いにしえの愛を見つめて。。。 [日本史]
いにしえの愛を見つめて。。。
衣(ころも)ほしたり天(あめ)の香具山
万葉集の中に収められた持統天皇の歌。
持統天皇がこの歌を詠んだ時の気持ちは、おそらく次のようなものだったでしょうね。。。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある磐余(いわれ)の池を見ているのです。
大津皇子が自害する前に池の端で辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
おととい(6月5日)、Realogで書いた記事(『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
それは大胆な仮説ですね(・◇・;)
持統天皇の歌というと、
「女性らしい爽やかな歌」という解説しか見かけたことがないのですが、
確かに持統天皇からすれば大津皇子の件は後ろめたい出来事でしたし・・・。
祟りを恐れていたのは確かでしょうね。
そういえば、ブックオフで永井路子の
『悪霊列伝』という本を105円で買ってあったのですが、読むのをすっかり忘れていました(^^;)
この本だと不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています。
by 更紗
2006/06/06 15:45
さっそく僕は次のようは返信を書きました。
>・・・それは大胆な仮説ですね(・◇・;)
その通りですよ。
かなり大胆な仮説です。
歴史家なら絶対にこのような事は書けないでしょうね?
確証がありませんからね?
歴史馬鹿のデンマンならばこそ、できる事ですよね。
うへへへへ。。。。
でもね、“真相”はいつか必ず表れるものですよ。
読む人の心にね。
歴史を読めば読むほど真相に近づいてゆきますからね。
歴史を読むとは、そのような事だと思います。
司馬遼太郎さんも、そのような事をどこかで書いていたように思います。
つまり、歴史を読む人が解き明かして行くのが“真相”だと思いますよ。
>という解説しか見かけたことがないのですが、
そうですよ。そういう批評ばかりが目立って、持統天皇の暗い部分に焦点を当てて批評する人は極めてまれですよね。
しかし、歴史上の人物でも完璧に善人は居ないし、完璧に悪人も居ませんからね。
僕は善人と思われている人は暗い部分を見ようと思うし、悪人と思われている人は善の部分を見ようとしますね。
そのほうが歴史を読んでいて面白いですよ。
>後ろめたい出来事でしたし・・・。
>祟りを恐れていたのは確かでしょうね。
間違いなく恐れていましたよ。
だから、大津皇子の死体を15キロ離れた二上山に移して、持統天皇は皇子の怨霊を閉じ込めたんですからね。。。
>『悪霊列伝』という本を105円で買って
>あったのですが、読むのをすっかり忘れていました(^^;)
永井さんも良い本を書きますよね。
残念ながらバンクーバーの市立図書館には永井さんの本が1冊か2冊ぐらいしかないんですよ。
ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC: University of Britishi Columbia)の新渡戸ガーデンのそばにある東南アジア・センターの図書館には、すばらしい日本の図書がたくさん収められています。
ここなら永井さんの本もたくさんあるはずです。
Vancouver International Airport の上の濃い緑が
UBCの大学に寄贈された広大な原生林を含む森。
左の方に見える岬の突端部分がUBCのキャンパス
僕は、日本ではほとんど日本の小説は読まなかったのですが、
カナダのトロント大学とバンクーバーのUBCの東南アジアセンターの図書館で
松本清張、司馬遼太郎、三島由紀夫、山本周五郎、。。。
このような作家の本をかなり読み漁りました。
>悪霊扱いされています。
不破内親王についても書きたいと思っていますよ。
いつもながら更紗さんのコメントをもらって、感謝していますよ。
ありがとね。
不破内親王。。。また、インスピレーションが湧いてきましたよ。
とにかく、メチャ忙しくって、更紗さんのブログを読む機会がありませんが、
そのうち時間ができたら読ませてもらいますね。
つまり、書く種が尽きたら。。。。
じゃあね。
by デンマン 2006/06/06 18:06
『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』のコメント欄より
更紗さんの書いたコメントに触発されて、上の返信にも書いたように不破内親王の事が書きたくなったというわけです。
この内親王の略歴はウィキペディアによると次の通りです。
生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。
聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母姉。
塩焼王の妻。
739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。
757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。
764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。
769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。
771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。
782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。
795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。
不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』
とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?
実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったといすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。
更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。
井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。
つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。
事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。
なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。
2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。
しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。
不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。
3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。
この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。
興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』
4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。
県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。
5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。
氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。
このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。
これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。
しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?
この事については明後日じっくりと見てゆきたいと思います。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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いにしえの愛を求めて。。。 [日本史]
いにしえの愛を求めて。。。
衣(ころも)ほしたり天(あめ)の香具山
これは万葉集の中に収められた持統天皇の歌です。
「白たえ」の“たえ”は楮のこと。
こうぞ・くわ科の落葉低木で、春、淡黄緑色の花が穂状に咲く。
六月頃に熟して赤く、甘くなる。
樹皮は和紙の原料になる。
「白たえ」とは、この楮の樹皮で作った白い布。
「衣」は一人二人が洗濯して干したものではなく、調(みつぎもの・古代日本の税制。みつぎ物として納める土地の産物の類)として諸国から集められた真っ白な衣であると言う説もある。
東京都調布市は多摩川のほとりでさらされた「調(みつぎ)もの」の布が産出された地という。
天の香具山」は奈良県橿原市にある山。
藤原京の東南にある海抜148メートルの山。
麓からは48メートルの丘。
高天原から天降った山と伝えられている。
大和三山の中でも特に神聖視されていた。
上の歌の意味は、詳しいことを何も知らないで解釈すれば次のようになるでしょう。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
この歌は万葉集の中でも有名な歌ですよね。
僕が初めてこの歌を目にしたのは中学のときの国語の時間だったように覚えています。
先生が感動したようにこの歌を解説してくれましたが、
なんでそれほど有名な歌なのか、僕にはさっぱり分かりませんでした。
高校の古文でもこの歌を目にしたように記憶しています。
先生は、やっぱりこの有名な歌を一通り解説してくれましたが、
僕にはこの歌のすばらしさが分かりませんでした。
大体次のように説明してくれたものです。
初夏になって爽やかな日の下、香具山のふもとで村人が衣服の虫干しをしている。
持統天皇がこの様子を藤原京の宮殿から眺めて上の歌を詠(よ)んだ。
青々とした新緑の香具山に白い布が干してある美しい姿を見て、春が過ぎて夏が来たという季節感を詠んだ。
季節感がこの歌の主題である。
四季の変化への感動を詠(うた)っている。
「春過ぎて夏が来た」ということを詠(よ)みたかったのである。
初句と二句で夏が来た感動を詠み、三句と四句でその感動を起こさせた対象を詠った。
そして結句で天香具山という具体的な場所を取り上げている。
日本人の生活はきはめて規則正しい四季の変化の中で営まれる。
日本は季節の変化がそのまま自然の変化である。
それゆえに我が国の詩歌には季節の移り変りを詠った歌に良い歌が多い。
この持統天皇の歌はその代表格の歌である。
さらに古文の先生は続けたものでした。
小高い宮城から持統天皇が村人が虫干ししているのを見て微笑んでいる。
この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
僕もこのような説明を聞きながら、“そういうものかなあぁ~”。。。と思ったものです。
それにしても腹が減ってきたなあぁ~、早くお昼になってくれないかなあぁ~弁当を食べたいなあぁ~。
実は、僕はどうでもよいと思いながら聞いていたんですよ。うへへへ。。。。
しかし、今考えてみると、持統天皇の歌をどのように解釈しても、それほど有名な歌の中に、感動を呼び起こすようなところがどこにも感じられないのですよね。
少なくとも僕には感じられない。
持統天皇が詠んだものでなければ、取り上げてもらえなかったのではないのか?
この歌を、仮に名もない村人が詠(うた)ったものだとしたら、取り上げてもらえなかったのではないか?
では、一体この歌のどこに万葉集に載せるだけの価値があるのだろうか?
僕はおとといの記事(『性と愛の影に隠れて ☆ 万葉集の中の政治批判』)で書いたように、万葉集は大伴家持が政治批判のために編纂したものだという自論を持っています。
大伴家持はこの歌を万葉集に取り上げることで何を後世の我々に伝えたかったのか?
僕は、そのような見方で、もう一度持統天皇の歌を読み直してみたのです。
僕は上の記事の中で次のように書きました。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
弟が葬られている二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大伯皇女が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
持統天皇が詠んだ上の歌と大津皇子とは、何か関係があるのではないか?
僕は、そう思いながら大津皇子の残した次の辞世の歌を読んでみたのです。
今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ
無実の謀反の罪を着せられて自害しなければならない。
大津皇子は自害する前にこの歌を詠んだわけです。
大体次のような意味です。
大和の磐余の池に鳴く鴨を見ることも、今日を限りとして私は死ななければならないのか。。。
痛ましいですよね。
哀れだと言う他にないですよね。
。。。で、この歌と持統天皇の歌に何か関連性はないものか?
僕は一生懸命考えました。
磐余(いわれ)の池とは、一体どこにあるのか?
そう思いながら調べ始めました。
上の地図を見てください。
もしかすると、あなたは上の大津皇子の辞世の歌を読んだ時に地図の中に書いてある“磐余の池”が目に浮かんだかも知れませんよね?
僕はそのつもりで書き込んだのですよ。
実は、この“磐余の池”の所在地まだ確定されていないのです。
この辺に“磐余の池”があったのだろうと思われる所に、現在は大津皇子の辞世の歌碑があります。
一面田んぼや畑に囲まれ、のどかな風景が広がっています。
歌碑の後ろには稲が青々と茂っていました。
ここに昔、池があったこと物語っているように葦も生息していました。
日本書紀にはこう書かれています。
「冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津。・・・(中略)・・・庚午。賜死皇子大津於譯田舎。時年廿四。妃皇女山邊被髪従跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。・・・(後略)・・・」
10月2日 大津皇子の謀反が発覚する。大津皇子は逮捕された。
…(中略)…
10月3日。大津皇子は於譯田舎(おさだの家)にて死を賜る。
この時24歳だった。
妻の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で駆けて行き、共に殉死された。
見るものは皆哀しんだと言う。・・・(後略)・・・”
妻の山辺皇女は髪を振り乱し
裸足で駆けて行き、共に殉死された。
なんとも痛ましいではありませんか!
むごすぎますよね。
大津皇子の辞世の句は、じっくりと読めば次のようになるのでしょうね。
今日を限りとして私は死ななければならないのか。。。
口惜しいことよ。やり残したことはある。
私は間違ってはいない。
だが、行かねばならないようだ。
それが私の運命だと言うのなら仕方がない。
この身に受けよう。
上の地図を見てください。
持統天皇は、天香具山を眺めながら、このページのトップに掲げた歌を詠(うた)った。
女帝の歌を読む限り、どこにも大津皇子との関連は無いように見えます。
しかし、大津皇子の辞世の歌を読めば“磐余の池”がはっきりと詠まれている。
だからこそ、1300年もたっているのに、その歌碑が現在“磐余の池”と思われるところに立っている。
持統天皇は上の歌を詠んだ時に、“磐余の池”が目に入らなかったのか?
