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卑弥子さんに誘われて古代史を覗いた人 [日本史]

卑弥子さんに誘われて
古代史を覗いた人

古代史にはロマンがありますよね。
例えば『源氏物語』を読んだとしますよね。

平安時代には男と女はどのように恋愛していたのだろうか?
物語は物語で結局、『源氏物語』は“小説”にすぎないのではないか?

現実に平安時代の、あるいは古代史の中で男と女は
実際にどのような恋愛をしていたのだろうか?

僕は歴史馬鹿ですから、当然そのような疑問が頭を持ち上げてきます。

でもね、そのような事を調べようとしても、
なかなか庶民の恋愛なんて記録に載ってないんですよね。
平安時代や奈良時代のミーちゃんハーちゃんの恋愛日記なんて無いんですよ。

仕方ないから有名人の恋愛を手がかりにするしかない。

この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?

。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。

実際にこの表情を持った仏像が、今から1272年前に造られたのです。
このモデルになった女性が居た、という事ですよね!

実は、この仏像を見てモデルになった人物は少年だと言う歴史家や美術評論家も居るんですよ。
しかし、僕は女性だとしか思えませんね。

それが歴史馬鹿の僕のロマンですよ!
一体このモデルになった女性は誰なのか?
この女性が一体どのような恋愛をしたというのか?

このモデルになった女性は歴史上実在した人物なのです!
どうですか?

このように説明してくれば、あなただって興味をそそられるでしょう?
それが歴史のロマンですよね。

関心があったらぜひ次のリンクをクリックして読んでみてください。

『日本女性の愛と情念の原点 (2006年5月30日)』

そのようなわけで、歴史馬鹿の僕は古代の史実を調べて
僕の歴史ロマンをホムペにして公開したわけです。
上のリンクもそうした記事の中の一つです。
ブログを書くのが忙しくて、なかなか更新できないのですが、
上の記事を今日書き加えたばかりです。

なるべく多くの人に読んでもらおうと、
ブログの記事の中で卑弥子さんに宣伝してもらっているのですよ。
あなたも、おそらく卑弥子さんが宣伝しているのを見たことがあるでしょう?
かなり積極的に、次のように宣伝しているんですよ。

おほほほほほ。。。。
ネットには面白い人が居るものでござ~~ますわね。
やっぱし、長生きをするものでござ~♪~ますわよ。
まさか、平成時代になって、
これほどの愚か者を目にするとは
思いませんでしたわああああ~~~。
うふふふふふ。。。
ヴァイアグラのお馬鹿さんも、
かなりのキの字でしたけれど
長野県のナッチー君も
オツムのネジがだいぶ緩(ゆる)んでいますわよね。
おほほほほほ。。。。
ほんとうに一生懸命になって、
妄想を書きまくっているんですものね。
だから、どの掲示板でも相手にされていないんですわよね。
ただ例外がありますわ。
うふふふふ。。。。
そうですわよ。
デンマンさんだけが、このオツムの足りない
ナッチー君のお相手をしているんですのよ。
。。。つうことわああああ。。。。
デンマンさんも。。。オツムが。。。
足りないのかしらあああ???
おほほほほ。。。。
いづれにしても、
日本の良さをお忘れなく!
そういうわけで、あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』をぜひ読んでくださいましね。
絶対に読んでね。
ダメよ、見なかったら。。。めっ。。。
うふふふふふ。。。。
失礼いたしましたああああああ。。。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。


このようにして、卑弥子さんが面白おかしく
『ちょっと変わった 新しい古代日本史』を紹介しているんですよ。

そういうわけで、かなりの人が『新しい日本古代史』サイトを覗きにゆきます。
でも、コメントを残す人は極めてまれなんですよ。
なぜなら、メールフォームが英語版だからです。

僕が日本のサイトで初めて作ったホムペが、この古代史サイトだったのです。
そう言う訳で、このとき使ったメールフォームがそれまで使っていた英語版だったのです。
だから、英語のページに拒否反応を起こす人は、
コメントを書いてから英語の確認画面が出てくると、
恐れをなして止めてしまうようです。

でも、海外に暮らしている日本語を読める人からは、けっこうコメントをもらいました。
次のコメントは最近もらった日本に住んでいる読者からのものです。

This form was submitted: Sep 22 2006 / 00:50:20
(日本時間では 9月22日の午後4時50分)

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-persia2-superb
Your_Name = Yamamoto
Your_Email_Address = teetotaler@y2.dion.ne.jp

