で思っている。
ただ、それを書くまいとしているわけではないので、書くこともあるかと思うが、そんな場合でも、むしろ、自分そのものではなく、その対象のほうに重きがあることを、ここで、明言しておきたい。


『前奏曲集』の 101ページより抜粋

太田さんから送られた『前奏曲集』を手にとって、すぐパラパラとめくって読み始めました。
初めに目に付いた箇所が上の引用部分だったのです。

いつものように太田さんらしい文章だと思いながら、興味深く読みましたよ。
太田さんの言っていることは実に良く分かります。

実は僕は、これまでに日本に住んでいる人と僕の書いたブログの記事について、かなりやりあったんですよ。
“ネチケット” 
“国際化”
“グローバル化”
“2ちゃんねるの匿名性”
。。。

参考のために、いろいろと議論した話題のリンクをこの記事の末尾に貼っておきます。
暇があったら読んでみてください。

話題はいろいろとありましたが、とにかく、議論がかみ合わない。
僕自身は、太田さんが言うように“客観的な事実に即して”、つまり、根拠を述べながら議論を進めているつもりなのですが、
僕の書いていることが極めて主観的で、
“カナダ(欧米)かぶれして、日本人の平均的な思考とは離れまくっている”
---そういう感想をしばしば聞いたものです。

つまり、Liszt を“最近の若い日本人”と代えて太田さんの文を借用して書き直せば次のようになるんですよ。



仮に、(ネチケットを)“最近の若い日本人”がそのように感じた事実は事実であったとしても、それを言ったり書いたりすることは全く無意味である。
それを、私は、言い(書き)っぱなしという。

それは、“最近の若い日本人”の自分自身に対する事実であって、必ずしもネチケットに対する事実ではないからである。
気障に気取って他人に話すような事ではない。
私は、これを“井の中の蛙”の甘えと言いたい。現代のネット評論にも、掲示板につけ、ブログにつけ、この類の文章が多すぎる。

2ちゃんねるをネットだと思い込み、それがネットの基準になってしまっている。
日本のサイトを4年前から覗くようになって、僕はそう感じているんですよ。
僕は2ちゃんねるの匿名性を良しとするのは、いわば日本でネットをしている日本人のLiszt的な受け止め方なんですよね。
その2ちゃんねるの匿名性が世界のネットの基準---“名無し”で発言することが
当然のことと考えてしまっている人がたくさん居る事に驚いてしまいましたよ。

しかし、この匿名性は、日本でも裁判になって2ちゃんねるが敗訴しています。
それ以来、2ちゃんねるは“匿名で”書くことはできても、書いた人の
IPアドレスは2ちゃんねるの管理人が保存する義務があるという判決が下りました。

それ以前は、投稿した人の身元が分からないように、つまり、完全な匿名性を保つために、すべての記録を抹消していた。
でも、現在ではそれは出来なくなった。

要するに、完全な匿名性を維持する事は許されないと言うことです。
当然のことです。

表現の自由・言論の自由と言う“コイン”の裏側には “責任を持って書く”と言う義務が書いてある。
この義務を忘れて権利だけを主張するのは近代市民の条件に反することですよね。
僕は、そう信じています。

簡単に言えば、コメントを書く時には、あなたのホムペかブログのURLをしっかりと書くと言う事ですよ。
このようなことは僕にはネチケットの基本だと思うのですが、
そう思っていない人が日本人には多いんですよね。

つまり、書いたことに対して責任をとると言う姿勢があるならば、
(UALをしっかりと書いてコメントを書くならば)
僕は内容はどんなものでもかまわないと思っています。

仮に、Lisztがそのように感じた事実は事実であったとしても、
それを言ったり書いたりすることは全く無意味である。

大田さんはこのように書いていますが、自分の書いたことに対して責任を持って書くのであれば、
Lisztが何を書いても僕はかまわないと思っています。

極端なことを言えば、匿名で無責任に殴り書きをした落書きさえ
次に示すように歴史的に見れば意味を持つこともある。

『ポンペイ・エロチカ ローマ人の愛の落書き』



とりわけ自然で開放的な性愛を謳歌した数々のグラフィティには
大らかな古代人の息吹きが感じ取れて微笑ましい限り。
オーラル・セックスやパイデラスティアー、レスビアニスムス、
マスタベーション等々の自由奔放な表現は、
現代の日本社会よりノビノビとしていて、
古代ローマ人を羨ましく思う人さえ居ることでしょう。
ただし誤訳が散見されるので、出来れば
イタリア語の原書を直接お読みになるか、
注釈のラテン文にしっかりと目を通しながら
お読みになることをお奨め致します。

『ポンペイ・エロチカ』より

匿名で無責任に書かれた落書きが2000年を経た今日、
こうして歴史的に意味のある1冊の本になってしまう。

でもね、たとえば、どんなにすばらしい記事を(あるいは本を)読んだとしても、
ある一部の人にとっては太田さんが次に書いているように全く“猫に小判”と言う人だって居るのですよね。

1.2 Georg Philipp Telemann

(前略)

音楽に快楽主義を持ち込んだ。Mozartは厭だ。
---とは、I. Xenakisの言葉であるが、
私には、それはむしろ、G.P. Telemannや、
近代では、Serge Prokofieffのことではないか、と思われるのである。

音楽に快楽的な一面、あるいは要素があるのは私も認めるが、
いや、私自身がそれを楽しみに音楽を聴くことも多いのかもしれないが、

一方、何を聴こうが、何を読もうが、自分の生活、人生、それに対する姿勢には影響ない、関係ない、といった種類の人たちと一緒にされたくはない、と言う気持ちが私にはある。
(草子地: とはいえ、そうした人たちにも、人間としての可能性がある、ということは信じたいけれど)。


『前奏曲集』の 105ページより抜粋

太田さんの本はクラシックについての本ですが、
僕はクラシックについては良く勉強したことがないのですよ。

クラシックの専門家であれば、太田さんの本からもっと専門的なことが書けるだろうけれど、
僕は、このようにしか太田さんの書いた本を消化できない。
また、これで充分だと僕は思っているんですよ。

太田さんも書いているように、
“とはいえ、そうした人たちにも、人間としての可能性がある、ということは信じたいけれど”

僕は太田さんが意図したようには太田さんの本を読めないかもしれないけれど、
“僕の世界”の中で、このように太田さんの本を消化して記事を書くことが出来る。

どんなすばらしい本を書いたとしても、ある人にとっては、“猫に小判”としか映らない。
また、書いた人のことを “いい気なものだ” と感じる読者だって居る。
そういう人が出てきても当然ですよね。

なぜなら、人間はさまざまだからです。
十人十色!
つまり、どのようなことを書いてもいいのですよね。

上で紹介したローマ時代のポンペイの落書きは
2000年後に、我われが読むのに充分な興味と関心を引き起こしてくれる。
つまり、歴史的に意味のあるものになっている。

ここで司馬遼太郎さんの言った言葉を再度引用します。

“作品は作者だけが作るものではないんやでぇ~。
作者と読者の共同作業なんやでぇ~。”

正に名言だと思いますね。

いくらすばらしい作品を作者が書いたつもりで居ても、読者にそのすばらしさが伝わらなかったら、その作品は駄作です。
つまり、50%の作者の能力と知性と教養と人生経験と50%の読者の能力と知性と教養と人生経験が合わさって、その作品は100%の真価を発揮できるものだと言うことでしょうね。

要するに作者は読者が分かり易いように書く。
読者は作者の言おうとすることを充分に汲み取る

しかし、残念ながら、作者と読者の共有できる能力と知性と教養と人生経験がなかったら
作者の意図することが充分に読者に伝わらない。

それにもかかわらず、読者に理解させるのが作者の力量でしょうね。
つまり、エピソードや具体例を書いて経験不足の読者に分かり易く書く。

でも、上のポンペイの落書きのように
その時には下らないものでも、
もし、読む人の能力と知性と教養と人生経験が豊かであるならば、興味深い意味のある読み物となることもある。
つまり、読者は作者の言おうとしている以上の内容を読み取ることも可能です!

こうして考えてくれば、どのような事でも書いて意味のあるものではないか?
そう思いませんか?

ただし、例外があります。
ネットでのスパムコメントです。

土足で上がりこんで来るなと言うのに、土足で上がり込んで来る。
それが、迷惑スパムコメントです。
記事の内容にこだわりなく、メッタやたらにコメントを飛ばす。
これは世界のネチケットに反することですよね。

これ以外なら、原則として何を書いても良いのではないか?
もちろん、アダルトサイトでないサイトにアダルト用のコメントを書くのはまずいですよね。
これもネチケット違反ですよね。

あなたも、迷惑スパムだけはしないで下さいね。

では、また。。。

ィ~ハァ~♪~!