確かに、天香具山に隠れて“磐余の池”を見ることはできない。
しかし、心の目ははっきりと“磐余の池”を見ているはずなんですよね。
大津皇子の霊が崇りを起こしたので、飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのが、この持統天皇です。
だから、天香具山を眺めて“磐余の池”の見えないはずがありません。
持統天皇の詠った歌は、大津皇子の怨霊に対する鎮魂の歌だったに違いない、と僕は思うようになりました。
しかも、大津皇子が自害した後、髪を振り乱し裸足で駆けて行き、共に殉死した山辺皇女は持統天皇の腹違いの妹なんですよ。
持統女帝も山辺皇女も天智天皇の娘です。
それに、大津皇子は持統女帝の、すでに亡くなっている実のお姉さんの息子なんですよね。
持統天皇は、こうして二人の肉親を死に追いやったのです。
上の歌には行間に、女帝が死に追いやった二人の肉親の怨霊への鎮魂の気持ちが込められているはずです。
そうでもしない限り、持統天皇の心の平穏は永遠に訪れないでしょうね。
寝覚めが悪いし、グッスリ眠れませんよ。
あなたも、そう思いませんか?
しかし、この歌を選んだ大伴家持は、果たして“磐余の池”にまつわる大津皇子の悲しいエピソードを知っていたのだろうか?
ところで、おととい(6月3日)、Realogで書いた記事(『性と愛の影に隠れて PART 4』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
いわばジェンダーフリーな歌集だ!」・・・というフェミニストぶった学者の意見に
「ホントかなぁ~?」と、ちょっぴり腑に落ちない所を感じていたのですが、
デンマンさんの「政治批判」という分析に「なるほど!」と納得しました。
山上憶良の『貧窮問答歌』も、政治批判的な内容ですよね。
by 更紗
2006/06/03 16:13
さっそく僕は次のようは返信を書きました。
>いわばジェンダーフリーな歌集だ!」
>・・・というフェミニストぶった学者の
>意見に「ホントかなぁ~?」
>と、ちょっぴり腑に落ちない所を
>感じていたのですが。。。
万葉集は確かに現代人の我々から見るとそのようなものに映るでしょうね。
何しろ名もない防人(さきもり)の歌まで収めていますからね。
今ならさしずめ、代々木公園や新宿駅のホームレスの名も無い人の歌を載せるようなものですからね。
“民主的” “ジェンダーフリー”な印象を与えるでしょう。
でも、そういう印象を与えることを編集長の大伴家持は狙っていたと思いますよ。
つまり、当時としては訳の分からない歌集を作ったわけですよ。
時の権力者は、防人(さきもり)のような無教養な人間が書いた歌などが載っていたので、万葉集は下らない歌集だと蔑(さげす)み、すぐに知識人から見捨てられるだろうと思ったことでしょう。
そういうわけで、政治批判の書になるはずもないと、じっくりと歌集を読んで見なかったでしょうね。
そこが大伴家持の狙いだったろうと、僕はかんぐっているんですよ。うへへへへ。。。。
当時の権力者は、まんまと大伴家持の“悪智恵”に騙されてしまったわけですよ。
そういうわけで、現代人は万葉集を読む事によっても、奈良時代の無茶苦茶な政治の真相を覗き見ることができる、というわけですよね。
大伴家持はしたたかな武人・歌人だと僕は思いますね。
>「なるほど!」と納得しました。
そう言ってもらえると、うれしいですね。記事を書いた甲斐がありますよ。一人でも、そう言ってくれた人が居ることは心強い限りです。ありがとね。
> 政治批判的な内容ですよね
僕もこの人に興味があるんですよ。更紗さんがこの人の名前を出してくれたので、この人の記事を書きたくなりました。
また記事が書けそうですよ。インスピレーションが湧いてきました。
いつもながら、更紗さんのコメントに感謝していますよ。
また気が向いたら書いてくださいね。楽しみにして待ってますよ。
じゃあね。
Thanx millions! Bye-bye。。。
by デンマン 2006/06/04 16:26
『性と愛の影に隠れて PART 4』のコメント欄より
なぜ、更紗さんの書いたコメントを持ち出したのか?
たまたま、更紗さんが山上憶良のことを書いてくれたんですよね。
僕の返信に書いたように、僕もこの人に興味を持っていたんですよ。
そういうわけで、この人のことを調べ直したら、なんと山上憶良は大伴家持の家庭教師だったんですよ。
山上憶良は下級貴族出身でした。
生まれたのは斉明6年(660年)で亡くなったのが天平5年(733年)です。
33年ぶりに復活した遣唐使の一員になって大宝2年(702年)に第7次遣唐使船で唐に行き最新の学問(儒教・仏教等)を学びました。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任したのです。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交を結びました。
それで「筑紫歌壇」を形成したのです。
大伴旅人が大宰府に着任したのは神亀5年(728年)でした。
また、大伴旅人の息子である家持の家庭教師を引き受けたのです。
山上憶良は“社会派”歌人として、貧しい者に同情し、苦しい生活体験や、家族愛を詠んだ歌をたくさん作りました。
「貧窮問答歌」や「好去好来の歌」が有名です。
持統天皇は702年58才で亡くなっています。
ちょうど山上憶良が遣唐使として唐に渡った年です。
大伴家持は養老2年(718年)に生まれましたから、大津皇子の事件を直接には知りません。
しかし、社会派の山上憶良が大伴家持の家庭教師をしていたので、家持は大津皇子の事件を充分に聞かされていたはずです。
大伴家持が山上憶良から強い影響を受けていたことは、山上憶良の歌が78首も万葉集に収められていることからも充分に理解できます。
持統天皇が詠(うた)った歌を“季節の移り変り”を詠んだ歌と見るのか? それとも、歌の裏に隠された大津皇子の怨霊への“鎮魂の歌”と見るのか?
あなたはどう思いますか?
正解はありませんよね?!
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
持統天皇が、おそらく全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伴家持は一読者として持統天皇の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。
大伴家持は、1250年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、女帝の歌を万葉集に載せたのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
性と愛の影に隠れて [日本史]
性と愛の影に隠れて
万葉集の中の政治批判?
磯の上に
生(お)ふる馬酔木(あしび)を
手折(たお)らめど
見すべき君が
ありと云はなくに
(万葉集 巻2の166)
原文: 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
アシビ(馬酔木)は、ツツジ科の常緑低木で、アシミ、アセビ、アセボ、アセミともいう。
東北地方南部から九州の主に太平洋側に分布。
有害植物で牛馬がこれを食べると酔ったようになるので馬酔木の名がついた。
アセボトキシンasebotoxin とよばれる有毒成分を含んでおり、昔は葉を煮出して殺虫薬として用いたという。
早春、枝先に白い鈴蘭に似た壺状の花を咲かせる。
花期:4-5月
花言葉:犠牲、二人で旅をしよう
上の歌の意味:
岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない。
この歌を何も知らない人が素直に解釈すれば次のようになるでしょうか?
愛しているあの人と、この花を一緒に眺めることができたら、なんと素敵なことだろうか。
この花を持ち帰って見せたいけれど、もう、愛するあの人は居ない。
誰もあの人がどこに居るのか私に言ってくれる人も居ない。
この歌を詠(よ)んでいる人は美しい女性ですよね。
僕は、勝手にそう想っています。
きれいに咲いている馬酔木の花を目にして、いつだったか愛する人と一緒に見た頃のことが懐かしく思い出されてきます。
その愛する人を偲びながら詠んでいるわけです。
その愛する人は亡くなってしまったのか?
他の女性のもとに行ってしまったのか?
もしかすると、蒸発してしまったのか?
とにかく、愛する人は、もうその美しい女性のそばには居ません。
いづれにしても愛する人を偲んで詠(うた)った歌です。
さらっと読めば、ただこれだけのことです。
愛の歌です。
人を愛したことのある人なら、このような経験をするものですよね。
あなただってまず間違いなくこのような経験をしているだろうと僕は思います。
もちろん僕だってこのような事をたびたび経験しています。
旅に出たとき、息を呑むようなすばらしい景色だとか、きれいな花などを目にすると、
ああ、あの人が今ここに居て一緒にこの景色を見られたら、なんとすばらしいことだろうか。。。
レンゲさんがきれいな夕日を背にして浜辺に立っています。
近くに愛し合っているカップルの姿を見れば、こうして一人ぼっちで浜辺に立つレンゲさんは、“愛しているあの人と一緒にここできれいな夕日を見たいわ”、と思うに違いないのですよね。
僕だって、もし一人でこのような浜辺に立てば、やっぱり同じ想いに駆(か)られるでしょうね。
あなただって、そうでしょう?
万葉集というのは、奈良時代の庶民から貴族や皇族の、そのような愛の歌を集めた歌集ではないのか?
愛の歌の中には、愛する者を亡くした悲しいものや、愛する人を偲ぶつらい思いを詠ったものもあるけれど、万葉時代の人々の素朴な情愛を歌集にしたものではないのか?
僕は、単純にそんな風にこの万葉集を受け止めていたのです。
万葉集は政治批判のために。。。?
僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?
たとえばですよ。。。
あなたが編集長になって、これから1000年先の人にも読んでもらえるような詩集を作ることになったとする。
そうなったら、おそらく、あなたは現在の有名な詩人に話を持ちかけて、すばらしい詩を作ってもらうか、その人がすでに作ったすばらしい詩を載せることだろうと思います。
その方が簡単だし、あなたの名前にも“ハク”がつく。
あの有名な詩人が作った詩が載るような詩集を出した。。。というように言われる。
現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。
そういう詩の中に、代々木公園のダンボールで作った小屋の中に住んでいる、どこの馬の骨とも分からない名もないホームレスの若者の詩を載せる。
そんなことをしたら、笑いものにされるかもしれない?
でしょう? うへへへへ。。。
無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。
それなのに、なぜ?
必ず理由があるはずなんですよね。
動機があるはずです!
現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。
しかし、奈良時代では、もちろん民主主義なんて考えている人は当時の“政治家”の中には居なかった。
1000年以上早い“思想”でした。
日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。
明治、大正、昭和の、それまでの日本人は天皇の“臣民”だった。“国民”でもなければ“人民”でもなかった。
天皇陛下のためだと言われれば、お国のために死ななければならなかった。
今の僕には、そんなことは馬鹿馬鹿しくてできませんよ。
やれと言われれば、国外に脱出しますよ。(。。。だからじゃないけれど、他の理由で現在、国外に居ますよ!)
江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。
その“百姓”たちは“生かさず殺さず”搾り取られていた。
人権なんてものはなかった。
まるで虫けらのように生かされていた!
万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ!
この万葉時代といわれた奈良時代の後に平安時代がありますよね。
“平安”時代なんて、いかにも平和で雅(みやび)やかな名前をつけていますが、それは貴族から見てのことであって、名もない庶民(被支配者)にとっては“地獄”時代だった。
詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。
だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。
一体、誰が名もない防人の歌を載せたのか?
いったい誰が万葉集の編集長だったのか?
実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。
なぜか?
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
大伴家持は具体的にどのように立ち向かったのか?