Comments:



とても分かりやすく、抵抗なく読める構成です。
この記事を読んでおけば、奈良・飛鳥界隈で大発見があっても、
ショックを受けることなく、やはりな、と喜び受け入れられるでしょう。

亀石一つ採っても、カエル的な形であることは、色々の可能性を秘めています。
「甲羅」の表面右あたりに、剥離したような、
または模様のようなものが認められるのも気になります。

微視的、世界的規模で調べて、初めて正体に肉薄できるのでしょうか。

メールフォームサービスを提供しているカナダのサーバーから上のような報告が届いたのですよ。
このYamamotoさんがどのページを見たのかというと、
上の記録から次のページだという事が分かります。

http://barclay.e-city.tv/oldhist/persia2.html
『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』

このページはよく読まれています。
僕が3年前に書いたものです。
この頃から卑弥子さんは活躍していたのですよ。
僕がレンゲさんと出会ったのが2年前ですから、
卑弥子さんの方が僕との付き合いは長いんです。

Yamamotoさんは、すぐ上で紹介したページの下の方にある
『御意見・御感想』フォームを使ってコメントを書いてくれたのです。

僕は、さっそく次のような返信を書きました。



コメントありがとうございました。
僕のブログの記事を読まれてから
E-CITYサイトで“新しい古代史”の記事を読んでくれたのでしょうか?

あるいは卑弥子さんの宣伝文句につられて読んでくれたのでしょうか?(笑)
とにかく、ありがとうございました。
メールフォームを使って、わざわざコメントを書いてくれる人は極めてまれなんですよ。
しかも、好意的な内容なのでうれしく思っています。

お礼の意味を込めて書く気になりましたよ。
これからも気が向いたら僕の他の記事も読んでください。
たぶん、僕のブログから古代史サイトへ行かれたと思いますが、
僕のブログのURLを書いておきます。

http://blog.so-net.ne.jp/denman

毎日更新しています。
気が向いたら読んでください。

Yamamotoさんのコメントも近いうち僕の記事の中で使わせてもらいます。
これからもよろしくお願いします。

まずは、お礼まで。。。
では。。。

Yamamotoさんのメールアドレスを書いて送信したのです。
ところが、次のようなエラー通知が届いたんですよ。

送信者: MAILER-DAEMON@gh187.mail.goo.ne.jp
宛先: denman@mail.goo.ne.jp
件名: failure notice
日時: 2006年09月23日 04:42:36


Hi. This is the qmail-send program at gh187.mail.goo.ne.jp.
I'm afraid I wasn't able to deliver your message to the following addresses.
This is a permanent error; I've given up. Sorry it didn't work out.

teetotaler@y2.dion.ne.jp:
210.196.14.58 does not like recipient.
Remote host said: 550 user unknown
Giving up on 210.196.14.58.

--- Below this line is a copy of the message.

Return-Path: denman@mail.goo.ne.jp
Received: (qmail 28702 invoked by uid 65534); 23 Sep 2006 04:42:22 +0900
Date: 23 Sep 2006 04:42:22 +0900
Message-ID: 20060922194222.28701.qmail@mail.goo.ne.jp
X-Mailer: Goo Mail http://mail.goo.ne.jp/
Mime-Version: 1.0
Content-Transfer-Encoding: 7bit
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
From: denman@mail.goo.ne.jp
To: teetotaler@y2.dion.ne.jp
CC: barclay1720@aol.com
X-Original-IP: [172.194.231.91]

つまり、メールアドレスに該当する人が居ないという事なんですよね。
早い話が、Yamamotoさんが出鱈目なメールアドレスを書いたという事です。

しかし、Yamamotoさんのコメントは極めて真面目なものです。
僕の他の記事もたくさん読んでいる事が、これだけの短い文章を読んでも分かるんですよ。
なぜなら、“亀石”はYamamotoさんが読んだ
『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』のページにはでて来ないんですよね。

つまり、Yamamotoさんは次のページも読んでいるんですよ。

http://barclay.e-city.tv/oldhist/persiag.html
『亀石の謎』

それ以外のページも読んでいる。だからこそ、次のようなことが書ける!