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おほほほほほ。。。。
また、出てまいりましたわぁ。
ネットには面白い人が居るものでござ~~ますわね。
やっぱし、長生きをするものでござ~♪~ますわよ。
まさか、平成時代になって、
これほどの愚か者を目にするとは
思いませんでしたわああああ~~~。
ヴァイアグラのお馬鹿さんって、
すごいですわよねぇ~。
ほんとうに一生懸命に
お馬鹿をやっているんですものねぇ~。
GOOGLEで“ヴァイアグラ馬鹿”を検索すれば、
デンマンさんが書いた、たくさんの記事を読めますわよ。
その馬鹿さに感心させられてしまいますわぁ~。
でも、同じ努力をして
毎日記事をセッセセッセと書くならば、
1日10万人の人に読まれますわよ。
だって、デンマンさんはスパムコメントも書かないし、
スパムトラバクも飛ばしていないのですわよ。
宣伝らしい事は記事にリンクを貼るだけ。。。
それだけで1日に、
のべ4万5千の人に記事が読まれているんですのよ。
ヴァイアグラのお馬鹿さんは日本語が読めるのですわよ。
でも、記事を読んで学ぼうとしないのですわよねぇ~。
だから、馬鹿なのよゥ!
おほほほほ。。。
言いたいことを言ってしまいましたわ。
いづれにしても、
日本の良さをお忘れなく!
そういうわけで、あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』をぜひ読んでくださいましね。
絶対に読んでね。
ダメよ、見なかったら。。。めっ。。。
うふふふふふ。。。。
失礼いたしましたああああああ。。。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。


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ん? クラシックと津軽じょんがら節? [音楽、民謡、童謡、クラシック、歌謡曲、ポップス]

ん? クラシックと
津軽じょんがら節?

クラシックというのは当然の事ですが大衆音楽ではないですよね。
では大衆音楽というのはどのようなものなのか?
まず民謡があげられるでしょうね。

つまり文字通り英語で訳せば“folk song”ということになりますよね。
“民の歌”です。

でも、“歌”と“謡”の違いとは?
歌はあなたにも分かりきっていますよね。
歌謡曲の“歌”です。
でも、この“歌謡曲”の中にも“謡”が含まれています。

この“謡”とはいったい何なのか?
実は僕も詳しく知りません。
“謡”と聞いて、すぐに連想したのがテレビの大河ドラマで見たシーンです。

織田信長が桶狭間の合戦に出陣する前に、
例の“人間~♪~五十年~♪~。。。”と歌いだして踊るあの謡曲のことでした。
これを歌い終わるや、死を覚悟して奇襲に望むというものでした。
現在の我々には、あまり縁のない、あの唸(うな)るように歌う謡曲です。

ちょっとネットで調べたら次のように説明されていました。

謡とは。。。
歌舞劇である「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うもので、
古くから稽古事として人気を博しています。

『1から始める謡』より

つまり、「能」のセリフとコーラス部分を独自の節に合わせて歌うものの事です。

つまり民謡とは、民話や当時の事件や出来事を物語風にして独自の節に合わせて歌うもののようです。

では、クラシックとは何だろう?

ここで、太田将宏さんの本から引用します。

そもそも、昔は、作曲された音楽はorder-madeであったのだ。
それが不特定多数の市民が対象とされるようになって、
音楽はprêt à porterとなった。
作曲と演奏が分離、分業になったのは、このころではなかったか。
その方が生産、販売共に効率が良かったのであろう。

現代では、音楽は大量生産され有料、無料で配布されている。
身尺に合わないready-madeのお仕着せに、
どのような音楽を聴いてもambivalentな気持ちがするのは、
私だけではあるまい。

それはまた、一つ一つの製品に限った話ではない。
私は、演奏会や音楽会を提供する側、
製品に付加価値をつけようとする側のarrangement、

つまりprogrameについても同様に感じる故に、
めったに演奏会場に足をはこばないのである。
そうした違和感は、皮肉なことではあるが、自分で選択した音楽を、
自分で配列した順序でレコードで聴けば、幾分かは軽減される事に私は気がついた。
それ以上を求めるのならば、自作自演をして、
つまり自分で作曲をして自分で演奏して自分で耳を傾けるしか手が無いであろう。

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。
だから、私は久しくPacific231に対しても反感すら持っていた。

Arthur Honegger (1892-1955)自身はこの作品について、
彼はこの曲で内燃機関の騒音を模倣しようとしたのではなく、
むしろ視覚的印象や身体的快感を表現した、と語っていた。




page 69 『前奏曲集 (あるアマチュアの覚書) 作品1の1』より


つまり、クラシックというのは、
昔、ヨーロッパのお金持ちの貴族や王族が
お抱え“音楽士”に作らせた曲だったわけですよね。
当然の事ですが、その“音楽士”は注文してくれた紳士の好みに合った曲を作るはずです。

要するに大衆向けの曲を作るのではなく、
その注文主の好みに合った、趣味に合った、感性に合った曲を作る。
まさに、order-madeだったわけでしょうね。

だから、ある人のorder-madeの服を僕が身につけた場合、
袖が長すぎたり、襟首が窮屈だったりしますよね。
僕は、このことを考えた時に、どうしてクラシックが
僕のオツムの中に感覚的にすっきりと入ってこなかったのかが理解できたような気がしました。

要するに、クラシックとはヨーロッパの貴族の感覚と好みに合わせて作った服のようなものです。
そんな服を僕が着たとて身尺に合わないことなど分かりきっていますよね。
まずダブダブだろうと思います。
江戸時代に和服だけしか来たことがない日本人が初めて洋服を身に着けるようなものですよ。

ところが、日本人の中には、いかにもクラシックが分かっているような気になって
“高尚な気分”に浸(ひた)っている“文化的田舎者”がたくさん居るように思います。
たとえば、ウィーン・フィルハーモ二ーが演奏するモーツァルトの曲の演奏会が
東京オペラシティコンサートホールであるとします。
2万円の特別席を予約した。

何のためか?

この特別席を予約した28才の山田太郎君は26才の花子さんに
自分の“文化的な面”を印象付けるために4万円を支払ったのです。
つまり、4万円のデートです。

太郎君はモーツアルトが分かっているわけでもない。
クラシックを聴くなんて1年に1度か2度です。
それも、たまたまテレビでやっていたベートンベンの第五を見るようなものです。
最後まで見ないで途中でサッカーの実況放送にチャンネルを切り替えてしまいました。

花子さんだって、モーツアルトが分かっているわけじゃない。
でも、モーツアルトの名前には、いかにも“文化的な香り”が漂っている。
演奏会に行くなんて花子さんには経験が無い!
しかも、モーツァルトの曲を世界でも有名なウィーン・フィルハーモ二ーが演奏する。
東京オペラシティコンサートホールへ行くなんてカッコイイ。
しかも、モーツァルトという名前が“高尚”である。

最高級のGUCCIの香水をつけるような、なんとも言えない文化的な香りが漂っている。

もちろん、それが太郎君の思惑(おもわく)なのです。
そうやって、太郎君が花子さんとのデートを演出したわけです。
つまり、たくさんの人が東京オペラシティコンサートホールへ高い入場料を払って聴きに行った。
しかし、そのうちの一体何人が本当にクラシックを理解して聴きに行ったのか?

たぶん、80%の入場者は太郎君のような“下心”を持って
相手を誘って出かけて行ったのではないでしょうか?
腹の中では、音楽なんかどうでも良いと思っているのですよね。
うへへへへ。。。

こういう考え方をするのは、僕がクラシックが分からないので、ひがんでいるのでしょうか?
それで、このような心の曲がったことを書いているのでしょうか?
あなたはどう思いますか?

ところで、演奏会で思い出しましたよ。
僕にも似たような思い出があるのです。
でも、状況はまったく違うものでした。
誘ったのは僕の方ではなく、女性から誘われたのです。うへへへへ。。。。

。。。と言っても、鼻の下を伸ばすような話ではないんですよ。残念ながら。。。

当時、ぼくは“ナショナルソフト”という
松下通信工業が100%出資していたソフトウェアの子会社で働いていました。
日本が経済大国に向かって伸びている時だったので、ソフトウェア業界は人手不足でした。

そのようなわけで、僕はその会社にストレートで引きぬかれて、
“無試験”で松下産業の正社員となり、
出向で松下通信工業に配属され、
そのまた出向でナショナルソフトに出向いて働いていたのです。
この“ナショナルソフト”は間もなく“パナファコム”に吸収合併されてなくなりますが。。。

僕を誘った女性は松島優子(仮名)さんでした。
僕よりも1年前に入社した早稲田大学の理工学部数学科を卒業した人でした。
どちらかと言えば目立たない地味な人でした。
“お友達と一緒に見に行くつもりが、急に行けなくなったのだけれど、一緒に行きませんか?”
当日そのように言われたんですよ。