それを理解するには長屋王の変から見てゆく必要があります。
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。
藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。
結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。
729年8月、長屋王の死を待ちかねたように光明子が皇后に即位しました。
すべては藤原四兄弟の思惑どおりに事が運んだように見えました。
ところが737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟が全員死亡したのです。
人々は長屋王の怨霊(おんりょう)の崇りだと噂しました。
天平10年(738年)正月に聖武天皇は娘の阿部内親王を皇太子にします。
過去に女性が皇太子になったことは無く、異例の皇太子誕生でした。
光明皇后の娘でもある阿部親王は、このとき未婚の21才でした。
古代の皇族・貴族の娘たちは15才か16才で結婚しています。
光明皇后は、親王が生まれないために、皇位継承の最後の手段として、娘の阿部内親王を嫁がせずに内裏にとどめておいたのです。
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
政治の実権を持っていた藤原4兄弟が“長屋王の崇り”によって死亡すると、政権は橘諸兄(もろえ)に移り藤原四家のうちの式家・宇合(うまかい)の子・藤原広嗣(ひろつぐ)は大宰小貳として九州に追われました。
一年半ほど管内豪族の動きや疲弊の深い農民の状態を観察し、あらゆる機会を捕らえ藤原広嗣は官人を誘い豪族をあおったのです。
“災害がたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄昉・真備が良からぬことをしているためだから、彼らを除くべし!”
藤原広嗣は聖武天皇に信書を提出し740年9月3日に挙兵しました。
聖武天皇は大野東人(壬申の乱で大伴吹負を破った近江側の大野果安の子)を大将にして一万七千の兵を動員したのです。
東人の適切な行動もあり2ヶ月で反乱を制圧し広嗣は捕えられました。
藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男;光明皇后の甥)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
ここで大伴家持が登場するわけです。
つまり藤原仲麻呂が主導権を握ってわがまま勝手に政治を進めることに家持は反対しているわけです。
現在の日本で阿部内親王と安積(あさか)親王のどちらを皇位につけるか?ということが問題になれば、文句なく安積(あさか)親王が皇位を継承しますよね。
まず、問題の起こりようがないんですよね。
なぜなら、天皇位を継承する男子が居るからです。
現在の日本には、この天皇位を継承する男子が居ないので、政府やマスコミや知識人や庶民がいろいろと議論をしているわけですよね。
だから、大伴家持が橘諸兄側に立って次期天皇に安積(あさか)親王を推(お)す事は至極もっともなことです。
ところが藤原仲麻呂や、光明皇后はそのようには考えないわけです。
何が何でも藤原氏の女性が産んだ皇子を天皇にしたい。
しかし、安積(あさか)親王は藤原氏の女性が産んだ皇子ではないのです。
ただそれだけの理由で、がむしゃらに藤原氏の女性であり、光明皇后の娘である阿部内親王を次期天皇にしようとしている。
16才の阿部内親王をモデルにして造られた興福寺の阿修羅像
詳しくは次のリンクをクリックして読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』
この当時の実権を握っているのが藤原仲麻呂と光明皇后だった。
744年正月11日聖武天皇は難波に行幸しました。
造営中止になった恭仁宮(くにきゅう)に藤原仲麻呂が留守官として残り、安積親王は脚の病で桜井頓宮(さくらいかりみや)より恭仁宮へ帰ったのです。
その二日後に安積親王は急死しました。
藤原仲麻呂の暗殺という噂が難波の朝廷に広まったのです。
しかし、この事件は仲麻呂を留守官から外すだけで終わりました。
安積(あさか)親王暗殺は、おそらく藤原仲麻呂独断で行われたものでしょう。
藤原氏のバイブルである“六韜”を愛読していた仲麻呂ならば当然やりそうなことです。
この兵書については次のリンクをクリックして読んでください。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
聖武天皇も、光明皇后にも騒動を避けたい心があり、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから藤原仲麻呂を処分することができなかったのです。
しかし、この後、仲麻呂の思う方向へ事態は進んでゆく事を考えれば、仲麻呂の安積親王暗殺の嫌疑は光明皇后によって揉み消されたようです。
むしろ、その後、仲麻呂に活躍の場を与えられたことは、暗殺の“論功行賞”ではなかったのか?
このような藤原氏の横暴を大伴家持は苦々しく思っていた。
しかし、実権を持っていないので、どうすることもできない。
また、武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけですよ。
当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。
しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。
“愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり”
つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。
でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として僕は大伯皇女(おおくのひめみこ)の詠んだ歌を取り上げたのです。
大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。
では、上の歌にどのような政治批判が込められているのか?
もちろん僕は大伯皇女が政治批判を念頭において上の歌を詠んだとは思っていません。
大伯皇女は、謀反の汚名を着せられて自害して死んでいった実の弟を偲んで上の歌を作ったと思います。
上の歌以外にも大伯皇女が詠んだ次のような歌が万葉集に取り上げられています。
暁露(あかとき)に わが立ちぬれし
(巻2-105)
二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を
いかにか君が ひとり越ゆらむ
(巻2-106)
現身(うつそみ)の 人なる吾(われ)や 明日よりは
二上山を 弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
トップに掲げた歌を含めて、この4作すべてが実の弟である大津皇子(おおつのみこ)を偲んで詠んだものです。
この大津皇子の性格と素質については『日本書紀』と『懐風藻』が次のように伝えています。
言語明朗で天智地天皇に愛されておられた。
成長されるにおよび有能で才学に富み、特に文筆を愛された。
この頃の詩賦(しふ)の隆盛は、大津皇子に始まったといえる。
『日本書紀』
人格と度量は高くて奥深い。
幼年にして学を好み、博覧にして良く文をつづる。
長じて武術を愛好し、力強く良く剣を撃つ。
性格は極めて豪放であり、
決まりごとに拘束されず奔放不軌(ほんぽうふき)であるが、
己の身分を誇ることはなく、人には礼をもって処している。
このために多くの人がつき従っている。
『懐風藻』
これに対して大津皇子が謀反をたくらんで殺そうとした相手の草壁皇子(持統女帝の息子)については、その性格や資質を伝える記録がないのです。
古代日本の正史である『日本書紀』にも詳しい記述はなく、
死亡した日の条には次のような1行の記載があるのみです。
『日本書紀』
謀反者として処刑された大津皇子と、皇太子の身分である草壁皇子の『日本書紀』の中での扱いを比較すると、異常な違いが目立ちます。
それほど大津皇子への期待と同情が大きかったことが実に良く分かります。
つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。
大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。
人なる吾(われ)や
明日よりは
二上山を
弟背(いろせ)とわが見む
(巻2-165)
弟が葬られている二上山を弟と思い見て、
慕い偲ぶことにしよう。
上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大伯皇女が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。
平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。
非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、この事実を我々に伝えようとしたわけです。
大伯皇女が詠(うた)った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?
あなたはどう思いますか?
正解はありませんよね?!
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
日本女性の愛と情念の原点 [日本史]
日本女性の愛と情念の原点
おととい“日本女性の愛と美の原点”というタイトルで記事を書いたのですが、
レンゲさんに関する“愛と性”についての記事と比べるとアクセス数は30%から40%も少ないんですよね。
僕には興味を惹くタイトルだと思えるのですが、このタイトルに惹かれて記事を読みにきた人が少ないのです。
でもRealogに書いた記事(『日本女性の愛と美の原点 PART 1』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
僕の返信と合わせて紹介します。
この時代の皇位継承の流れを分析するには、「天武系」「天智系」、あるいは「蘇我系」「藤原系」を念頭に置かないといけないんですよね。
当時の政治的なパワーバランスを考えず、家系図だけを眺めて安易に古代の日本皇族を分析しようとする識者が多いのには呆れるばかりです(>_<)
阿部内親王(孝謙・称徳天皇)は道鏡がらみの言い伝えのせいで日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝ですね。
道鏡よりも藤原仲麻呂のやったことの方がよっぽど問題があると思うのですが、「藤原家の人間だから」ということで、のちの歴史書にはあまり悪く書かれなかったんでしょうね。
by 更紗 2006/05/29 01:22
僕は、さっそく次のような返信を書きました。
正にその通りですよ。
明日、そのことについて書こうと思っていたのに先を越されて書かれてしまいましたよ!
うへへへへ。。。。
> よっぽど問題があると思うのですが、
> 「藤原家の人間だから」ということで、
> のちの歴史書にはあまり悪く
> 書かれなかったんでしょうね。
その通りだと思います。
でも、最近、道鏡と阿部内親王(孝謙・称徳天皇)が歴史的にも人間的にも見直されているのでうれしいですよね。
やはり、権力者の言うことばかりを信じていると大きな間違いをやらかしますよね。
“愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり!”
やはり、常に愛ある批判の目を持ちながら歴史を読むことが必要なのではないでしょうか?
うへへへへ。。。。
あすの記事に更紗さんのコメントを使わせてもらいます。
よろしく。
とにかく意味のあるコメントをありがとうございました。
じゃあね。
by デンマン 2006/05/29 13:47
『日本女性の愛と美の原点 PART 1』のコメント欄より
この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。
もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
僕が、この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうと思って、そう想定したまでのことです。
阿部内親王以外にも、モデルになる女性が考えられるのだ!。。。と信じている人が居たら、ぜひコメントをお願いします。
ところで、更紗さんも指摘しているように...
この阿部親王という女性は、後世によからぬことを言われた女帝なんです。
この女性が攻撃の対象となったというより、道鏡がボロクソに言われました。
その道鏡を庇護したというので、孝謙・称徳天皇もボロクソに言われたというわけです。
このコンビは江戸時代になるとアダルトグッズの業界ですっかり有名になってしまいました。
葛飾北斎が「魂胆遣曲道具」の中で『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題をつけて道鏡を登場させていますが、
道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。
この鎧甲(よろいかぶと)とは性生活をサポートするための性具なのです。
それに道鏡の名を付けたというわけです。
詳しいことは次の記事を読んでください。
『道鏡と孝謙女帝は性具でも有名』
道鏡を馬鹿にした、というより面白半分に道鏡を笑い者にした次の川柳に、この辺の事情が良く表れています。
道鏡は本当に悪者だったのか?
当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。
道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。
道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。
しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。
これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。
この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。
道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。
なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?
称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。
もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。
こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。
なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?
それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。
この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。
この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。
要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。
しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。
この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。
この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。
伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。
阿部内親王は、なぜ女帝になったのか?
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。
阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。
それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」
このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである
SOURCE: 『続日本紀』
つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。
一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。
天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。
聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。
それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?
長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。
上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。
でも、そればかりではないと僕は思います。
阿修羅像のまなざしの中に込められた奥深い苦悩は阿部内親王のものであると同時に光明皇后の感じてたものではなかったのか?
この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?
それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。
阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙女帝と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、光明皇太后は娘をないがしろにしていたわけです。
これでは孝謙女帝はおもしろくありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。
要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。
藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。
この野望さえなければ、阿部内親王はこれまでの他の内親王のように、すでに結婚し家庭を持ち子供も生まれて、ささやかな女の幸せに浸(ひた)っていたかもしれません。
しかし、阿部内親王には、それは許されなかった。
藤原一族の繁栄と栄光のために、阿部内親王は“犠牲”にならなければならない“宿命”を負わされていた。
他に藤原氏の血を持つ天皇後継者がいなかったから。。。
天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。
これは“むごい”と言えるかもしれませんよね。
生きていながらの“生贄(いけにえ)”---藤原氏のための“犠牲”
16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。
しかし、自分が結婚できない宿命にあることは、この時点ですでに十分に知り尽くしている。
この聡明な少女は、多難な将来を予感して苦悩している。
この表情に、僕はそのような聡明な少女の苦悩を見るのですが、僕の思い過ぎでしょうか?
ところで、更紗さんからもらった上のコメントは2度目です。
最初のコメントは次の記事を読んで書いてくれたのです。
私もメディアの「男系継承=日本古来の伝統」という意見には疑問を持っています。
あたかも男系継承が日本のしきたりのようにみせかけた人物は、デンマンさんがおっしゃるように、藤原不比等です。
現在の日本で「男系継承」を熱く語っているメディアを見て、あの世の藤原不比等はきっと高笑いしていることでしょうねぇ・・・。
私も藤原不比等に関する記事をブログに書いたので、こちらの記事をトラックバックさせていただきますね。
by 更紗 2006/05/28 10:07
このトップで紹介した更紗さんのコメントに中にある“お返事”とは、次の返信のことです。
> 熱く語っているメディアを見て、
> あの世の藤原不比等はきっと
> 高笑いしていることでしょうねぇ・・・。
僕もそのように思っていますよ。
全く同感ですね。
また気が向いたらコメント書いてくださいね。
じゃあね。
バ~♪~イ!
by デンマン 2006/05/28 16:18
歴史に関心のある人はあまり多くないですよね。
すでに書いたとおり、レンゲさんの“愛と性”に関する記事と比べると、こういう歴史に関する記事は読んでくれる人が格段に少ないんですよ。
でも、阿部内親王の事について歴史書を調べてゆくと、レンゲさんの“愛と性”よりも、よっぽど奥深くて面白いですよ。
一生懸命時間をかけて歴史を読んでも、一銭の得にもなりません。
つまり、生活の糧(かて)にはなりません。
しかし、財布の中身は増えなくても、心の糧が増えますよね。
歴史に関心を持っている人は、財布の中身よりも心の糧を大切にしている人ではないのか?
更紗さんもそのような人ではないのか?!
そう思いました。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
日本女性の愛と美の原点 [日本史]
日本女性の愛と美の原点
この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。
阿部内親王は、聖武天皇が皇太子時代の18才の時(718年)に、安宿媛(あすかべひめ:光明子)との間に生まれました。
聖武天皇が即位して3年後(727年)に、光明子との間に男の子が誕生します。
この子は基(もとい)親王と呼ばれ、生後わずか1ヶ月あまりで正式に皇太子になります。
まだ立つことすらできない乳児を皇太子にすることは、当時でも無法なことでした。
藤原一族が、何が何でも自分たちの血とつながりのある親王をゆくゆくは天皇にしたいためだったのです。
ところが、このような無法なことをあたかも天が許さないかのように、この基親王はその1年後に亡くなったのです。
基親王の死は、聖武天皇一家と藤原一族に深刻な悩みをもたらしました。
上の系図で見るとおり、聖武天皇の母親は宮子です。
聖武天皇の皇后は光明子です。
どちらの女性も藤原不比等の娘です。
実は、藤原不比等は持統天皇と組んで天皇家の“設計図”を描きました。
つまり、持統天皇の血を絶やさないような形で皇統を継続させてゆく。
その過程で、藤原氏の血を天皇家に取り込んでゆく。
上の系図は、正にその事を物語るような“証拠”となっているのです。
持統天皇から続いている持統皇統と藤原氏は上の系図で見るように強固な姻戚関係を結んでしっかりと結びついていたのです。
しかし、女帝など即位させずとも天智天皇と天武天皇の血を引く天皇後継者が他にも居たのです。
天武天皇には舎人(とねり)、長(なが)、穂積(ほづみ)、弓削(ゆげ)、新田部(にいたべ)、刑部(おさかべ)という6人の皇子が居ました。
天智天皇にも施基(しき)皇子が居たのです。
この皇子たちは上の系図の女帝たちよりも天皇になる資格が充分にあったのです。
しかし、持統天皇と藤原不比等はこの皇子たちを天皇にはさせなかった。
なぜか?
この皇子たちには持統天皇と藤原不比等の血が流れていないためでした。
しかし、すべてが持統天皇と藤原不比等の思い通りには運ばなかった。
聖武天皇と光明子の間に11年目にして生まれた男の子(天皇後継者)が満2才になる前に亡くなってしまったのです。
つまり、藤原氏につながる皇位継承権者が居なくなってしまったのです。
これは、藤原氏にとっては危機でした。
どうしたらよいのか?
まるで、天が持統天皇と藤原不比等の勝手な“設計図”を白紙に戻すかのように基親王の命を召し上げてしまった。
さらに、持統天皇と藤原不比等のわがままを懲らしめるかのように、皮肉にも天は聖武天皇の妃の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性に男の子を産ませたのです。
この子は安積(あさか)親王と名づけられました。
この親王は将来聖武天皇の跡を継いで天皇になる可能性が充分にあります。
しかし、藤原氏にとって、藤原氏以外の女性が産んだ親王が天皇になることは我慢がならない事です。
さらに、当時、他にも皇位継承権を持つ天武天皇の皇子の舎人親王と新田部親王が健在でした。
この皇子のどちらが天皇になっても、持統天皇の血と藤原氏の血はなくなってしまう。
藤原氏にとって、そういうことは絶対に許すことができないことでした。
すでに藤原不比等は亡くなって居ませんが、その子供たちがその当時、政治の実権を握ろうとしていました。
藤原4兄弟は額をつき合わせるようにして策略をめぐらせたのです。
こうなったら使える“駒”は阿部内親王しかいない。
何とかしてこの女の子を天皇位につかせることはできないものか?
そのためには光明子を皇后に昇格する必要がある。
そうすれば、光明子が中継ぎの天皇になることができるし、その娘の阿部内親王に皇位を譲ることもできる。
しかし、皇后位は皇族出身に限られており、藤原不比等と橘三千代の娘である光明子にはその資格がないのでした。
ところで、このようなことを充分に考えて、藤原不比等は聖武天皇には皇族の出身である妃をおかずに光明子を事実上の“皇后”として正妃の座に着かせていたのです。
藤原4兄弟は政治の実権を握る前に、考えねばならない強力なライバルが居ました。
それが、当時の政府のトップに居た左大臣の長屋王です。
長屋王は臣下の出の女性が皇后になることを認めないに違いない。
この際、“目の上のタンコブ”である長屋王を葬り去りたい。
藤原4兄弟の陰謀は、こうして実行されたのでした。
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。
藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。
結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。
729年8月、長屋王の死を待ちかねたように光明子が皇后に即位しました。
すべては藤原四兄弟の思惑どおりに事が運んだように見えました。
ところが737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟が全員死亡したのです。
人々は長屋王の怨霊(おんりょう)の崇りだと噂しました。
非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
このように怨霊信仰はけっこう古くから日本にあったんですよね。
光明皇后も娘の阿部内親王もこの長屋王の崇りによって藤原4兄弟が亡くなったことを充分に知っていたはずです。
天平10年(738年)正月に聖武天皇は娘の阿部内親王を皇太子にします。
過去に女性が皇太子になったことは無く、異例の皇太子誕生でした。
光明皇后の娘でもある阿部親王は、このとき未婚の21才でした。
古代の皇族・貴族の娘たちは15才か16才で結婚しています。
光明皇后は、親王が生まれないために、皇位継承の最後の手段として、娘の阿部内親王を嫁がせずに内裏にとどめておいたのです。
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
政治の実権を持っていた藤原4兄弟が“長屋王の崇り”によって死亡すると、政権は橘諸兄(もろえ)に移り藤原四家のうちの式家・宇合(うまかい)の子・藤原広嗣(ひろつぐ)は大宰小貳として九州に追われました。
一年半ほど管内豪族の動きや疲弊の深い農民の状態を観察し、あらゆる機会を捕らえ藤原広嗣は官人を誘い豪族をあおったのです。
“災害がたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄昉・真備が良からぬことをしているためだから、彼らを除くべし!”
藤原広嗣は聖武天皇に信書を提出し740年9月3日に挙兵しました。
聖武天皇は大野東人(壬申の乱で大伴吹負を破った近江側の大野果安の子)を大将にして一万七千の兵を動員したのです。
東人の適切な行動もあり2ヶ月で反乱を制圧し広嗣は捕えられました。
藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
744年正月11日聖武天皇は難波に行幸しました。
造営中止になった恭仁宮(くにきゅう)に藤原仲麻呂が留守官として残り、安積親王は脚の病で桜井頓宮(さくらいかりみや)より恭仁宮へ帰ったのです。
その二日後に安積親王は急死しました。
藤原仲麻呂の暗殺という噂が難波の朝廷に広まったのです。
しかし、この事件は仲麻呂を留守官から外すだけで終わりました。
安積(あさか)親王暗殺は、おそらく藤原仲麻呂独断で行われたものでしょう。
藤原氏のバイブルである“六韜”を愛読していた仲麻呂ならば当然やりそうなことです。
この兵書については次のリンクをクリックして読んでください。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
聖武天皇も、光明皇后にも騒動を避けたい心があり、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから藤原仲麻呂を処分することができなかったのです。
しかし、この後、仲麻呂の思う方向へ事態は進んでゆく事を考えれば、仲麻呂の安積親王暗殺の嫌疑は光明皇后によって揉み消されたようです。
むしろ、その後、仲麻呂に活躍の場を与えられたことは、暗殺の“論功行賞”ではなかったのか?
天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。
阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。
それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」
このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである
SOURCE: 『続日本紀』
つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。
一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。
天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。
聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。
それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
この阿修羅像は現在、興福寺国宝館に安置されています。
天平6年(734年)に光明皇后が母親の橘三千代の一周忌追善のために興福寺に西金堂(さいこんどう)を建立したときに、その堂内に奉安した仏像のうちの1つでした。
この仏像については、正倉院文書の『造仏所作物帳(ぞうぶつしょさくもつちょう』に詳しく書かれています。
この記録によると、作業が始まったのは橘三千代が天平5年(733年)1月11日に亡くなってから10日経過した1月21日です。
その一周忌にあわせて翌年の1月9日に完成しています。
日本では、“阿修羅”は“修羅”とも略して呼ばれ、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられます。
阿修羅像は日本では普通3つの顔と6本の腕を持っている仏像として造られました。
阿修羅像の本来の姿は、肌を赤く彩り、髪を逆立て、三面の形相は容貌醜怪であり、目を怒らせ、口を大きく開き、牙をむき出して威嚇し、次に示すような不動明王にも似た怒髪憤怒(どはつふんぬ)の表情を示しています。
ところが、興福寺に安置されている阿修羅像には、怒髪憤怒(どはつふんぬ)が基本であるにもかかわらず、この荒々しさや猛々しさが全く見えません。
この仏像が持つ本来の憤怒の概念とはおよそ縁遠い姿と表情を見せています。
その風貌は極めて内省的であり、自己抑制に満ちて、祈りの念さえ表れています。
少なくとも、不動明王のような怒りの表情は全く感じられません。
これはどういう訳なのか?