この記事を読んでおけば、奈良・飛鳥界隈で大発見があっても、
ショックを受けることなく、やはりな、と喜び受け入れられるでしょう。

(中略)

微視的、世界的規模で調べて、初めて正体に肉薄できるのでしょうか。

古代日本史と言っても世界的な規模で調べない限り謎は解けないものだ、と言う事は僕の結論なんですよ。
その事をYamamotoさんも理解している。
だからこそ、僕は同好の士を得たつもりで返信を書いたわけです。

しかし、期待に反してメールが戻ってきてしまった!
なぜ?

僕はYamamotoさんがメールを発信した時間を元にアクセス解析を調べてみたのです。
YamamotoさんのIPアドレスは次の通りです。

125.54.204.***

IPドメインは次の通りです。

KD125054204***.ppp-bb.dion.ne.jp

Yamamotoさんのプライバシーを守るために、アドレスの3桁を伏せてあります。

Yamamotoさんのプロバイダーはメールアドレスと同じ
KDDI株式会社が運営している DION です。

どういう事情か分かりませんが、とにかく正しいメールアドレスまでは書く気になれなかったようです。
もしかしたら、うっかり間違ってアドレスを書いたのかも。。。

いづれにしても貴重なコメントをもらって、励みになった事に変わりがありません。
Yamamotoさん、もしこのブログを読むことがあったら、
僕の感謝の気持ちを受け取ってくださいね。

そして、また気が向いたらコメントを書いてください。
これを読んでいるあなたもどうぞ。。。

じゃあね。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

おほほほほほ。。。。
また、出てまいりましたわぁ。
そうですよねぇ~。
コメントを書いても、いろいろな事情があって
メールアドレスまでは書きたくないと言う場合だって
あるでござ~♪~ますでしょうねぇ~
今確認したら、別にメールアドレスを書かなくても
コメントを送信できますわよ。
だから、どんどん思ったことを書いてくださいね。
でもね、嫌がらせだとか、意地悪なコメントだとか、
そういうことは書かないほうがいいですわよ。
なぜなら、あなたのIPドレスは
記録されているのですからね。
だから、犯罪めいた事をすれば、
あなたはすぐに特定できてしまうんですよ。
もちろん、あなたを脅すつもりはありませんことよ!
とにかく、お互いに憎まれるような事をしないで、
楽しく、愉快に、おもしろく。。。
まったりと愛し合うつもりでやりましょうね?
おほほほほほ。。。。
そういうわけで、あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』をぜひ読んでくださいましね。
絶対に読んでねぇ~~。
ダメよ、見なかったら。。。めっ。。。
うふふふふふ。。。。
失礼いたしましたああああああ。。。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。



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日本を立ち上げた男の出生の謎? [日本史]

日本を立ち上げた男の出生の謎?

この上の写真の左下の小さな男が次男の藤原不比等です。
この男が日本を立ち上げた!と言ったら、僕の言いすぎだと思いますか?
でもね、次の天皇家の系図を見てくださいよ。

皇族でもない男が、言ってみれば、どこの馬の骨とも分からない男が、
足軽から身を起こして豊臣秀吉のように天下を取ったようなものですよ。
でも、秀吉といえども天皇家に入り込もうとはしなかった。

もちろん、秀吉の時代には天皇の実権はなかったのだから、
天皇家に娘を入れようなどとは考えても居なかったに違いないですよね。

とにかく、藤原不比等は持統天皇と組んで彼女の権勢欲と独占欲をサポートする形で天皇家に食い込んでいった。
そのやり方は“すさまじいもの”を感じさせます。

持統天皇は自分の血が流れていない者には皇位を継がせようとしなかった。
だから、夫である天武天皇の息子がたくさん居たにもかかわらず、
自分の生んだ子供ではない者を天皇にさせたくなかった。
それで、自分が女帝に納まった。
その後も、自分の血にこだわった。
そのために、藤原不比等と企(たくら)んでたくさんの女帝を立てなければならなかった。

どこの馬の骨とも分からないような男が、持統天皇と組んでこれだけのことをしでかした。
ところが、歴史家がどこでも書いているように藤原不比等に関する歴史的な資料が極めて少ないんですよね。
この人物は『古事記』と『日本書紀』の編集長の立場にあった人なんですよ。
凡人ならば、自分のしてきた事を飾りたてて、いろいろとあること無い事を書き並べて自己顕示欲を満たそうとするのですが、そのような虚栄の衝動には無縁な人でした。

要するに、名を捨てて実をとるような人だったんでしょうね。
そういうわけで、この藤原不比等の名が初めて『日本書紀』に出てくるのは689年、彼が31才のときの記述です。
この年の2月の条に、9人の人物が判事(裁判官)に補任された記事があるのですが、その中に「藤原朝臣史(あそんふひと)」という名前で出てきます。