もちろん、僕が“お目当て”で、そのような手の込んだことをする人か?と言えば、
決してそのようなレンゲさんタイプの女性ではないんですよ。
確か神奈川県民ホールだったと思います。
当時そのホールはできて間もなかったと思います。
海岸通りにありました。
今、ネットで調べたら次のように出ていました。

神奈川県民ホールは1975年に全国屈指の大型文化施設として、
県立音楽堂は1954年、日本初の本格的音楽専用ホールとして誕生。
以来国際レベルの音楽や舞台芸術など、多彩なプログラムを提供しております。

間違いなく、県民ホールです。
ただ、ハンガリー国立フィルハーモ二ーだったか?ウィーン・フィルハーモ二ーだったか?
とにかく有名な交響楽団で指揮者も有名な人だったですよ。カラヤンだったろうか?
調べてみたけれど、そこまでは分かりませんでした。

僕はクラシックにハマッテいたわけではありません。
でも6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で述べたように、クラシックとまったく無縁であったわけでもありません。
有名なフィルハーモニーの演奏を聴きに行くと言うよりも、
優子さんに誘われたと言うことが僕には“衝撃的”なことだった。
仕事が終わる頃に誘われたのでした。
彼女の方が1年先輩のわけですし、それまで親しく話しをしたと言うわけでもない。
でも、優子さんにまったく関心が無かったか。。。?と言えば、やはり関心がありましたよね。

当時、同期に入社した女性が3人居ました。
東京学芸大学を出た良子(仮名)さん、
学習院を出た淳子(仮名)さん、
それに横浜国立大を出た小百合(仮名)さん。
この中で最も僕と気が合って、よく話をしたのは良子さんでした。

この3人は、どちらかと言えば、まだ子供っぽいところがあって、
僕もけっこう馬鹿やるほうですから、面白おかしく楽しくやっていましたよね。
でも、優子さんは1年先輩だと言うだけなのに、“お姉さん”という印象を与える人でした。
とっつきにくいと言うわけではない。
でも、ベラベラ話をすることもないし、
ゲラゲラ笑うことも無く、おっとりとして、地味で静かな人でした。

そういう人から誘われたわけですよね。やっぱり、意外というか。。。どうして。。。?
“ん? 僕とですか。。。?”
“ええ、他に用事でも。。。?”
“いや、別に。。。”

そういうわけで、その日残業もせずに優子さんと東横線の綱島駅から出かけたわけです。
でも、無料の残業食は松下通信工業のカフェテリアで食べてから出かけたように記憶しています。

。。。で、あまり話をしない人かと思っていたけれど、
話し始めれば、優子さんはいろいろと話題の豊富な人でした。
話をしていても、話題に事欠かなかったし、きまづい沈黙などまったくありませんでしたね。

でも不思議なことに音楽のことはほとんど話さなかったですね。
意識して話さなかったわけではなく、話題が音楽とは関わりの無い方向に行っていたと言うことです。
優子さんが常に“お姉さん”のように、おっとりと構えていたので僕も気楽に話をすることができました。
その時の曲目が何であったのか、まったく記憶にありません。
そういうわけですから、曲を聴いた感動もまったく無い!
きれいサッパリ音楽の思い出はまったく無いんですよね。
今、振り返ってみても、自分で馬鹿らしくなるほど、音楽の記憶がまったく無い!

自分でチケットを買って行くのなら、音楽を聴きに行くと言うつもりにもなったのでしょうが、
誘われて音楽を聴きに行く。
はっきり言って、当時僕にとってクラシックなんてどうでも良かったですからね。

なぜ、出かける気になったのか?
意外にも優子さんに誘われたと言うことと、この人ってどういう人なんだろうか?
それだけが動機だったと言っていいのです。

ただはっきりと記憶に残っているのは、演奏会が終わった後、
僕は夜食をとろうと言い出して彼女を誘ったのです。
それまで、僕は1円も出していませんでしたから、
お礼を兼ねて食事でも。。。というつもりでした。
当時、僕は松下通信工業の男子寮に居ました。
門限は12時ですが、僕の部屋は1階にありましたから12時を過ぎても問題は無いんですよ。
窓から入れますから。。。

彼女は自宅から通っていました。
つまり、両親の家から通っていました。
“もう、遅いから家に帰りますわ。また別の機会に。。。”
良家の子女の“たしなみ”。。。
そういう事が、ごく普通に守られていた時代だったんですよね。

もちろん、食事をしてから温泉マークに行くことなど僕は考えてもいませんでしたよ。
そういう考え方が全くオツムに思い浮かばなかったのか?
それは考えとしてそういうこともあるよなあああ~。。。とは思いましたよ。
しかし、考えることと、実際に行動を起こすこととは、全く次元の違う話です。

あなたと僕が思うことをすべて実行にうつしただけでも、
この地球上は私生児であふれかえってしまいますからね。

優子さんと個人的に話したことは、それが初めで最後でした。
僕は間もなく会社をやめて海外に出てゆきましたから。。。
“別の機会”は、あれから20年以上になりますが、まだありません。

上の記事の中で書いた恵美子さんの場合もそうですが、
僕と音楽との思い出には必ずと言っていいほど女性がつきものなんですよ。
ところが、なぜか最初で最後。。。と言うことになっているケースがほとんどなんですよね。
女性と音楽。。。
ロマンの題材としては面白いのですが、
音楽に関する限り、女性がつきものであるにもかかわらず僕には女性との縁が無いのです。

なぜこのようなことを書く気になったのか?
それは、僕とクラシックの関係を象徴しているように思えたからです。
それを敷衍(ふえん)すれば、クラシックと民謡の関係もうまく説明できるのではないのか?

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。

ここで僕は、上の太田さんの言葉をもう一度噛み締めてみたのです。

僕は6月13に日に書いた記事(『ん? クラシック興味ある?』)の中で次のように述べました。

“たかが音楽、されど音楽、
 それ以上でも以下でもない。”


。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。



ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。

『ん? クラシック興味ある?』より

あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
なぜなのか?
“昔の民衆の創造性”とは、具体的にどのようなものなのか?

その答えを見出すために、僕は“津軽じょんがら節”の成り立ちを遡(さかのぼ)って行ったのです。

津軽じょんがら節は津軽民謡の代名詞のようなものですが、
元は新潟・十日町市の「新保広大寺」という唄だと言われています。

これは広大寺の和尚・白岩亮端の時代に起きた農地の耕作権をめぐる土地争いが原因で、
広大寺の和尚を追い出すために歌った「悪口唄」でした。
それが越後で大流行し、やがて越後瞽女(ごぜ)のレパートリーとなります。
これが全国に流行するのですが、それが津軽化したものが「じょんがら節」です。

津軽でも民衆の心に長く記憶される事件が起こりました。
慶長2(1597)年、南津軽郡浅瀬石城主・千徳政氏が、大浦為信に滅ぼされたのです。
しかし、政氏の死後も為信は追討をやめず、ついに政氏の墓まで暴こうとします。

その戦いで炎上した千徳氏の菩提寺・神宗寺の僧・常椽(じょうえん)は、
それを抗議する意味をこめて本尊を背負って、
上川原に身を投げたと言います。すさまじい話なんですよね。
こうした悲劇を歌った口説節が、じょんがら節であると言います。

つまり、民衆の中から沸き起こった歌なんですよね。
11代にわたって津軽の東の山根に繁栄した千徳家が滅亡。
落城とともに神社・仏閣がすべて焼き払われる。

この時千徳家代々の菩提寺である神宗寺に奉仕していた常椽和尚が、
先祖代々の位牌を背負って逃げた。
ところが、捕らえられそうになったので
白岩の断崖から浅瀬石川(上川原)に身を投じて一生を終えたのです。

年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた遺体を砂の中にみつけ、
村人が相談して墓をつくり、ねんごろに弔ったと言われています。
その後、その場所を常椽川原(じょうえんがわら)と呼ぶようになったそうです。
それから毎年、お盆には常椽川原に集まり供養をし、
代々の城主をはじめ先祖の霊を慰め、
常椽和尚を偲ぶために即興で歌われたのが「津軽じょんがら節」の始まりだと言われています。

常椽川原もいつしか上川原(じょうがわら)となり、更には「じょんがら」と言われるようになったわけです。

つまり、“民衆の創造性”から生まれた唄というものは、
もともとのクラシックのようにorder-madeではなかったのですよね。
民衆の中から沸き起こった歌。
血と汗と涙。。。
そのような苦労の中で民衆の口により歌い継がれて現在の我々にまで知られるようになった。

現在の僕が、あれだけハマッタ“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのに、
“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられる。
それは、やはり、この唄が血と汗と涙の中で民衆によって受け継がれてきたからではないのか?