僕は、この仏像を観て、まずそのことが大きな疑問として気になり始めたのでした。
ただ単に、光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えません。
それでは、他に何があるのか?
結論を先に言えば、長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
つまり、上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”は阿部内親王のものであると同時に
光明皇后の感じているもの、念じているものではなかったのか?
この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?
それは次回のお楽しみ。。。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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では、今日も一日楽しく愉快に
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日本女性の愛と美の原点を求めて。。。 [日本史]
日本女性の愛と美の
原点を求めて。。。
この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
この女性にセーラー服を着せると次のような女学生になります。
眉毛に墨を入れ、
瞳にも墨を入れて、より写実的に見えるようにしました。
どうですか?
現在に通用する女学生になっているでしょうか?
西暦734年と言うのは日本の年号で言うと天平6年と言うことになります。
文化的には天平時代と言うことになりますよね。
政治的には奈良時代です。
実は上の写真は仏像の顔です。
興福寺にある国宝の阿修羅像です。
当時16才の女の子をモデルにして作られたという可能性が強いんですよ。
詳しいことは、また後ほど説明します。
聖徳太子の時代から仏像はたくさん作られましたが、
飛鳥時代、白鳳時代を経て天平時代になると仏像には均斉と写実の美が表現されるようになります。
しかし、単なる自然な身体表現にとどまらず、内なる精神まで表現しようとしています。
仏師の技量が磨きこまれ精神的な内的表現の領域にまで達したと言うことができるかもしれません。
これが現在の日本の女性です。
つまり、その一人であるレンゲさんの女学生姿です。
この写真を見ると、16才の女学生の可愛らしさ、愛くるしさが良く現れています。
でしょう?
そう思いませんか?
それを出そうと僕が作った写真です。
つまり、レンゲさんを仏像として作ったものではありません。
レンゲさんの可愛らしさ---レンゲさんを可愛がりたくなるような、そういう気持ちを見る人に起こさせるような表情をこの写真の中に僕は塗りこめようとしたのです。
上のレンゲさんの写真を見て、レンゲさんを可愛がりたくなる気持ちにあなたはなれるでしょうか?
ところで、僕が上の仏像にセーラー服を着せて作った画像を見てしみじみと感じたことは、
仏像の表情から受けるさまざまな印象がセーラー服を着せたことによって、全く消えうせてしまったと言うことなのですね。
上の2つのセーラー服姿を見比べて、あなたも、そう感じませんか?
やはり、仏像にセーラー服を着せるには無理がありますよね。
なぜか?
仏師が表現しようとした“内なる精神”は、我々がセーラー服から連想する精神とは全くかけ離れたものだったのではないのか?
僕は、そう思いました。
では、トップの仏像の表情からあなたは何を感じますか?
僕は次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
実は、僕は仏像のモデルになった16才の少女のことを良く知っているのです。
だから、このような感情を読み取ることができるのかもしれません。
もちろん、僕は、その少女に会った事はありませんよ。うへへへへ。。。。
なにしろ、今から1250年以上前に生きていた女性です。
会えるはずがない!
しかし、僕は歴史馬鹿ですから、この女性についての歴史書を手当たりしだい読み耽りました。
そうして、この女性のことを充分理解したつもりになって、上の仏像の表情をじっくりと眺めて感じた、この女性の“内なる精神”なのです。
この仏像を作った責任者は仏師の将軍万福(しょうぐんまんぷく)と言う人です。
“将軍”というのは姓です。
“幕府”とか“将軍職”とは全く関係がありません。
仏像彩色の責任者は絵師の秦牛養(はたのうしかい)です。
僕は改めて、この仏師の技量・力量に感心しますね。
よくこれだけ“内なる精神”を表現できたものだと思います。
阿修羅像って何?
この阿修羅像は現在、興福寺国宝館に安置されています。
天平6年(734年)に光明皇后が母親の橘三千代の一周忌追善のために興福寺に西金堂(さいこんどう)を建立したときに、その堂内に奉安した仏像のうちの1つでした。
この仏像については、正倉院文書の『造仏所作物帳(ぞうぶつしょさくもつちょう』に詳しく書かれています。
この記録によると、作業が始まったのは橘三千代が天平5年(733年)1月11日に亡くなってから10日経過した1月21日です。
その一周忌にあわせて翌年の1月9日に完成しています。
“阿修羅”は、もともとはサンスクリット語(Sanscrit)なんですよね。
日本では梵語(ぼんご)とも呼ばれています。
つまり、“阿修羅”は“asura”を音訳して、そう呼ばれました。
前身は古代ペルシャのゾロアスター教(拝火教)の“アフラ・マツダ”と言う善神とされています。
これがインドに入ると “asura” は “a(否定の意味) + sura(神・天)”、 つまり、“非天” と解釈されて “神ではない” 悪魔の意味になります。
そういうわけで、“阿修羅”は古代インドでは、戦闘の神として激しい気性を持つ災いの悪神とされ、特にインドラ神(帝釈天)とは常に争う間柄になりました。
やがて、インドの神々が釈迦に教化されて仏教に取り入れられると、仏陀と仏法の守護神に変化して“阿修羅”も“八部衆(8種の鬼神)”の内の1つの神になりました。
いずれも古代インドでは邪神であったものが、仏教では『法華経』などの大乗仏教経典に登場するようになります。
日本では、“阿修羅”は“修羅”とも略して呼ばれ、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられます。
阿修羅像は日本では普通3つの顔と6本の腕を持っている仏像として造られました。
阿修羅像の本来の姿は、肌を赤く彩り、髪を逆立て、三面の形相は容貌醜怪であり、目を怒らせ、口を大きく開き、牙をむき出して威嚇し、次に示すような不動明王にも似た怒髪憤怒(どはつふんぬ)の表情を示しています。
ところが、興福寺に安置されている阿修羅像には、怒髪憤怒(どはつふんぬ)が基本であるにもかかわらず、この荒々しさや猛々しさが全く見えません。
この仏像が持つ本来の憤怒の概念とはおよそ縁遠い姿と表情を見せています。
その風貌は極めて内省的であり、自己抑制に満ちて、祈りの念さえ表れています。
少なくとも、不動明王のような怒りの表情は全く感じられません。
これはどういう訳なのか?
僕は、この仏像を観て、まずそのことが大きな疑問として気になり始めたのでした。
ところで、仏教にはたくさんの仏像があります。
本来、仏様には男女の性別はないとされていますが、そうとばかりは言い切れないのです。
実は、仏像には4つの種類があります。
如来、菩薩、明王、天部です。
このうち、如来、菩薩、明王には男女の別は無いとされていますが、天部には男女の別が在ります。
たとえば、毘沙門天(びしゃもんてん)は男です。
弁天様として知られている弁財天(べんざいてん)は女です。
この阿修羅は天部に属しています。
だから、当然のことですが性別があります。
興福寺に安置されている阿修羅像は男なのか女なのか?
僕にとっては一目瞭然のことなのですが、過去にいろいろな人がいろいろな事を書いています。
堀辰雄さんは『大和路・信濃路』(人文書院)の中で、この阿修羅像に少年の姿を見ています。
司馬遼太郎さんは『街道を行く』(朝日文芸文庫)の「奈良散歩」の中で少女の面影を見ています。
僕にとって、この興福寺の阿修羅像は女性以外に考えられませんね。
阿修羅像の本来の性格が怒髪憤怒(どはつふんぬ)である、いわば男性的な荒々しさ、猛々しさを表現しているものであるなら、
興福寺の阿修羅像は一目見ただけでも女性的な優しさ、おとなしさを表しています。
どう見ても女性だとしか思えません。
さらに、この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。
このようなことを考えに入れて、改めてこの阿修羅像を観る時、僕はこの阿修羅像に阿部内親王以外の女性を思い浮かべることができません。
では、日本女性の愛と美の原点を求めて。。。僕がなぜ阿部内親王を取り上げるのか?
それは次の系図を見てもらう必要があります。
つまり、持統天皇に始まったこの系図での最後の女帝なのです。
藤原不比等と持統天皇が天皇家の“設計図”を書きます。
無理を押し通して、その設計図に従って天皇家を運営してゆきますが、
阿部内親王の代になって初めて行き詰まってしまったのです。
持統皇統は称徳天皇が亡くなる時に断絶します。
持統天皇と藤原不比等に縁のある女性たちが、
彼等の王権の維持のために涙ぐましい努力を続けます。
その過程で美しくも悲しい壮絶な愛の物語を繰り広げるのです。
果たしてどのような絵巻なのか?
その最後を彩(いろど)るのが誰あろう、
このページのトップで掲げた16才の悩み多き女性なのです。
一体、どのような絵巻になるのか?
それは次回のお楽しみ。。。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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批判なき歴史は空虚にして、そのまま信じると馬鹿をみる [日本史]
批判なき歴史は空虚にして、
そのまま信じると馬鹿をみる
もちろんこれは、次のスローガンをもじったものです。
愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり
珍しいことに5月14日にYAHOOのブログに書いた記事(『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり』)にヤフーメンバーのタカさん(w1919taka)から次のようなコメントをもらいました。
僕の返信もあわせて紹介します。
死人に口無し。
人を殺して、権力を手にした者に都合の良い内容。
学校教育の歴史はウソを学んでいるような物。
自分でシッカリ判断しないと騙される?
by w1919taka
2006/5/15(月) 午前 8:04
『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり』のコメント欄より
僕はさっそく返信を書きました。
久々のコメントをもらいましたよ。
こういうコメントはうれしいものです。
そうなんですね。 学校で学ぶ歴史も一つの作品ですからね。
作者が50%を書き込む。残りの50%は読者である生徒がしっかりと自分で読まないと、だまされたままになってしまう場合もあるということを僕は言いたかったのです。
そこを読み取ってくれてありがとう!
Thanx millions!
by デンマン
2006/5/15(月) 午後 4:15
歴史書は誰が書いたかが問題ですよね。
中国には現在の王朝の歴史家(歴史担当の役人)が前の王朝の歴史を書くという伝統があります。
日本にはそのような伝統がまったくありません。
つまり、日本の歴史書は、政権を担当している者の意向に従って歴史家が都合の良いように歴史書を書くという“伝統”があります。
『古事記』も『日本書紀』もそのようにして書かれたものです。
だから、創作や嘘や虚飾がそこここに散りばめられています。
時に、権力者と言うものは無茶苦茶なことをやります。
その例として僕は藤原不比等が勝手気ままに女帝を擁立して、
藤原氏の都合の良いように“日本”を変えていったことを述べました。
この上の絵の向かって左側に座っている小さな人物が藤原不比等です。
この男が無茶苦茶なことをやったのです。
その証拠が次の系図にはっきりと残されています。
この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような事をやらかしました。
男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。
系図の中の番号は継承順を示すものです。
持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、
今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。
この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。
もちろん、このような藤原不比等のやり方を見ていて頭にきた人はたくさん居たはずです。
でもね、面と向かって反対したり反抗することができなかった。
なぜ?