ところで「史(ふひと)」という名前が「不比等」と用字が代わるのは彼が死んでからです。
実は、本人は「不比等」という名を使った事がない。
後の世に、そのような名前で呼ばれる事など夢にも思わなかったでしょう。
「比ぶべき者など有らず(不比等)」というこの名前は、平安時代になってから藤原氏の繁栄を築いた、そしてこの日本を立ち上げた男に子孫が贈った称号のようなものだったでしょうね。

藤原不比等は、後に右大臣になり「贈正一位太政大臣府君」と称されたほどの人物なのだけれど、彼の行動を語る歴史的な資料があるか?と思って探してみると極めて少ない。
文武天皇元年(697年)から桓武天皇11年(791年)までの日本の正史である『続日本紀』にも、藤原不比等に関する記事は13箇所しかなく、それも極めて簡略なものに過ぎないんですよね。

つまり、どういうことが言えるのか?

書きたくても書けない。
書くとボロが出るから書けない。
書かせなかった。
彼の子孫もその事を知っていたから、彼の意思を引き継いだんでしょうね。
だから、おそらく父親の藤原鎌足の事も含めて、藤原不比等のことについても書いた編集者が居たと思います。
しかし、藤原氏が日本古来の中臣氏の出身であることを強く印象付けた他には、書かせなかったようです。
まず間違いなく、編集長である藤原不比等がボツにしたでしょう。
そのようなボロが出るような記事は載せなかった。
その後の藤原氏の歴史編纂者も同じようにしたでしょうね。

だから、古代日本の、あるいは奈良時代日本の“正史”とは言われていても、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』はその点を考慮に入れて読まなければなりませんよね。

上の写真の坊さんの姿をしているのは長男の定慧(じょうえ)です。
大きな人物が父親の藤原鎌足です。
この定慧(じょうえ)は11才の年に遣唐使の一員として唐に渡ります。
なぜなのか?
日本にとどまっていると天智天皇に暗殺されるからです。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『定慧出生の秘密』

11才ですからね。現在で言うなら、まだ小学生ですよ。
それも、親が付き添いで一緒に行くわけでもないですからね。
しかも、当時の遣唐使船というのは確率的に言って4艘で行けば、
1艘か2艘は暴風雨にあったり、海難事故で沈むのが当たり前のような時代でした。
つまり、両親は2度と定慧(じょうえ)に会えないかもしれないわけですよね。
その覚悟で遣唐使船に乗せたのです。
もちろん、それ程危険な旅に出したのには理由があったわけです。

例え、唐に無事に着いたとしても、今度は帰れないかもしれない。
あの、阿倍仲麻呂など、日本にあれ程帰りたかったのに、ついに帰れず唐の国で死んでしまった。
定慧は幸運でした。
でも、他の遣唐使は日本へ帰ってきたのに、彼は帰れない理由があった。

11才から12年間海外に居ました。初めは唐に、それから百済に居ました。
もちろん、百済に居たときにはスパイ活動をしていたのです。
大和朝廷は唐と新羅の連合軍に対して百済を救うために援軍を送ったのです。
そのための情報収集をしていたのです。

ところが大和朝廷の水軍が戦いで負けてから、定慧は日本に戻ってきた。
天智天皇は定慧が連合軍の手下になって戻ってきたように受け止めてしまった。
天智天皇は猜疑心の強い人でした。
しかも、定慧の実の父親が孝徳天皇であることは公然の秘密でした。
12年間海外に居て、やっと懐かしい日本にたどり着いたのもつかの間、
天智天皇が放った刺客によって暗殺されてしまったのです。

もちろん、このようなことはあなたは初耳でしょう?
学校では教えませんからね。うへへへへ。。。。
馬鹿げた事と思うなら、ぜひ上の記事を読んでみてください。
決して馬鹿げていない事が分かるはずですよ。

名目上では長男の定慧は、次男の藤原不比等が7才の時に23才で暗殺されたのです。

ところで、藤原不比等は産まれて間もない頃に他家に預けられる事になりました。
諸氏の系図集である『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』(南北朝後期成立)の「不比等伝」には、次のような記述があります。

公(藤原不比等のこと)は避くる所の事あり、
すなわち山科(やましな:現在の京都市東山区)の
田辺史大隈(たなべふひとのおおすみ)の家に養う。
それをもって史(ふひと)と名づくるなリ。

なぜ他家に預けられたのか?
「避くる所の事」とは何か?