芸能プロダクションがミーハーの歌手を育てて広めたわけでもない。
そうやって金儲けをするために歌われてきたわけではない。
テレビやラジオで宣伝して広めたわけでもない。
演奏会や、音楽会を開いて広めたわけでもない。
紅白歌合戦があったわけでもない。
レコード会社が儲かるからと言ってレコードに録音したわけでもない。

私は、民謡の発生に思いを廻らせるときに、昔の民衆の創造性が信じられる。
しかし、私は、私自身を含めて、現代の大衆を信じてはいない。
この汚染されきった世界に住むことは、あまり幸福とは言えない、という気持ちである。

つまり、太田さんが言うところのこの汚染されきった世界こそ、
すぐ上に書いた芸能プロダクションであり、
テレビやラジオの功利主義であり、
演奏会や音楽会の商業主義であり、
紅白歌合戦と言う馬鹿騒ぎであり、
レコード会社の儲け主義ではないだろうか?

僕が“津軽じょんがら節”を聴いて魂をゆさぶられるのは、
“民衆の創造性”に僕の心の琴線が触れたからだと僕は信じています。

本尊を背負って、上川原に身を投げた常椽(じょうえん)和尚の無念な気持ち。
その和尚に同情を寄せる村人たち。
その中で和尚を悼(いた)み偲ぶ唄が生まれ、その悲劇と共に民衆に歌い継がれてゆく。
僕は、このような悲劇のことは何も知らない。
しかし、その悲劇性と、農民の気持ちが、この歌の響きの中に、旋律の中に込められている。
そして、その唄が津軽三味線で奏(かな)でられるとき、僕の魂をゆさぶる。

そういうことだと思うのですが。。。
あなたはどう思いますか?

次のリンクをクリックして、そのサワリだけでも“津軽じょんがら節”を聴いてみてください。
『津軽じょんがら節』

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



興味深い関連記事・サイト

■ 『あなたの魂をゆさぶる“津軽じょんがら節”』

■ 『海外で日本の童謡を耳にすると、やはり感動しますよね。 涙がにじんでくるほど感動する“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”』

■ 『 “夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。” と オーストラリアのブリスベンでデザインを勉強しているアミサさん』

■ 『日本を繁栄の道に導いたリンゴの唄』

■ 『リンゴの唄と日本』

■ 『批判とは? 批評とは?』

■ 『音楽のことなら何でも書いて掲示板』

メチャ面白い、ためになる記事

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■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』

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■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


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クラシックで片思い? [音楽、民謡、童謡、クラシック、歌謡曲、ポップス]

ん? クラシックで片思い?

そうなんですよね。
僕は多分、恵美子さんに片思いしていたと思うんですよ。

中学校に入学して間もなくだった頃だと思いますが、
全校生徒が体育館に集まった時に
同学年の恵美子さんが“乙女の祈り”をピアノで独奏したのです。

僕はその時初めてこの曲を聴いたのですが、すばらしいと思いました。
感動しました。
曲も良かったけれど、あの恵美子さんが弾いたのだという事も感動的でした。
この恵美子さんは小学校のとき6年間隣のクラスに居た可愛い女の子だったのです。

よく目にした事はあっても口をきいたことが一度もなかったのです。
初恋の人ではなかったのですが、僕の気に入った女の子でした。
遠くから見ていて、可愛い女の子だなぁ~と思っていたのです。

小学校ではクラス替えがなくて6年間同じメンバーだったのですが、
中学校では学年毎にクラス替えがあったので、この恵美子さんと同じクラスになる事を期待していたのです。
しかし、とうとう同じクラスになる事はありませんでした。
(こういう思い通りにならない事って、人生にはずいぶんとあるものですよね?)

とにかく、僕が気に入っていた“乙女”が弾いた“乙女の祈り”が忘れられなくて、僕はどうしてもこの曲が弾きたくなった。
大学に入学して下宿から通うようになった頃、下宿にピアノがあったので楽譜を買ってきて、独習で弾き始めたのです。
とにかく、一生懸命に独習したので、何とか全曲を弾けるようになったのです。
自分では結構マシに弾けると思ったので、ぜひ恵美子さんに聞いてもらいたいなぁ~と思い始めたんですよ。

そう思ったら、何が何でも恵美子さんに聞いてもらいたいと思うようになった。
それで、夏休みに帰省した時に思いきって恵美子さんに電話したのです。
当時、恵美子さんは音楽大学に通っていました。
恵美子さんはビックリするだろうと思ったのですが、極めて落ち着いて冷静に受け答えしていたので僕のほうがその落ち着き方に内心ビックリしたほどでした。

これまでに一度も言葉を交わしたことのない女性に初めて電話して僕のピアノの演奏を聞いて欲しいと言ったのですからね。
もちろん、どうしてそういう気持ちになったのか、かいつまんで説明しましたが、
今から思うと“すっご~い心臓”を持っていたものだと、自分ながら呆れる思いです。
その後、恵美子さんがコンサートピアニストになったのかどうか、僕は、もうぷっつり連絡していないから全く分からないのです。
僕は社会人になると間もなく海外へ出てゆきましたから。。。

当時、彼女の家にはグランドピアノがあって、その頃でもピアノ教室が別棟にあって、そこで子供たちに教えていました。
とにかく、恵美子さんに会ったのは前にも後にもそれっきりなんですよね。
電話した事もなければ、手紙を書いたこともない。
本当にその時会ったのが初めで最後!

まず、このように書いても誰も信用してくれないと思いますが、これは実話です。
恵美子さんの名前は本名です。
僕の生まれは行田市です。

もしかして、この記事を恵美子さんが読む事があれば、すぐに僕が誰かと言う事が分かるはずです。
もちろん、僕は恵美子さんにまた会いたくなったから、と言うのでこの記事を書いているわけではありませんよ。
小学生のときに芽生えた“乙女”に対する思いが僕の“乙女の祈り”の演奏を聴いてもらう事によって完結した。
言ってみれば、そのような儚(はかな)くも淡い“恋”ではなかったのか?
もちろん、それは“片思い”にすぎなかったのだけれども、僕はその片思いをあのような形で完結したのだと。。。
今から思い返すと、そう思えるのです。

しかし、ずいぶんと下手くそで間違った演奏を聞かせたものだと、気恥ずかしくなりますよ。
この記事を恵美子さんがもし読む事があったら、夢のような馬鹿ばかしい思い出として、苦笑しながら思い出すことでしょう?

お恥ずかしい事ですが、クラシックだと言われている“乙女の祈り”を誰が作曲したのか?この記事を書くまで知らなかったという“おまけ”までがついていますよ。うへへへへ。。。。
ついさっき調べたら次のような事が分かりました。



1856年作曲

乙女の祈り (La prière d'une vierge)

テクラ・バダルジェフスカ (Tekla Badarzewska)

(1834年1月1日~1861年9月29日)

生誕地:ワルシャワ、 ポーランド

なんと、この人物は27歳で亡くなっているんですよね。
冥福を祈りたいですね。

とにかく、この人物が“乙女の祈り”を作らなかったら、僕は恵美子さんに会うことはなかったんですよ。
小学生の時に、恵美子さんのことを可愛い女の子だなぁ~と思っていただけで、一生会って言葉を交わす事はなかったはずです。
クラシックの“威力”なのでしょうか???

実は、この片思いの事は6月13日に書いた記事の一部です。全文はもっと長いのですよ。
興味があったら次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。
クラシックに限らず音楽好きの人なら面白く読めると思います。

『ん? クラシック興味ある?』

Realogで書いた、この記事に対してRealogのメンバーの藤守美愛さんから次のようなコメントをもらいました。
ありがとね。

初です☆
クラシック好きなので、
タイトルに釣られて来てしまいました。
コントラバスしてたんですか?
私はペットとパーカッション&ドラムしてました(^O^)

乙女の祈りはエレクトーンで弾いたので懐かしい~
独学でピアノは大変ですよね。
とても素敵な想い出だと思います=^▽^=

by 藤守美愛 2006/06/14 03:45

僕はさっそく次のような返信を書きました。

美愛さん、なかなかロマンチックなハンドル名ですねぇ~~
まさか本名ではないでしょう?

ところで、この記事にコメントがもらえるとは思っても居ませんでしたよ。
SO-NETでは記事ごとにアクセス数を見ることができるのですが、この記事のタイトルを見て訪れた人が最も少ないんですよ。

驚きましたよ!

つまり、クラシックなど興味のない人が大変多いという事を物語っているんですよ。

だから、コメントがつくなんて考えられない事でした。

> 乙女の祈りはエレクトーンで
> 弾いたので懐かしい~


そうですか。美愛さんはこの曲をエレクトーンで弾いたのですか?

小学校時代の3年間、僕は恵美子さんと言葉を交わすこともなく、
可愛いなああああ~~と思っていたんですよ。
初恋ではなかったけれど、2番目の恋ぐらいでしたね。うへへへへ。。。

まさか、恵美子さんがピアノを弾くとは思っていませんでしたから、
あの可愛い女の子が“乙女の祈り”を弾いた時には唖然としたり、
感動したり、興奮したり、。。。
もう、何と言ってよいものか?
感動したなんて言葉ではとても語りつくす事ができないほどの感動を覚えましたね。

多分、雷に打たれる、という事はあの時のような感動じゃないかと。。。
1000万ボルトに感電したような、
そのぐらいすっご~♪~い衝撃に似た感動なんですよ。うへへへ。。。。

とにかく、今思い出してもすごかった!分かるでしょう?
何が何でも“乙女の祈り”を弾きたくなる気持ちが。。。?