すぐに役所を辞めさせられてしまいます。
喰ってゆけなくなります。
辞めさせられるだけなら、まだいいほうです。
上の絵のように、首をきられて殺されてしまいます。
藤原不比等の父親がこのページのトップに載せた絵の中に出てくる中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
蘇我入鹿の首を切ったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
弓を持っているのが鎌足です。
この当時は“政治舞台”での人殺しは珍しいことではなかった。
天皇まで殺されています。
今なら、国会議事堂の中や皇居の中で政治家によって白昼堂々と人殺しが行われていたようなものです。
だから、反抗するには命を捨てる覚悟が必要だった。
誰だって、命を好んで捨てたいと思うものは居ない。
でも、藤原不比等を腹立たしく思っているものは多かった。
何とかして、不比等の鼻をあかしてやりたい!
そういう名もない役人たちが居たのです。
どうして分かるのか?
藤原不比等に反抗して『古事記』や『日本書紀』の中に、はっきりとその足跡を残しているのです。
両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。
しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと矛盾が、ところどころ顔をのぞかせます。
これは、いわば当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は、藤原氏が日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。
何よりも、不比等が親の七光りで編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
もちろん、わざとこの“矛盾”を書き込んだ人もいるでしょう。
つまり、“真相”が分かるようにと“可笑しなこと”を紛れ込ませておく。
読者がその事に気づいて“真相”に迫ろうとする---僕の考えすぎでしょうか?
でも、これから述べるように、そのような“苦心”がこの両書に込められている、と僕には思えるのです。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。
『日本書紀』に隠された真実の声
このページに掲げた血なまぐさい絵は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。
「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
右の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
この兵書については次の記事を読んでください。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
鎌足の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょうね。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、
身の危険を感じて乙巳の変の後、出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。
藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。
結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。
現在でも権力者によって
歴史が変えられようとしている!
そうなんですよ。
藤原不比等がしたようなことを現在でもしようとしている人たちが居ます。
あなたには信じられないでしょう?
歴史を学ぶということは、こういう事実に気づくことなんですよね。
学校の歴史の時間に合格点を取るために歴史を学ぶわけではない!
大学入試に歴史が含まれているから、歴史を勉強するわけでもないんですよね。
そんなことはあなただって分かっている!でしょう?
でも、分かっているのに、愚かな政治家たちにだまされてしまう。
なぜか?
愚かな政治家にだまされるのだから、あなたも。。。。うへへへへ。。。。
。。。ですよね。
現在の権力者は歴史を変えて
何をしようとしているのか?
ネオ・ナショナリズムと呼ばれている主義主張があります。
ここで述べる権力者たちは、自分たちが“ネオ・ナショナリズムの悪者”だとは思っていない。
自分では、日本のためを思って政治をやっていると信じているかもしれません。
でも、やっていることは日本のためにもならないし、彼ら政治家自身のためにもならない!
では、なぜ、そのような“ネオ・ナショナリズムの悪い事”をしてしまうのか?
なぜなら、現在の日本の権力者の大多数が愚か者だからです。
過去の歴史に学んでいないからです。
だから、また過ちを繰り返そうとしている!
グローバル化・国際化したこの世界には、冷静に客観的に日本の歴史と政治を見つめている政治学者、日本研究家、歴史家がいる。
過去にはルース・ベネディクト女史のような優れた日本研究家が居ました。
彼女が書いた『菊と刀』は現在でも版を重ねて読まれています。
98版ぐらいにはなっているでしょう。
関心のある人は僕が書いた書評を読んでみてください。
『日本にやって来たことがない人でも、これほどすぐれた日本研究ができるという証拠の本』
僕はこれまでに6度読みましたが、読むたびに新しい感動に浸ることができました。
ルース・ベネディクト女史以外にも優れた日本研究書を世に出している人が居ます。
その人たちの本を読むと日本が海外からどのように見られているのかを読み取ることができます。
僕は現在カナダのバンクーバーに居ますから、日本を海外から眺めることは比較的簡単にできます。
この僕にさえ日本が危険なネオナショナリズムに突き進んでいるように見えます。
だから、海外の日本研究家が日本で権力を握っている政治家の中にネオナショナリズムを信奉している人が居る、と指摘したとき、僕はさらに危険なものを感じました。
何がそれほど危険なことなのか?
歴史教科書が変えられようとしているんですよ。
ネオナショナリズムを最も端的に表現した言葉は“大東亜戦争”かもしれません。
“大東亜戦争”とは、中国の共産主義や軍閥、それに東南アジアを支配していた欧米の帝国主義者を駆逐するための戦争だったと定義付けています。
つまり、侵略の戦争ではなく開放の戦争だったと。。。
しかし、どのような理屈をごねても、戦争に良い戦争も悪い戦争もないんですよ。
戦争は、他国に対して精神的にも物質的にも残虐な破壊をもたらす。
残虐な破壊をもたらす以上、世界の平和と幸せを願うネット市民として認めるわけには行きませんよね。
あなただって、そう思うでしょう。
韓国のネット市民も戦争したくないんですよ。
中国のネット市民だって戦争したくない。
ロシアのネット市民だって戦争したくないんですよ。
ブラジルのネット市民だって戦争したくないんですよ。
僕がこれまで交信した世界のネット市民で、戦争やりたいと言った人は一人も居ませんでした。
もちろん、僕だって戦争などしたくありません。
個人的に話をするならば、世界のネット市民の誰もが戦争などしたくない。
それなのに、なぜ戦争が起きるのか?
戦争やらねばと考えている政治家が居るからですよね。
戦争をやるための軍隊があるからです。
日本にも、日本を守るためにと。。。戦争体制を着々と進めて居る人たちが居る。
戦後の焼け野原から、がむしゃらに頑張って経済大国にまでになった、勤勉で頭のいい日本人のやることではないですよ。
そう思いませんか?
日米両政府が、機動運用部隊や専門部隊の一元的な管理・運営のため陸上自衛隊が06年度に新設する中央即応集団について、その司令部(約200人)を米軍キャンプ座間(神奈川県)に置く方向で調整していることがわかった。
両政府は在日米軍の再配置をめぐり、米陸軍第1軍団司令部(米ワシントン州)を改編してキャンプ座間に移す方針で、陸自と米陸軍の両司令部による基地の共同使用が実現すれば「日米一体化」がさらに進むことになる。
オリジナルの記事はここをクリックして読んでください。
こんなことをやったって、歴史的には愚かなことだと評価されるんですよ。
馬鹿馬鹿しいことなんですよね。
なぜか?
戦争をなくすことができるからですよ。
でも、なくそうというよりも、現在の愚かな政治家は、アメリカの“戦争インフラ”の一部になって戦争の続く世界を推し進めようとしている。
本当に愚かなことだと思いますね。
時間があったら次の記事を読んでくださいね。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
女帝をたくさん産み出した男 [日本史]
女帝をたくさん産み出した男
そうなんですよ!
そういう男が日本史の中に居たんですよ。
この上の絵の中の向かって左側に座っている小さな男です。
この男の名は藤原不比等(ふひと)と言います。
この男の話をする前に、ちょっと女帝問題について触れたいと思います。
あなただって、この1年か2年の間に日本でも女帝を迎えたらどうか?と言う話を聞いたことがあると思います。
ほとんどの人にとってはどうでも良いことなんでしょうが。。。
でも、そう思っていない人たちも結構居るんですよね。
だから、僕もあまり不謹慎なことはここで言わないつもりです。
しかし、言論の自由の世の中ですからね。
僕にも言いたい事を言う権利があります。
だから、こうしてブログを書いているわけです。
僕は個人的には女帝が居ても良いと思っています。
しかし、反対する人が結構多いのですよね。
なぜ「皇室の伝統」を踏まえて考えないのか!
安易な「女帝論」はいけません!
「男系男子」が皇位継承の大前提!
女帝問題は皇室典範改正だけでは解決しない!
男性皇族を増やすべきだ!
反対する人は、上のようなことを言っています。
2003年(平成15年)の12月、衆議院憲法調査会会長である中山太郎氏が話したことが産経新聞紙上に次のように載りました。
「憲法調査会では最終報告書で女帝を認める方向にある。
そのための皇室典範の改正も来年には考えたい」
この頃から女帝問題がいろいろと取りざたされるようになったようです。
言うまでもなく、中山発言の背景には継承者になる男子皇族が生まれてない、という事実があります。
秋篠宮さんが生まれてから、男子皇族は一人も生まれていない。
これから、皇位継承者の男子皇族が生まれなかったらどうなるのか?
万が一そうなった場合、今の皇室典範の規定では、皇位継承の資格者は「男系男子」ということになっていますから、当然、皇位継承者がいなくなってしまう。
中山氏の発言は、そうした事態の可能性を先取りした形で、そのような皇統の断絶を避けるために内親王(女子皇族)にも皇位継承者の資格を認めたらどうか、と言う発想です。
僕は、それでいいんじゃないの。。。と思います。
でも、それに反対する人たちが結構居るんですね。
◆「男系男子」が皇位継承の大前提!
確かにそのような“伝統”が日本にはあります。
しかし、中山氏も言っていたように、今まで皇位が継承されてきた中で女帝と言われる人が8人10代存在したという前例があります。
これに不服な人は次のように言っています。
つまり、その女帝は「男系の女子」というべきご存在であり、その後の皇位はやはり男系が継承するという大前提があったのです。
これに対し、例えば愛子内親王が皇位を継承されるという場合を想定してみましょう。 当然、愛子内親王はどなたかと結婚します。
そして子供が生まれたら、その子によって皇位が継承されるということになる。
それは皇統が「女系」に移るということになるのです。
しかし、今までの皇室の歴史にはそういう例はない。
8人の女帝全てが、天皇が亡くなった後の皇后様、つまり寡婦(未亡人)か、あるいは生涯、独身を貫いた女性だった。
いわゆる女帝が子供を産んで、その子が皇位を継承したという例は今まで一度もないのです。
女帝はあくまで「中継ぎ」として、つまり「急場の危機をしのぐ」という意味で即位した。
その後の皇位継承は男系に戻る。今まで男系をはずれたことは一度としてないのです。
こうした歴史的伝統を踏まえ、現皇室典範も皇位継承は「男系男子」と定めているわけです。
これは一読して筋が通っているように見えるんですよね。
ところが女帝が皇位を継承した歴史的背景を全く無視しているんですね。
つまり、“机上の空論”になってしまっているんですよ。
“伝統”を持ち出していかにも歴史的事実に即してまともなことを言おうとしている。
でも、全く歴史の実態に目を向けていないのです!
では、歴史の実態とはどのようなものだったのか?
ここで、“女帝をたくさん生み出した男”が登場します。
この系図の中の中臣鎌足が、次の絵の中の大きな人物です。
向かって左が次男の藤原不比等で右側の坊さん姿が長男の定慧(じょうえ)です。
この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような無茶苦茶なことをやったのです。
どのような無茶をやったのか?