藤原不比等の事を調べるなら誰もが不思議に思うのに、詳しいことは何一つ書いてないんですよね。
謎に包まれている。
藤原不比等の出生に関わる極めて重要なことです。

書きたくとも書けなかったのでしょうね。
書けばボロがでる。

定慧のことも詳しく書くとボロが出てしまうんですよ。
定慧ガ孝徳天皇の実子だったこと。
孝徳天皇が病死したということも疑えば暗殺という事だって充分に考えられます。
定慧が暗殺されたということも隠されている。
天智天皇が刺客を送って暗殺させたことだって見え見えなのに書けない。
天智天皇と天武天皇が実は腹違いの兄弟だということも書けない。
しかも天武天皇の方が実は兄だった。
天智天皇の4人の娘が同母弟だと言われている天武天皇の妻になっている。
確かに、そのような例は古代にはあったけれど、
自分の娘を4人も弟の妻に与える。
ちょっと、常識では考えられないことですよね。
でも、『日本書紀』にはそのように書いてある。
なぜ?
書いてあるから信じている。

でも、その『日本書紀』は大化の改新を正当化するために
藤原政権を正当化するために書かれたようなものですよね。

もちろん、歴史家と呼ばれている人が歴史を検証しているのだろうけれども、
つい最近になるまで、皇国史観の影響で天皇の悪口は書けなかった。
今だって、皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患って奇行の数々をしたという事だって書いてない。

だから、天智天皇が暗殺された!なんて常識的な歴史家には書けませんよね。
充分な資料が無いから、無理も無い。
しかし、理論物理学があるように、理論歴史学があっても良いと僕は信じていますよ。

あれだけ権謀術策が渦を巻いていた時代ですよ。
天智天皇が暗殺されたって、奇妙でも不思議でも、なんでもないですよね。
崇峻(すしゅん)天皇は蘇我馬子の差し向けた刺客によって暗殺されました。
ただ、藤原不比等の方針で、天智天皇の暗殺は書かなかっただけです。

なぜなら、大化の改新を実行した中大兄皇子と中臣鎌足は善人でなければならない。
天智天皇が暗殺され!ということになれば、当然どうして?ということになってしまう。
そうしたら、何もかもが覆(くつがえ)されてしまう。
隠されていた事実をすべて晒さなければならない。

つまり、蘇我氏が実は善玉で、権勢欲に駆られた中大兄皇子が自分勝手に始めた権力闘争だった、とは書けません。
でも、冷静にあの当時の歴史を見れば、大化の改新でやった事は蘇我氏がやろうとしていたことを引き継いだに過ぎないんですよね。

小泉純ちゃんが“女性刺客”を送り込んだことは、まだ記憶に新しいです。
海外では面白おかしく取り上げられましたよ。

Koizumi enlists 'assassins'
to run against rival MPs




Correspondents Report - Sunday, 11 September , 2005

Reporter: Shane McLeod

HAMISH ROBERTSON: As the people of Japan head to the polls this weekend, political analysts will be paying close attention to the impact of one of Prime Minister Junichiro Koizumi's more unusual campaign tactics.

Echoing the samurai battles of the past, Mr Koizumi has endorsed so-called 'assassins' to run against former government MPs who defeated his pet reform project, the privatisation of Japan's Post Office. The would-be targets say this isn't fair, accusing Mr Koizumi of 'cold hearted' politics.

But as Shane McLeod reports, some of the assassins appear to have their quarry in their sights.

SHANE MCLEOD: In Japanese, they're known as 'shikoku' - translated it means assassins.

They're the hand-picked warriors of Junichiro Koizumi's battle, one he styles as a struggle between good and evil, between those who support reform, and those who oppose it.

And in their sights are the former government MPs who thwarted Mr Koizumi's plans to break-up and sell off Japan's post office.

One of Mr Koizumi's assassins is Environment Minister Yuriko Koike.

YURIKO KOIKE (translated): My move is not aimed at assassinating, but to give the people an alternative choice. I'd like to become a receiver of the people who support Koizumi's reforms and privatisation.