“乙女の祈り”を弾くことができなかったら、もう生きている意味がない!
マジで僕はそう思ったものですよ。
“神のお告げ”を聞いたような感動だったんですよ。

> 独学でピアノは大変ですよね。


そうなんですよね。
“神のお告げ”でもない限り、あれだけ一生懸命、独学でピアノを勉強しませんよね!

分かるでしょう?
全曲弾いたときの勝利に似た気持ちが。。。

やったああああああ!!!

その勝利感、達成感が、僕から羞恥心も戸惑いも、何もかもかなぐりさせたのですよ。
勇気を与えてくれました。
僕は恵美子さんに電話して僕の演奏を聞いてもらったんです!

“ええ、どうぞ”と恵美子さんが言ってくれた時には、
もう、エクスタシーを越えた歓喜に襲われたものですよ。うへへへ。。。

絶対オーバーではないんですよ。その時もすッご~♪~い感動を覚えましたよ。



セスナで宙返りする時にも、スリルと感激と感動が一緒くたになって僕の魂をゆさぶりましたが。。。、
可愛いなあああ~~と、恋焦がれていた恵美子さんが
“じゃあ、お待ちしています”と言ってくれた時も気分的には、
セスナで10回連続して宙返りをやったような感激でしたよ。うへへへへ。。。。
僕はマジですよ!

> とても素敵な想い出だと思います=^▽^=


ありがとうございます。
実は、この思い出は初めて書いたのですよ。

SO-NETのアクセス数を見たら、見てくれる人が最も少なかった記事なので、
まさかコメントがもらえるとは。。。

しかも、“美愛”さんなんてロマンチックな名前でしょう。
偶然にしても“乙女の祈り”にぴったりした名前じゃないですかあああ~~!!?


不思議な事に、感激は感激を呼び起こすようですよね。

そういうわけで、2重3重の喜びになりました。
決して誇張して書いているわけではありませんよ。
これでも、かなり抑えて書いているんですよ。うへへへへ。。。



とにかくコメントありがとうございました。
しみじみと書いてよかったなああああ。。。と思っています。
書いた甲斐がありましたよ。

美愛さん、また気が向いたら、コメントを書いてくださいね。

これからも時々太田さんの本から気に入った箇所を紹介するつもりです。

くどいようですが、本当にありがとうございました。
じゃあね。

by デンマン 2006/06/14 13:41

『クラシック興味ある? PART 1』のコメント欄より

藤守美愛さんが書いてくれたコメントは、ちょっとした感想なのですが、
このようなコメントでも僕にはうれしいんですよ。
なぜなら、僕の記事には、めったにコメントがつかないんです。

僕の記事を読んでいる常連なら分かると思いますが、
僕はすぐに、人の嫌がることでも平気で書きますからね。。。、
噛み付きます。

もちろん、人の嫌がることをわざと書いているわけではないんですよ。
批判しているのですよ。

ところが日本では、批判を批判と受け止めないで、誹謗中傷と受け止めてしまう人が多いんですよね。
僕は、日本に居る頃から思ったことをすぐ言う性格だったので、とにかく誤解を受けやすかった。
ぼくのような人間は、日本ではとても暮らしづらいんですよ。

日本が鎖国をしていなかったので、実に良かったとしみじみと思います。
僕は20カ国以上を放浪して、自分が最も適している土地を選びました。
カナダのバンクーバーが僕にとってパラダイスです。

とにかく、言いたい事が言えて、誤解されることががほとんどないですからね。
つまり、本音で付き合うことができる土地ですよ。
もともと移民の国ですから、考え方が違うという事は当たり前ですよね。
だから、じっくりと話し合うという姿勢ができています。
日本のようにウヤムヤのうちに終わらせないし、意味のない薄笑いでその場を取り繕(つくろ)う事もしません。
うへへへへ。。。

自分にとって最も適した土地へ行って生活する自由があるということは、すばらしい事だと思いますね。

でも、今の日本は。。。
書き始めるときりがないし、この記事の内容とは直接関係がないから、関心のある人は下の関連記事を読んでみてくださいね。

ところで、僕は30近いブログに同じ記事を毎日2つづつ送信しているんですよ。
なぜ?
とにかく、僕の考えている事を多くの人に読んでもらいたいからですよ。
ネットと言うところはそういう事ができるところですよね。
また、そういう事をするところだと僕は信じています。

多くの人に意味のある情報を発信するのがネットだと僕は信じていますよ。
多方向多重通信手段(メディア)として利用しています。

だから、多くの人に読んでもらう事が目的でないのなら、何もネットでブログを書く必要はないのですよね。
古典的な日記帳を書いていれば充分です。自分だけが読むように。。。

ネットで書くからには、多くの人に読んでもらい、できるだけ多くの人に共感を呼び起こしてもらいたい。
僕は素直に、素朴にそう思っていますよ。

そういうわけで、現在30近いブログに書いているというわけです。
つまり、僕は自分でシンジケートを構築したんですよ。
現在、1日に2万人近い人が読んでくれています。

でもね、今言ったように意味のあるコメントを書いてくれる人はごくわずかです。

実は、たくさんのコメントをもらいますが、ほとんどは愚か者が書いた迷惑スパム・コメントなんですよ。
だから、数の中には入りません。

ここで、クラシックに対する関心がどれほど少ないかということをお目にかけます。

これは6月18日にチェックした時の数字です。
午後2時半に調べた時に、述べ1516人のネットサーファーが僕のページを読んでくれたというわけです。
この日は、延べ2000人近い人がSO-NETの僕のブログを訪れました。

仮に1日平均1000人の訪問者があるとします。
この人たちの半分が僕の掲示板(下の関連記事はこの掲示板の記事です)を見るとします。
そうすると、

(1000人 + 500人) * 30 ブログ = 延べ 45、000人

1日に、延べ4万5千人のネットサーファーが僕が書いた記事を読んでくれるんですよね。
ありがたい事です。
では、その人たちがどのような記事を読んでいるのか?

SO-NETでの次の統計を見てください。

タイトル共通テーマ閲覧数コメントTB日付
性と愛に揺られて恋愛・結婚38002006-06-18 09:48
あなたも美肌に露天風呂!旅行7002006-06-18 09:27
怖~い、とても怖~い女の確執?趣味・カルチャー10002006-06-17 14:36
さようなら筋肉痛!健康19202006-06-17 14:19
持続力のない恋愛恋愛・結婚38012006-06-16 13:16
あなたもカナダワーホリどう?旅行14002006-06-16 13:01
戦争を無くす事はできますよね。ニュース13002006-06-15 10:44
メチャさくさく快適ブログ知ってる?blog15002006-06-15 10:17
性と愛の不安恋愛・結婚65002006-06-14 12:05
ネットの仕事を見つけませんか?仕事17002006-06-14 11:37
クラシック興味ある?音楽8002006-06-13 13:56
俗語だとlameはどういう意味?資格・学び13002006-06-13 12:53
性と愛の至福恋愛・結婚16002006-06-12 23:47
絶対お得なシティ・ホテル!旅行12002006-06-12 23:45
涙がにじんでくるほど感動する“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”音楽18002006-06-11 11:14
国際派就職仕事28202006-06-11 11:08
性と愛の泉恋愛・結婚94002006-06-10 13:18
自動車保険見直しましたか?自動車28002006-06-10 13:06
愛と憎しみの原点?趣味・カルチャー20002006-06-09 13:16
この俗語知ってる?資格・学び28002006-06-09 13:07

この上の“閲覧数”に注目してください。
これは検索エンジンなどでこのタイトルを目指してやってきた閲覧者の事です。
6月13日の『クラシック興味ある?』という記事は閲覧数が下から2番目ですが、
先ほどこの記事を送信する前にチェックしたら、
『あなたも美肌に露天風呂!』の閲覧者は10になっていました。
『クラシック興味ある?』は8でそのままです。
つまり、19日現在で、クラシックに関する記事の閲覧者がSO-NETの僕のブログでは最低なんですよね。

もちろん、この記事でコメントを書いてくれたのは藤守美愛さんだけでした。

僕はこれまでに768の記事を書いていますが、最近最もよく読まれているのが“恋愛・結婚”に関する記事です。
上の表の閲覧数を見れば一目瞭然です。
実は、この恋愛記事はレンゲさんに関する記事です。

僕のブログには“境界性人格障害”を検索してやってくる訪問者が一番多いのです。

これは、今年(2006年)の1月にWABLOGの僕のブログ『宇宙の摂理ブログ』で調べたものですが、現在でも閲覧者の60%から70%程が、このキーワードを検索して僕のブログにやって来ます。