それは、男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。
系図の中の番号は継承順を示すものですが、持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。
どうしてこのようなことをしたのか?
天武天皇の息子たちに皇位が渡ると藤原氏の思い通りになる政治ができなくなってしまう。
何が何でも持統天皇を抱き込んで、藤原氏は実権を握りたかった。
そのために、天武天皇系の“皇位継承権を持つ「男系男子」”を全く無視した。
この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。
そのために女帝を立てた!
上の系図の中に登場した女帝たちは“中継ぎ”のように見えるけれども、実態は“藤原氏の傀儡”だった。
“皇位継承権を持つ「男系男子」”は全く無視された!
このようにして藤原氏と天皇家の2人3脚の長い歴史の第1ページが作られた。
このような藤原氏の横暴を苦々しく思っていたのが大伴家持(おおともやかもち)だった。
“新参者の藤原氏”と比べれば“大伴氏”は名門中の名門です。
すでに、氏族としては落ちぶれてはいるけれども過去の栄光のことについては充分に承知している。
大伴氏は、もともとは天皇の親衛隊のような役目を持っていた氏族です。
家持の目から見ても、不比等が天皇家を抱き込んで無茶苦茶なことをやろうとしていたのが見えていたでしょうね。
当然のことですが、日本を“私物化”しようとしている藤原氏に対して良い印象を持っているわけがない。
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。 この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。
そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。
防人の歌がなぜそれほどまでに
政治批判になるのか?
防人は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味だと言われています。
664年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が防人と烽火(のろし)の制度を置いてからのことです。
これは、前年、663年の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために作った制度です。
防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかはいろいろな説がありますが、東国の力を弱めるためだったでしょう。
任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替することになっていましたが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。
東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が連れて行きます。
もちろん徒歩で北九州まで行くわけです。
当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。
帰りは、なんと、自費なのです。
だから、帰りたくても帰ることができない人がいました。
また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。
ホテルだとか旅館などはありませんでしたからね。
野宿ですよ。
追いはぎだとか野党に襲われて命を落とす人もいたのです。
一文無しになって放り出されれば乞食になるか野垂(のた)れ死にするか、わが身が今度は追いはぎや野党になるしか生き延びる道はありません。
だから、防人に選ばれると言うことは特攻隊員に選ばれるような悲痛なものがあったはずです。
生きて帰れるかどうかを本人も家族も心配しなければならなかった。
だから、次のような歌があります。
行くは誰が背と
問ふ人を
見るが羨しさ
物思ひもせず
万葉集 4425番の歌 読み人知らず(不明)
原文: 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
よみ: 防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味: 防人に行くのはどなたのだんな様?と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
つまり、防人に選ばれてしまった男の妻が夫を見送りながら詠んだ歌ですよね。
“どなたの旦那様なの?”と囁(ささや)く声が聞こえてくる。
もうあの人と会えないかもしれないと、私はこれほど心配しているのに、私の心配など全く気にならないように他人事として尋ねているその女性がうらやましい。
私の気持ちを察してくださいな。生き別れになるかもしれないんですよ。本当につらいんです。泣きたいのを我慢しているんですよ。
。。。そのような気持ちを詠んだものでしょうね。
大伴家持は、当時、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。
歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。
大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。
武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。
つまり、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。
天智政権の非人間的な政策に興味のある人は次のリンクをクリックして読んでください。
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』
天智天皇と中臣鎌足が推し進めた非情な“天智政権”を批判したかった。
中臣鎌足の息子の藤原不比等が天皇家を抱き込んで日本を“私物化”しようとしたことを告発したかった。
そのような動機を大伴家持が編纂した万葉集の中に僕は見ることができます。
愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり
万葉集を眺めていると、正にこのスローガンが行間に織り込まれているような気がするんですよ。
当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。
しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。
“愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり”
つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。
でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として防人の歌を挙(あ)げたつもりです。
大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。
実は、藤原家に盾突いた人は大伴家持以外にもたくさん居ます。
ただ、面と向かって盾突くわけには行かない。
何しろ、不比等をはじめ藤原氏は実権を握っている。
そういう訳で、大伴家持がやったように、本音と建前をうまく使い分けながら、藤原氏に反抗しています。
この事はまた別の機会に書きたいと思います。
ところで歴史を学ぶ時、表面的なことばかり見ていると次のようなことだけしか読み取れません。
つまり、その女帝は「男系の女子」というべきご存在であり、その後の皇位はやはり男系が継承するという大前提があったのです。
これに対し、例えば愛子内親王が皇位を継承されるという場合を想定してみましょう。
当然、愛子内親王はどなたかと結婚します。
そして子供が生まれたら、その子によって皇位が継承されるということになる。
それは皇統が「女系」に移るということになるのです。
しかし、今までの皇室の歴史にはそういう例はない。
8人の女帝全てが、天皇が亡くなった後の皇后様、つまり寡婦(未亡人)か、あるいは生涯、独身を貫いた女性だった。
いわゆる女帝が子供を産んで、その子が皇位を継承したという例は今まで一度もないのです。
女帝はあくまで「中継ぎ」として、つまり「急場の危機をしのぐ」という意味で即位した。
その後の皇位継承は男系に戻る。今まで男系をはずれたことは一度としてないのです。
こうした歴史的伝統を踏まえ、現皇室典範も皇位継承は「男系男子」と定めているわけです。
これは歴史を50%だけしか理解していないことになります。
残りの50%はあなたが読み取らなければなりません。
“皇位継承権を持つ「男系男子」”は全く無視された!
このようにして藤原氏と天皇家の2人3脚の長い歴史の第1ページが作られた。
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
歴史も正に人間が作り上げた“作品”だと思います。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
万葉集は大伴家持が全身全霊の力を込めて編纂した歌集です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伴家持は、それを期待しながら1250年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと歌集を編纂したのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、ためになる関連記事
■ 『デンマンのブログを削除した管理人に対する公開抗議文とその面白い顛末』
■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』
■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
性と愛にまぎれ込ませて [日本史]
性と愛にまぎれ込ませて
これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
この暗殺によって、現代の日本の“基礎”ができあがった、
と言っても決して言い過ぎではない程の事件なのです。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性が居るのが分かりますよね。
(まあぁ~、なんですよ。。。よく見なくても分かりますがね。うへへへへ。。。
念のために言ったまでです。)
この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。つまり皇極女帝です。
息子が入鹿の首をはねるちょっと前までその場に居たのですよ。
この“おかあはん”はビックリこいて息子に尋ねたんです。
「これは一体何事ですか?!」
「母上、もういい加減に目を覚ましてください。
この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。
しかも、あわよくば、天皇になろうと考えている。
母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!
母上は、実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」
こんな風に攻められては、皇極女帝も返す言葉がない。
それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。
実は、この当時の大臣(おおおみ【総理大臣】)は、入鹿ではありません。
彼の父親の蝦夷(えみし)です。
しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。それはなぜか?
当然ですが、皇極女帝が入鹿を取り立てていたわけです。
かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。
しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。
それは古事記を読めばよく分かることです。
未亡人の皇極女帝はそのような意味でも、入鹿を可愛がっていたことでしょう。
上の絵で、入鹿の首が御簾(みす)に喰らいついている様子を見てください。
入鹿にしてみれば、皇極女帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。
ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、彼女は奥へ引っ込んでしまった。
「オイ!大年増のお姉さん!
俺をあんなに可愛がっておきながら、これは一体どういうこったい!
俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んしまって平気なンかよ!
俺は恨むよ!よく見ていろ!このまま喰い付いて離れないゾォ~!」
そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?
僕には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。
この絵を見ると、とにかくすさまじい。
このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、あまりありません。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『藤原鎌足と六韜(りくとう)--藤原氏のバイブル』
つまり、皇極女帝から見れば、非情な事をする息子なんですよね。
それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
ところで、額田女王(ぬかだのおおきみ)と皇極女帝は気心が知れた仲の良い話し相手だったのです。
額田女王は皇極女帝の歌を代作したとまで言われる人です。
要するに、額田女王は個人的に中大兄皇子を良く知っていたばかりではなく、皇極女帝からも、この非情な息子の話を耳にタコが出来るくらいに聞かされていたのです。
しかも、強引な政治のやり方を見ている!
中大兄皇子は、暗殺されるほどのことをやってきた人です!
さらに、中大兄皇子が実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり孝徳天皇から引き離して連れて行くところなども充分に話に聞いて知っている!
こういう血なまぐさい時代を生きてきたのが額田女王です。
そして、万葉集に収められている次の有名な“恋の歌”を詠(うた)ったのがこの額田女王です。
紫野行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。
「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)、標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。
大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。
その女性が、ただノー天気に “あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、領地の番人が見るかもしれませんわよォ~おほほほほ。。。”なんて詠(うた)っているだけだとしたら、この女性は愚か者ですよね。
お笑いものですよね?そう思いませんか?
でも、どの歴史書を読んでも、彼女が愚か者だったとはどこにも書いてありません。
むしろ、“美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性”と書いてあることが多い!
しかも、彼女が詠(よ)んだ歌に出てくる男は、誰あろう、天智天皇と天武天皇なんですよね。
だから、上の歌を単なる“恋の歌”として読むのは、あまりにも単純すぎると僕は思うわけですよ。
万葉集は政治批判のために。。。?
僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?
たとえばですよ。。。
あなたが編集長になって、これから1000年先の人にも読んでもらえるような詩集を作ることになったとする。
そうなったら、おそらく、あなたは現在の有名な詩人に話を持ちかけて、すばらしい詩を作ってもらうか、その人がすでに作ったすばらしい詩を載せることだろうと思います。
その方が簡単だし、あなたの名前にも“ハク”がつく。
あの有名な詩人が作った詩が載るような詩集を出した。。。というように言われる。
現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。
そういう詩の中に、代々木公園のダンボールで作った小屋の中に住んでいる、どこの馬の骨とも分からない名もないホームレスの若者の詩を載せる。
そんなことをしたら、笑いものにされるかもしれない?
でしょう? うへへへへ。。。
無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。
それなのに、なぜ?
必ず理由があるはずなんですよね。
動機があるはずです!
現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。
しかし、奈良時代では、もちろん民主主義なんて考えている人は当時の“政治家”の中には居なかった。
1000年以上早い“思想”でした。
日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。
明治、大正、昭和の、それまでの日本人は天皇の“臣民”だった。“国民”でもなければ“人民”でもなかった。
天皇陛下のためだと言われれば、お国のために死ななければならなかった。
今の僕には、そんなことは馬鹿馬鹿しくてできませんよ。
やれと言われれば、国外に脱出しますよ。(。。。だからじゃないけれど、他の理由で現在、国外に居ますよ!)
江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。
その“百姓”たちは“生かさず殺さず”搾り取られていた。
人権なんてものはなかった。
まるで虫けらのように生かされていた!
万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ!
