古代、裏日本と表日本は逆だった。 [日本史]
古代、裏日本と表日本は逆だった。
古代、日本は、朝鮮半島を通して、中国から文化を吸収していたわけです。
現在の北京から日本への道筋をたどると、九州が日本の表玄関ということになります。すると、当然、現在裏日本と呼ばれている地域は、大陸に面しているわけで、古代においては、文化的に見て表日本になるというわけです。
大昔、まだ日本が大陸と陸続きであった頃を考えれば、このことは、もっとよく理解できます。地図で見ればすぐに分かるとおり、大陸と陸続きになっていた部分は、九州と北海道であり、当時一番の辺鄙な土地はどこかといえば、大陸から最もたどり着くのに時間がかかった、現在の東京ということになります。
では、なぜ、現在のように太平洋側が表日本と呼ばれるようになったのか?
まだ歴史的に、検証したわけではありませんが、次のようなことが関連していると思われます。
1) 徳川家康が江戸に幕府を築いたことにより、
政治の中心が太平洋側に移った。
それで太平洋側を表といった。
2)文化及び経済の中心が大阪だった。
直接太平洋に面してはいないけれども、
確実に、日本海よりは、太平洋に、水路でつながっている。
それで、やはり太平洋側を表と呼んだ。
3)日本海側は、冬は雪に閉ざされてしまう。
しかも日照時間が圧倒的に短い。
裏と言うときに、日本人の感覚では、
じめじめとした薄暗いところを連想する。
それに比べると、太平洋側は日当たりがよくって、
表と呼ぶのにふさわしい。
4)日本では、昔から、表玄関というのは、
日当たりのよい南側に設けることが多い。
したがって、そのような習慣ができた頃から南向きのほうを
表日本と呼ぶようになった。
5)幕末、文化人の目が、西洋に植民地化されようとしている
中国を飛び越えて、西洋に移っていった。
しかも同じ頃ペリーの来航という一大事件が起こった。
黒船に象徴される西洋文明に日本人が気づいて、アメリカの方向、
つまり太平洋側が表になった。
いつ頃から、太平洋側が、表日本と呼ばれるようになったかは、おそらく誰もはっきりと、何年からとは断定できないでしょう。いづれにしても、現在圧倒的多数が、太平洋に面している地域を、表日本と呼んでいます。その呼び方が正しいか正しくないか、ということはあまり意味がありませんが、古代日本を振り返って眺めるとき、このことは、非常に大きな意味を持ってきます。
というのは、現在でこそ、太平洋側に、東京を始めとして大都市が集中していますが、邪馬台国時代には、太平洋側には、ほとんど町らしい人間集団はみあたらなかったようです。せいぜい部落というよなものだったでしょう。ところがそれに比べると、日本海側には、当時の大都市が集中していました。特に、現在の、鳥取県・島根県のあたりには、一大国家と呼ぶにふさわしい大集落があったようです。
このことは最近の考古学上の遺跡発見などからも裏付けられています。
例えば、島根県斐川町の神庭荒神谷遺跡から出土した青銅器や、その隣町(加茂町ー加茂岩倉遺跡)から出土した全国最多の銅鐸39個などは、古代出雲王国を裏付ける十分な証拠といえるでしょう。
それに、因幡の白兎を始めとする伝説や、国譲り神話などは、圧倒的に、日本海側を舞台にしたものが多いのです。現在でこそ、東京へ日本全国の目が集中しているようですが、古代にあっては、邪馬台国にしろ、あるいわその後を引き継いだ大和朝廷にしろ、支配者たちの目は、まず間違いなく当時の表日本、特に現在の、島根県から新潟県あたりに向けられていたはずです。
というのは、このあたりに古代出雲王国を始めとする,
強国がお互いに鎬(しのぎ)を削っていたからです。
更に詳しい事は次のリンクをクイックして読んでください。
http://barclay.e-city.tv/oldhist/uraomote.html
そう言うわけですから、“裏日本” “表日本” を差別語と考えることは滑稽なんですね。
この愚かな差別語検閲については次のリンクをクリックして読んでください。
http://barclay.c-f-h.com/renge/tree.php?all=1674#1691
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