はっきり言える事は、クラシックに関心のある人は、それほど多くはありません。
少なくとも、誰もがクラシックが好きだとは言えません。

でも、おそらく誰もが、最低でも1度か2度は恋愛をしているものです。
あなただって、初恋の思い出があるでしょう?
レンゲさんなどは、もう両手両足の指では数え切れないほどの恋愛をしています。
残念ながら、すべての恋愛が失恋です。

ただし、見捨てられ感が強いために、捨てられる恐怖を避けるため、捨てられる前に捨てているんですよね。
それが、境界性人格障害者の悲しい恋愛のパターンです。

       
レンゲさんの愉快で面白い、そして悩み多い日々は
次のリンクをクリックして読んでください。

■ 『レンゲさんのこれまでの話を読みたい人のために。。。』

■ 『レンゲさんの愛と心のエデン』

レンゲさんをもっと知りたい人は。。。。

■ 『女探偵ふじこが試みたレンゲさんの素行調査』

■ 『“愛の正体” と “レンゲのテーマ”』

■ 『不倫の悦びと苦悩』

■ 『レンゲさんのように苦境から立ち上がった女 ー グロリア・スタイナム』

レンゲさんの写真を見たい人は。。。

■ 『レンゲさん、あなたは実はメチャ美人なんですよ!』

ィ~ハァ~♪~!


興味深い関連記事・サイト

■ 『あなたの魂をゆさぶる“津軽じょんがら節”』

■ 『海外で日本の童謡を耳にすると、やはり感動しますよね。 涙がにじんでくるほど感動する“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”』

■ 『 “夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。” と オーストラリアのブリスベンでデザインを勉強しているアミサさん』

■ 『日本を繁栄の道に導いたリンゴの唄』

■ 『リンゴの唄と日本』

■ 『批判とは? 批評とは?』

■ 『音楽のことなら何でも書いて掲示板』

メチャ面白い、ためになる記事

■ 『デンマンのブログを削除した管理人に対する公開抗議文とその面白い顛末』

■ 『日本は軍国主義への道を歩んでいるのでしょうか?』

■ 『2ちゃんねるは世界のネットのために貢献できるか?』

■ 『日本のネットではありませんよ! 世界のネットです!』

■ 『日本の皇室はどうあるべきでしょうか?』

■ 『一体、日本は良くなるの?』

■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』

■ 『日本人に欠けているものは?』

■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


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クラシック興味ある? [音楽、民謡、童謡、クラシック、歌謡曲、ポップス]

ん? クラシック興味ある?

クラシックというのは当然の事ですが大衆音楽ではないですよね。
では大衆音楽というのはどのようなものなのか?
大衆にアピールする音楽という事になりますよね。

歌謡曲や演歌です。
でも、僕はこの両方とも感覚的に受け付けないんですよね。
とにかく、紅白歌合戦を30年近く見ていませんから。。。
まともに歌える曲がありません。

カラオケは2度行っただけです。
日本で開かれた高校の同窓会の2次会にカラオケバーへ行きました。
僕は結局1曲も歌いませんでした。

もう一度は、バンクーバーのロブソンストリートにあった日本人が経営しているカラオケバーに行きました。
中国からバンクーバーに留学するためにやって来た3人の女の子がカラオケバーに行きたいと言うんで、付き合いましたがその時も僕は1曲も歌いませんでした。
カラオケと言うのは僕はどうも好きになれないですね。

8年ほど前に上海に行った時にカラオケバーが多いのにびっくりした事があります。
中国人の女の子が、なぜカラオケバーへ行きたいか?という理由が納得できたものです。
とにかく“カラオケ”は全世界へ広まったようですよね。
“カラオケ (karaoke)”はそのまま英語になってしまいました。
バンクーバーにもカラオケを置いてあるバーやスナックがけっこうあります。

実は、僕は20年以上海外で暮らしているのです。
だから、海外志向の僕は、もともと歌謡曲だとか演歌は好きではありませんでした。
いまでも、歌謡曲とか演歌は全く聴きたいとは思いません。

では、どういうものが聴きたくなるかというと日本の民謡や童謡です。

民謡ならば。。。、
津軽じょんがら節、ソーラン節、秩父音頭、五木の子守歌、ドンパン節、デカンショ節、炭坑節、黒田節、。。。
といったものがいいですよね。
この中でも津軽じょんがら節が僕の心の琴線に触れてきます。

それから童謡ですよね。
“夕焼小焼” だとか “月の沙漠” などがいいですね。
僕はある日、近くのショッピングモールへ行ったのですが、
バックグラウンドミュージックに“夕焼小焼”が流れていたんですよね。
“夕焼~♪~け小焼け~♪~の赤とんぼォ~♪~”
もちろん日本語の歌は収められていなくてメロディーだけだったのですが。。。

初めはちょっと不思議な感覚に襲(おそ)われましたが、間違いなく“夕焼小焼”だと分かると、涙がこみ上げてくるような感動がジンワリと滲(にじ)み出してきましたよ。
“ああぁ~~、日本の童謡だぁ~。。。なつかしいなああああ。。。”と、しみじみと思いながら、立ち止まって耳を傾けました。

三つ子の魂(たましい)百までも。。。と言いますよね。
子供の頃の純真な心に響いてきた歌と言うのは、絶対に消えないもののようです。
僕の体に染(し)み込んでいるような歌なんでしょうね。

では、クラシックとは一体僕にとって何なのか?
はっきり言って、どうでもいい音楽です。

僕は音楽が嫌いではないのですが、とりわけ好きでもない。
一応LPを何枚か持っていますが、すべてはアメリカのポップスと洋画の主題曲です。
日本のものは一枚もありません。
もちろん、クラシックは一枚も持っていません。

では、僕のこれまでの人生でクラシックは全く縁がなかったのか?

実は、小学生の頃に僕は知らずにクラシックとの触れ合いがあったのです。
器楽クラブに入っていて4年生の時に“ハンガリア舞曲第5番”を
5年生の時に“美しき青きドナウ”を演奏したことがあります。
僕が受け持って弾いていた楽器はコントラバスです。
あのチェロをもう2回りほど大きくした楽器です。
まだ背が低かったので椅子の上に乗って弾いたものでした。

今では楽譜が読めますが、その当時は楽譜を読んで音を出していたわけではないんですよ。
先生が一通り指の位置を教えてくれたのです。
そうやって、記憶しながら弾いたのですから、今から考えると自分ながら“神業(かみわざ)”ではなかったのか?!と思えるほどです。
関東甲信越地区のコンクールで3位になった事があって、
そのとき審査委員長から“ベースの響きが良かった”と褒(ほ)められたことを覚えていますが、
それ程うれしくはなかった。
当時はもう、器楽クラブで演奏する熱が冷めていて、どうでもいい気持ちで演奏していたためです。

ところが、中学生になってから、再びクラシックとの出会いがありました。
クラシックとの出会いと言うより“乙女”との出会いと言った方が良いかもしれません。

中学校に入学して間もなくだった頃だと思いますが、全校生徒が体育館に集まった時に同学年の恵美子さんが“乙女の祈り”をピアノで独奏したのです。
僕はその時初めてこの曲を聴いたのですが、すばらしいと思いました。
感動しました。
曲も良かったけれど、あの恵美子さんが弾いたのだという事も感動的でした。
この恵美子さんは小学校のとき6年間隣のクラスに居た可愛い女の子だったのです。

よく目にした事はあっても口をきいたことが一度もなかったのです。
初恋の人ではなかったのですが、僕の気に入った女の子でした。
遠くから見ていて、可愛い女の子だなぁ~と思っていたのです。

小学校ではクラス替えがなくて6年間同じメンバーだったのですが、中学校では学年毎にクラス替えがあったので、この恵美子さんと同じクラスになる事を期待していたのです。
しかし、とうとう同じクラスになる事はありませんでした。
(こういう思い通りにならない事って、人生にはずいぶんとあるものですよね?)