この万葉時代といわれた奈良時代の後に平安時代がありますよね。
“平安”時代なんて、いかにも平和で雅(みやび)やかな名前をつけていますが、それは貴族から見てのことであって、名もない庶民(被支配者)にとっては“地獄”時代だった。
詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。
だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。
一体、誰が名もない防人の歌を載せたのか?
いったい誰が万葉集の編集長だったのか?
実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。
なぜか?
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。
雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。
これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。
つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。
武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?
歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけです。
そのように考えると、防人の詠(よ)んだ歌を万葉集の中に入れてカムフラージュしながら“歴史の真相”を後世に伝えようとした大伴家持の意思を読むことができます。
防人の歌がなぜそれほどまでに
政治批判になるのか?
防人は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味だと言われています。
664年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が防人と烽火(のろし)の制度を置いてからのことです。
これは、前年、663年の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために作った制度です。
防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかはいろいろな説がありますが、東国の力を弱めるためだったでしょう。
任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替することになっていましたが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。
東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役人が連れて行きます。
もちろん徒歩で北九州まで行くわけです。
当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。
帰りは、なんと、自費なのです。
だから、帰りたくても帰ることができない人がいました。
また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。
ホテルだとか旅館などはありませんでしたからね。
野宿ですよ。
追いはぎだとか野党に襲われて命を落とす人もいたのです。
一文無しになって放り出されれば乞食になるか野垂(のた)れ死にするか、わが身が今度は追いはぎや野党になるしか生き延びる道はありません。
だから、防人に選ばれると言うことは特攻隊員に選ばれるような悲痛なものがあったはずです。
生きて帰れるかどうかを本人も家族も心配しなければならなかった。
だから、次のような歌があります。
行くは誰が背と
問ふ人を
見るが羨しさ
物思ひもせず
万葉集 4425番の歌 読み人知らず(不明)
原文: 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
よみ: 防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味: 防人に行くのはどなたのだんな様?と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
つまり、防人に選ばれてしまった男の妻が夫を見送りながら詠んだ歌ですよね。
“どなたの旦那様なの?”と囁(ささや)く声が聞こえてくる。
もうあの人と会えないかもしれないと、私はこれほど心配しているのに、私の心配など全く気にならないように他人事として尋ねているその女性がうらやましい。
私の気持ちを察してくださいな。生き別れになるかもしれないんですよ。本当につらいんです。泣きたいのを我慢しているんですよ。
。。。そのような気持ちを詠んだものでしょうね。
大伴家持は、当時、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったのです。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年(西暦775年)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたのです。
集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
この時は、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過していました。
歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちで詠(よ)んだものです。
なぜ大伴家持は、防人の歌を集めさせたのか?
上に引用した彼の経歴を見れば明らかです。
家持はこの制度に批判的だったんですよね。
大伴家持は当時の政府の役人を務めてはいますが、心の中は反政府的なんですよね。
彼自身も反政府運動に加担していた。
少なくともそのような嫌疑をかけられて罰を受けたことがある。
反骨精神のある人だったことが分かります。
武器を持って反政府運動を繰り広げて政府を転覆したいと思っていたかもしれませんが、それが現実的でないので万葉集という歌集を編纂して、その中に反政府的歌をあつめて歴史の真相を後世に伝えようとしたわけです。
つまり、天智天皇政権の真相を伝えようとしたわけです。
天智政権の非人間的な政策に興味のある人は次のリンクをクリックして読んでください。
愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり
僕はたくさんの“座右の銘”を持っています。
座右の銘というのは普通1つか2つか3つぐらいまでのようですが、僕はたくさん持っているんですよ。へへへ。。。。
座右の銘は3つ以下でなければならない、と言う法律はありませんからね。多ければ多いほど良いことだと思っています。
上のスローガンはそのうちのひとつです。
どうしてこれを持ち出したのか?
万葉集を眺めていると、正にこのスローガンが行間に織り込まれているような気がするんですよ。
当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。
しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。
“愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり”
つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。
でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として僕は額田女王と防人の歌を挙(あ)げたつもりです。
大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。
なぜ、それほどまでして批判を?
藤原氏の横暴があまりにもひどかったんですよね。
それは次の天皇と藤原氏の関(かかわ)り合いを見ると実に良く分かります。
この系図の中の中臣鎌足が、このページのトップに載せた絵の中で蘇我入鹿の首を切った中大兄皇子と一緒に出てくる人物です。
この鎌足の息子が不比等です。この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような無茶苦茶なことをやったわけです。
男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。
系図の中の番号は継承順を示すものですが、持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。
この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。
このような藤原氏の横暴を苦々しく思っていたのが大伴家持です。
“新参者の藤原氏”と比べれば“大伴氏”は名門中の名門だと言っていい。
すでに、氏族としては落ちぶれてはいるけれども過去の栄光のことについては充分に承知している。
大伴氏は、もともとは天皇の親衛隊のような役目を持っていた氏族です。
家持の目から見ても、不比等が天皇家を抱き込んで無茶苦茶なことをやろうとしていたのが見えていたでしょうね。
当然のことですが、日本を“私物化”しようとしている藤原氏に対して良い印象を持っているわけがない。
家持の反骨精神が額田女王や名もない防人の妻の歌を万葉集に載せたと僕は思いますね。
日本を私物化する藤原氏に対する反発。
非情な政治を行った天智天皇政権に対する批判。
大伴家持が万葉集を編纂した本音はこの2つの動機だと僕は思いますね。
実は、藤原家に盾突いた人は大伴家持以外にもたくさん居ます。
ただ、面と向かって盾突くわけには行かない。
何しろ、不比等をはじめ藤原氏は実権を握っている。
そういう訳で、大伴家持がやったように、本音と建前をうまく使い分けながら、藤原氏に反抗しています。
このことについては、また別の機会に書きたいと思います。
額田女王が詠った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?
あなたはどう思いますか?
100%正解はありません!
僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
では。。。
ィ~ハァ~♪~!
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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
天智帝は、後年、悪政を施していた。 [日本史]
天智帝は、後年、悪政を施していた。
天智天皇という人は天皇になるべくして生まれたような人です。決断力もあり、勇気もあります。これは前にも書きました。だからこそ、鎌足が、この皇子と共に大化の改新を成し遂げたわけです。しかし、当時の皇子は20歳になるかならないかと言う若さです。当然鎌足からいろいろと学ぶことも多かったでしょう。ただし、決断力もあり、勇気もある、しかも頭の回転の速い。こうなると、いつまでも、鎌足の風下についているというわけではない。独自の考えと、独自の政策を打ち出してきます。
おそらく外交政策の面で天智帝と鎌足は、後年になって意見が分かれるようになったでしょう。天智天皇は百済一辺倒だったようです。そこへ行くと鎌足は臨機応変です。それ以前の鎌足のやり方を見ても、これ以後の不比等のやり方、あるいは藤原氏のやり方を見ても、非常に考え方が柔軟です。とにかく一つの主義や、外交方針にあまりこだわらない。悪く言えば日和見主義です。仏教に反対していたと思ったら、いつの間にか仏教を取り入れ始めたように、どうしても、仏教が政権を維持してゆくのに必要だと見極めれば、さっそく仏教を取り入れます。ひと言で言えば、政治屋に徹しています。主義を持っているとするなら、それは六韜主義とでも呼ぶものです。それ以外にこだわるものがないように見えます。
いずれにしても、天智帝は、後年になってから、かなりの独断に走ったようです。もう鎌足の言うことを聞かなくなっていたでしょう。白村江の敗戦後は、百済から逃げてきた役人たちをどしどし登用してゆきます。余自信(よじしん)、憶礼福留(おくらいふくる)、鬼室集斯(きしつしゅうし)、谷那晋首(こくなしんす)、沙宅紹明(すたくしょうみょう)、答本春初(とうほんしゅんじょ)、木素貴子(もくそきし)、。。。天智帝の回りには、このような人たちが群がってくるわけです。鎌足の祖先も百済からやってきましたから、初めは、歓迎したでしょう。しかし、このような人たちがあまり増えてくれば、鎌足の影が当然薄くなってゆきます。そのことは、鎌足にとって、余り気分のよいものではないはずです。
しかも、敗戦後にやってきた百済人が山城などの築城の指導をしてゆきます。天智帝が構築しようとした大防衛網計画には、経験豊かなこれらの百済人の意見が重く用いられたとしても不思議ではありません。当然のことながら、政府内に百済からやってきた人たちの新たな派閥ができてきます。こうなると、彼らは、日本の政治と外交について大きな発言力を持ってきます。鎌足にとっては、ますますやりにくくなるわけです。
天智帝と、彼ら百済人の進めていることが、近畿周辺の豪族や、庶民の支持を受けていれば、鎌足としても、まだ我慢ができたでしょう。しかし、彼らのやっていることに対して、豪族や庶民が反対する。
しかも、大海人皇子(天武帝)を統領とする新羅派の、反天智運動がますます盛んになってくる。
こんな状態が続けば、いつか必ず変事が起こるでしょう。鎌足もただじっとしているわけには行きません。ここで例に因って、六韜(りくとう)の教えが鎌足の頭にいろいろと閃きます。そこで鎌足としては、大海人皇子と連絡を取って、天智帝打倒に向かいます。いずれ変事が起きるなら、そうなる前に、自分たちが政権をとろうじゃないかと。これが鎌足のこれまでのやり方でした。
天智帝と鎌足の対立
今まで、見てきたように、後年、天智帝の政策は、ほとんどすべてにおいて、豪族や民衆の反発を受けました。その当時、鎌足が、かりに天智帝を悪人として批判したとしても、ほとんどの人が、そのことに異存はなかったでしょう。事実、天智帝は豪族からは憎まれ、民衆の怨嗟の的になっていました。しかし藤原不比等には、天智帝が悪人だとは書けません。なぜか?
天智帝を悪人にすると、不比等の父親である鎌足までも悪人に仕立て上げなければならなくなります。それはなぜかと言うと、勧善懲悪の精神で日本書紀の事件の説明がなされているからです。つまり、まず聖徳太子は立派な人だったという前提があります。これをくずすことができません。当然聖徳太子の息子の山背大兄皇子も善い人だったとなる。そこで、この皇子を殺害した蘇我入鹿は悪人になります。その悪人・入鹿を暗殺した中臣鎌足と中大兄皇子は善人だとなります。
そういうわけで、天智帝を悪人に仕立て上げることができない。と言うことは、日本書紀には天智帝を殺しましたとは書けません。そう書くと、善人を殺した天武帝は悪人になります。これでは、天武朝が正統なる王朝であることを書いたことになりません。
天智帝を暗殺したことを明記して、しかも天武朝が正統なる王朝だと主張するためには、天智帝が悪人にならんければなりません。そうするためには、すべての話を初めから書き換えねばなりません。そうすると、聖徳太子を悪人に仕立て上げねばなりません。もちろん、そんなことはできません。
いずれにしても、天武朝が正統なる王朝だと言うことを、後世の人が納得のゆくように書き残す、という使命に燃えて不比等は両書の編纂に当たったわけです。その結果が、今われわれの眼にする古事記、日本書紀となって伝わっているわけです。
「でも、こんな昔の事を書いて、どうしようというの?」
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