とにかく、僕が気に入っていた“乙女”が弾いた“乙女の祈り”が忘れられなくて、僕はどうしてもこの曲が弾きたくなった。
大学に入学して下宿から通うようになった頃、下宿にピアノがあったので楽譜を買ってきて、独習で弾き始めたのです。
とにかく、一生懸命に独習したので、何とか全曲を弾けるようになったのです。
自分では結構マシに弾けると思ったので、ぜひ恵美子さんに聞いてもらいたいなぁ~と思い始めたんですよ。

そう思ったら、何が何でも恵美子さんに聞いてもらいたいと思うようになった。
それで、夏休みに帰省した時に思いきって恵美子さんに電話したのです。
当時、恵美子さんは音楽大学に通っていました。
恵美子さんはビックリするだろうと思ったのですが、極めて落ち着いて冷静に受け答えしていたので僕のほうがその落ち着き方に内心ビックリしたほどでした。

これまでに一度も言葉を交わしたことのない女性に初めて電話して僕のピアノの演奏を聞いて欲しいと言ったのですからね。
もちろん、どうしてそういう気持ちになったのか、かいつまんで説明しましたが、今から思うと“すっご~い心臓”を持っていたものだと、自分ながら呆れる思いです。
その後、恵美子さんがコンサートピアニストになったのかどうか、僕は、もうぷっつり連絡していないから全く分からないのです。
僕は社会人になると間もなく海外へ出てゆきましたから。。。

当時、彼女の家にはグランドピアノがあって、その頃でもピアノ教室が別棟にあって、そこで子供たちに教えていました。
とにかく、恵美子さんに会ったのは前にも後にもそれっきりなんですよね。
電話した事もなければ、手紙を書いたこともない。
本当にその時会ったのが初めで最後!

まず、このように書いても誰も信用してくれないと思いますが、これは実話です。
恵美子さんの名前は本名です。
僕の生まれは行田市です。

もしかして、この記事を恵美子さんが読む事があれば、すぐに僕が誰かと言う事が分かるはずです。
もちろん、僕は恵美子さんにまた会いたくなったから、と言うのでこの記事を書いているわけではありませんよ。
小学生のときに芽生えた“乙女”に対する思いが僕の“乙女の祈り”の演奏を聴いてもらう事によって完結した。
言ってみれば、そのような儚(はかな)くも淡い“恋”ではなかったのか?
もちろん、それは“片思い”にすぎなかったのだけれども、僕はその片思いをあのような形で完結したのだと。。。
今から思い返すと、そう思えるのです。

しかし、ずいぶんと下手くそで間違った演奏を聞かせたものだと、気恥ずかしくなりますよ。
この記事を恵美子さんがもし読む事があったら、夢のような馬鹿ばかしい思い出として、苦笑しながら思い出すことでしょう?

お恥ずかしい事ですが、クラシックだと言われている“乙女の祈り”を誰が作曲したのか?この記事を書くまで知らなかったという“おまけ”までがついていますよ。うへへへへ。。。。
ついさっき調べたら次のような事が分かりました。

1856年作曲

乙女の祈り (La prière d'une vierge)

テクラ・バダルジェフスカ (Tekla Badarzewska)

(1834年1月1日~1861年9月29日)

生誕地:ワルシャワ、 ポーランド

なんと、この人物は27歳で亡くなっているんですよね。
冥福を祈りたいですね。

とにかく、この人物が“乙女の祈り”を作らなかったら、僕は恵美子さんに会うことはなかったんですよ。
小学生の時に、恵美子さんのことを可愛い女の子だなぁ~と思っていただけで、一生会って言葉を交わす事はなかったはずです。
クラシックの“威力”なのでしょうか???

Last, but not least...

ところで、この記事を書こうと思ったのは恵美子さんの事が書きたくなったためではないのです。
たまたま、太田将宏さんがクラシックの本を書いて僕にコピーを送ってくれたからです。

『前奏曲集(あるアマチュアの覚書) 作品1の1』 
初版が1989年7月。
改訂版が2006年2月です。

僕が受け取ったのは2部のうちの最初だけですが100ページの労作です。
太田さんが20年ほどかけて書き溜めたものを本にしたように見受けました。
とにかく、僕がこの種の本を読むのは初めての経験なのです。
初めは戸惑いながら読み始めたのです。

分かるでしょう?
僕はクラシックというものを理解しようと思ったこともないし、
クラシックにハマッたこともないし、
クラシックが好きだとも思っていません。
しかし、太田さんから本を受け取って読むうちに“僕にとってクラシックとは何なんだろうか?”
。。。そう思い立って考えて書いたものがこの記事だというわけです。

太田さんは現在カナダのトロント郊外に住んでいます。
もう、10年以上もお会いしていませんが、クリスマスカードのやり取りは毎年続いています。
僕が初めて太田さんに会った頃は、長女のかえでちゃんが生まれる頃だったと思いますが。。。
そのかえでちゃんが、現在ではカナダの大学の医学部を卒業して小児科の女医さんになってカナダで活躍しているのですから。。。
月日の経つのは早いものだと思います。

太田さんがクラシックとかかわりを持っていたことは、僕も20年ほど前から知っていましたが、
これほどクラシックと共に生活していたとは、本を読むまで分かりませんでした。
つまり、アマチュアの中にもプロと同じ程度にクラシックと共に生活している人が居ると言う事を、この本を読んでしみじみと感じさせられました。
とにかく、サラッと読んでしまうのは、あまりにも失礼だと思わせるような内容なので、僕は、じっくりと時間をかけて読ませてもらいました。
なかなか読み応えのあるものでした。

残念ながら、僕が知っている曲はほとんどないので、本の内容を充分に理解したとは言えません。
しかし、ページのそこここに太田さんが顔を覗かせていて、久しぶりにご本人に会うような気がして、つい釣り込まれるようにページを読み進んでゆきました。
目下、2度目を読み始めているところです。

Ludwig van Beethovenのページで太田さんが次のように書いていました。

レコードの欠点は繰り返して聴く事ができる事である。
ついつい、音楽をあたかも所有しているかの様な錯覚に陥る。
反面、この事は、一寸ややこしい音楽を聴こうとする場合には実に助かる。

また、一般の演奏会のプログラムにありがちな、聴きたくない曲は聴かないですむのが有難い。

私はと言えば、音楽は殆どLP、テープやCDで聴いている。
言ってみれば、舞台には出るが、映画には出演しない俳優は幾らでもいる。
同様に、レコードには録音しても、ステージには出たがらない演奏家がいても、なんら不思議ではない。
聴き手だって同様であろう。

いや、長い間、音楽を聴きたかったら自分でピアノを弾く、といった生活をしたこともあった。
そうこうして、聞きたくもない曲も入っているレコード等も買わないですんだ頃を今思い出している。

それにしても、例えば、Peter Bartokが録音したLPをCD化せずに、何らかの方法で保存できないのであろうか。
それすらできない技術文明などは、所詮、何等の文化の継承たり得ないのではないだろうか。
前述のように、CD化、つまり digitally remastered などというのは、おふざけ以外の何ものでもないからである。
J. S. Bachが平均率を採用した、という話ですら神話にすぎない事を想い起こそう。

敢えて言えば、レコードなどを聴かなくても余生はおくれる。何も、また自分で音楽をやればいいのだ。
私だって、下手ではあるが、その程度にはピアノを弾ける。
さらに言ってしまえば、5年や10年、音楽などなくても人生は送れるものだ。
たかが音楽、されど音楽、それ以上でも以下でもない。

僕はこの部分を読んで、同感したと共に安心しました。
クラシックと共に生活してきた太田さんでも“5年や10年、音楽などなくても人生は送れるものだ”と言い切っていますからね。
太田さんの本を読んで、充分に理解できないでいる自分としては、この箇所は、僕自身に対する“慰め”として読むことができましたよ。

“たかが音楽、されど音楽、
 それ以上でも以下でもない。”

。。。だと、僕も思いますね。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

ここで、もう一度恵美子さんに登場してもらいますが、
僕は、クラシックが何たるものか?と分からないうちに恵美子さんが演奏した“乙女の祈り”を聴いて感動したんです。
もちろん、可愛いと思っていた恵美子さんが弾いたから、中学生の僕は、なおいっそう感動したのです。

僕がピアノを独習で習い始めたのは、この経験があったからで、それがクラシックであったからではないのです。
いづれにしても、一つの曲がある人物によって演奏された事で僕に感動を引き起こした。
その感動が、僕をピアノに近づけさせた。
恵美子さんに会いたいからピアノを弾き始めたわけじゃない。
なぜなら、恵美子さんに会ったのはあの時が初めで最後。
僕の演奏を聴いてもらった事で僕の“片思い”は完結したのです。
でも、それからも、僕は時々“乙女の祈り”を弾いたものでした。

あの感動を自分のものにしたいから。。。

しかし、今の僕はすっかり忘れていて、この曲を弾く事さえできないんですよね。
あれだけハマッた“乙女の祈り”だったのに。。。

つまり僕にとって。。。
音楽は人生でもない。
人生は音楽でもない。
されど音楽、それ以上でも以下でもない。

現在、“乙女の祈り”を聞いてもジーンとこないのですよ。懐かしいとは思いますが。。。
しかし、“津軽じょんがら節”を津軽三味線で聴く時、僕の魂はゆさぶられます。

音楽は人生そのものではありえない。
でも、人生の一部にはなっているでしょうね。
当たり前のようですが。。。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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涙がにじんでくるほど感動する
“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”
うれしいトラックバックとめちゃグーなコメント

トラックバックの中には、実にくだらないものがあいますよねぇ~。
あなたもそういう下らないトラバクをもらったことがあるでしょう?
アダルトサイトから、まったく関係ないような記事にまでトラックバックを付ける愚か者が居ますからねぇ。。。。

こういう愚かな人間は“病める日本”に特有な現象のようです。
僕はまだ日本人以外からこのような“迷惑トラックバック”をもらったことがありません。
とにかく、ネットやる人間の中で一番程度が低い人間が日本にはたくさん居ます。
これまで2年間日本のサイトでネットやっていた僕の実感です。
(これを読んでいるあなたはすばらしい人ですよ。へへへ。。。)

18年間欧米のサイトでやっていた時には、このような迷惑で愚かな人間には出会いませんでしたよ。
ところが最近、このような迷惑人間が日本にたくさん出現するようになりました。
日本が病んでいるはずですよ!まったくぅ~。

僕はExciteでもブログを持っているのですが、
ここでたくさんの迷惑トラバクをもらいました。
関心があったら次のリンクをクリックして覗いてみてくださいね。

『EXCITEでの迷惑トラックバック』

最初の3つのトラックバックがこの愚か者の付けた“迷惑トラバク”です。どれも同一人物です。
EXCITEにはこのような愚か者を排除する機能が付いているので、この馬鹿者はもうトラバクを付ける事ができません。

でも、この“トラバク馬鹿野郎”はライブドアに、呆れるほどたくさんのアダルトブログを作っているんですよ。アホォかああ~~~!
馬鹿もここまでやるとノーベル賞級の馬鹿野郎ですよ!

おそらく、新しいブログをまた立ち上げて、愚かなトラバクを付けて来るだろうと思います。
でも、こういう馬鹿野郎は徹底的に“病める日本”から駆除しなければならないと僕は信じていますから、受けてたちます。
そのうち死ぬほど恥ずかしい思いをして、僕に泣いて謝るだろうと思いますが、
そのときは。。。。

“分かったかああああ、ば~か!”
こう言って、僕は馬鹿笑いしようと思います。

この馬鹿がどうして“文字化けしたような落書き”をするのか分かりますか?
この愚か者は“アダルト用語チェック”に引っかからないように、こうしてわざと文字化けをしたような文字を使って書き込んでいるわけです。

でも、愚か者のことですから、

“オマエねえええ~、僕がIPやURLで指定したらどうすんの?”

と突っ込みを入れると、ばかだから、へへへへ。。。と笑ってごまかす事しかできないんですよねぇ~~。へへへへ。。。。

実は、これはまだ良いほうなんですよね。
SO-NETでは31も迷惑トラバクを付けた愚か者が居ます。

『SO-NETでの迷惑トラックバック』

SO-NETの名誉を守るために言っておきますが、この迷惑トラバクを付けた愚か者はライブドアのブログを持っている人物なんです。やたらに迷惑トラバクを付け回っています。
SO-NETには迷惑トラバクを排除する機能がありますから、この愚かな“迷惑トラバク野郎”はSO-NETのブログにはトラバクをつけることができません。
見せしめのために保存しておくつもりです。

そのようなわけで、この愚か者が上で紹介したEXCITEに移って迷惑トラバクをつけ始めた訳です。
同一人物か、仲間です。
おそらく下らないアダルト・ブログを書いているはずです。
もちろん、このような愚劣な野郎が書いているのを読む気にもなりませんから、まだ一度も僕は覗きに行っていません。
下らない事を書いているのに決まっていますからね。。。見に行くだけ時間の無駄ですよ。

もし、あなたにたくさん時間があったら、覗いてみてください。

どんな下らない事を書いているのか、分かったらコメントをここに書いてくれるとありだたいです。へへへ。。。

こういう馬鹿なトラバク野郎とは付き合いたくないんですよね。
でも、他の人が相手にしないでしょうから、せいぜい僕が相手にしてやろうと思います。
この野郎を徹底的に追及して“病める日本”ではネットをやってゆけないようにしてやろうと思います。へへへへ。。。。
同じ馬鹿がすでに尻尾を巻いて逃げてゆきましたからね、。。。
この愚か者も時間の問題ですよ。へへへ。。。

ところで、こういう馬鹿者を相手にしていても仕様がないので、ここでタイトルに書いたように、“うれしいトラックバックとめちゃグーなコメント”を紹介します。

Tracked from キーワードサーチ at 2005-08-27 04:03

タイトル : NANA(Keyword Search)

楽天広場<スコア順検索>にて、
ただいま注目を集めているキーワード「NANA」で
こちらの記事が14811件中、上位 1位にあるため、
キーワードサーチのブログランキングで紹介させていただきました...more

『ニュージーランドのNanaさん、こんにちは!』より

“こちらの記事が14811件中、上位 1位にある”ことを僕はまったく知りませんでした。
こういうトラバクをもらうと、うれしいですよねぇ~~。

でも“副産物”として、上で紹介したような愚かな“トラバク馬鹿野郎”もそれを見てやって来るんですよォ~。んもォ~

実は、このNANAさんが書いてくれたコメントがすばらしかったんです。
久しぶりにうれしいトラバクをもらったので、ここに全文を書き出したいと思います。


ニュージーランドのNanaさん、
こんにちは!



はじめまして。

文章の書き方がすごく面白くて

惹かれてしまいました♪

私はにゅーじらんどにすんでいる

Nanaというものです。

ハワイ→オーストラリア→ニュージーと小さいころから

住む場所変わりまくっていますが、

やっぱり素が日本人のせいか、

日本の童謡、歌など心にしみますね。

Nana at 2005/08/23 08:47

Nanaさん、コメントありがとね。
オーストラリアとニュージーランドに居る日本人は意外に多いんですねェ~。
僕はネットで少なくとも10人と知り合いましたよ。

Nanaさんがコメントをつけた記事
『オーストラリアのブリスベンでデザインを勉強しているアミサさん』
の中に出てくるアミサさんもそのうちの一人です。

おそらくNanaさんはアミサさんと同世代ではないでしょうか?
僕はそんな印象を持ちましたよ。
小さい頃から英語圏に居るようですから、もう完全にbilingualでしょうね。
その才能を生かして、ぜひ将来国際舞台で活躍してくださいね。

日本の童謡はいいですよね。
僕も上の記事の中で書きましたよ。

先日、たまたま、この近くのショッピングモールへ行ったんですよ。
そしたら、“夕焼け小焼けの赤とんぼ。。。”という日本の童謡のメロディーが流れてきましてね。。。。
それに、気付いた時、僕は思わず立ち止まって聞き惚れましたね。
涙がにじんでくるほど感動しました。
日本の童謡はすばらしいと思いますね。
そして、自分の生まれ育ったふるさとはやはり懐かしいですよ。。。

また、このようなのどかな日本の風景などを写真で見ると、
日本はいいなあアアア、と思いますねェ。

実は、僕は日本の歌謡曲だとか演歌だとか流行歌、ポップスは全く駄目なんですよ。
まともに歌える歌なんて1曲もありません。
とにかく、紅白歌合戦をもう30年間見ていませんからね。
全く日本の歌は僕の心に訴えて来ません。

ただ、童謡と民謡だけは別ですね。
もう、じ~~~んとしてしまうほど感動する事がありますよ。
小さい時に聴いた歌だから、それだけ“純真な心”に染み付いているのでしょうねェ~。

「三つ子の魂百まで」と言いますからね。
小さいときの性格は年をとっても変わらないように、
小さいときに耳に親しんだ童謡は、久しぶりに聞いても心にジ~~んと染み込んできますよ。

それにしてもお褒めのコメントをいただいちゃって、うれしいですよ。

文章の書き方がすごく面白くて
惹かれてしまいました♪

僕は国語が苦手でした。
だから、作文の時間はイヤだったですね。
こうして書けるようになったのは、英語を勉強するようになってからです。
英語の作文をどうしても書かねばならなくなって、かなり時間を割いて勉強するようになってから、文章を書くことが苦手ではなくなったですよ。
もちろん、うまい文章を書けるか?と言うと全く別問題ですが。。。

でもNanaさんに上のようなコメントをもらうと、国語の時間に100点をもらったような気がしましたよ。
なるべく自分で楽しめるような文章を書くように努めています。
へたくそだと言われても、少なくとも自分が楽しんで書いたのなら、
それだけで充分に意味のあることですからね。

ただし、自分だけ楽しんでも、他の人に面白くなかったら、いづれ読んでくれる人が居なくなってしまいますからね。
他の人が読んでも、面白い文章、楽しい文章、心に残る文章。。。。
そういう風に考えると、なかなか難しいですよね。
だから、そんなに堅苦しく考えず、まずは自分が楽しめるように書いています。

そういうわけですから、Nanaさんに上のように言われるとメチャうれしいですよ。
もう、ルンルン気分でスキップしたくなります。

では、Nanaさん、これからもニュージーランドでがんばってくださいね。
気が向いたら、またコメント書いてください。
じゃあね。

ィ~ハァ~♪~!

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