From “Correspondents Report”

ところで刺客のローマ字綴りが間違っていますよね。
shikoku と書いていますよ。 shikyaku ですよね。
こういうことが結構あります。
僕も“人の振り見て我が振り直”さねばならないですけれど。。。

政治の世界では実際に殺さなくても、今も昔も同じことをやっています。
邪魔者は消さねばならない。
現在は選挙が戦場ですが、昔は、もろに命のやりとりをした。
天皇が暗殺された時代です。

しかし、天智天皇が暗殺されたということは書けなかった。
なぜか?
藤原不比等のシナリオにはそういう暗殺の場は、初めから無かったからです。
あくまでも大化の改新を正当化しなければならない。
藤原政権を正当化しなければならない。
そのためには、天智天皇が暗殺されてはまずい。

そういう方針で出来上がったものが『日本書紀』だと僕は考えています。
つまり、僕の仮説です。

話を元に戻すと、
だから、上の『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』の引用も、そのような観点から読めば、
藤原不比等にとっては都合の悪いことに違いがないんですよね。
だから、この件に関して、いや、31才以前の藤原不比等に関しての記事も彼自身の判断でボツにしたはずです。

では、この件について詳しく書くと何が暴露されてしまうのか?
どういうところが都合が悪いのか?

1つには藤原不比等の出生の秘密がばれてしまう。
つまり、定慧の母親と藤原不比等の母親は違う。
もう1つは、藤原氏の出自が公(おおやけ)にされてしまう。
地方豪族から実権を奪い律令政治の下で中央集権化を図(はか)ろうとした藤原不比等にとって、自分の出身が“よそ者”であってはまずい。

そういうわけで、藤原不比等は意識して自分の経歴を『日本書紀』に書かせなかったのだと僕は考えています。

。。。で、それを裏付ける歴史的資料でも有るの?

もし、あなたにそう尋ねられると、僕はウ~~ン、と唸(うな)ってしまうんですが、
“理論歴史学”から一歩も出られないんですよ。
でもね、理論物理学という学問があります。
仮説をより真理に近づける努力が重要だと思いますよね。

ニュートンの万有引力の法則だけでは、月にロケットを飛ばすことができなかったんですよね。
アインシュタインの特殊相対性理論が構築されて、より真理に近づいた。
だから、ロケットを月に到着させることができた。
しかし、アインシュタインの相対性理論も絶対真理ではないんですよね。
それで、今でも理論物理学者たちが、更に真理に近づこうと努力している。
 
現代の大宇宙も、その初期においてはミクロな宇宙だったとすると、マクロの宇宙を扱う相対論ではなく、量子論を用いなければなりません。
アインシュタインの再来だと言われているホーキング博士などが、宇宙の初期に量子論を応用しようとしているとのことです。
ところが相対論と量子論はうまく整合しないと言われています。

それで、いろいろな仮説を立てながら、より真理に近づこうとしている。
つまり、物理学者の数だけ仮説が存在するかもしれない。
しかし、より真理に近い仮説と言うものがあリますよね。
だから、絶対真理ではなくとも、アインシュタインの相対理論に従うことでロケットを月に飛ばすことができる。

歴史学も、本来そのようなものではないかと僕は考えています。
僕のようなアマチュア歴史馬鹿を含めて、たくさんの仮説があるかもしれない。
でも、より真実に近い仮説が、より滑稽な仮説を淘汰してゆきます。
僕の仮説はかなり大胆です。

でもね、ただあてずっぽうに仮説を書いているわけではありません。
これまで書いたことも、次のような記事を書いた上で考えたことです。
もし、暇があったら読んでみてください。
では。。。

次回は藤原不比等の出生の謎に、より迫ってみたいと思います。

■ 『藤原鎌足と長男・定慧』

■ 『定慧出生の秘密』

■ 『藤原鎌足と軽皇子』

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


愛と怨霊 [日本史]

愛と怨霊





 女帝誕生
讚良(さらら)皇女が
皇位を継ぐ。


殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

僕が当時生きていて、しかも日本新聞の編集長だったら、このような新聞を出していたかもしれません。

これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はありません。

讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんを亡くしたのです。
しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺したのです。
このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに経験したのです。
この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、
境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたはずです。

成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも知るようになります。
この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史でした。
その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがいました。

蘇我蝦夷
蘇我入鹿
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
有間皇子
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
。。。

満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁ぎます。
もちろん、政略結婚です。
中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子でした。
何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。
言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものです。
それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとした。

しかし、その甲斐もなくやがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されます。
目には目を歯には歯を!
この当時の必然でした。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っている。
この皇女は父親を憎み恨みながらも、
自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っていました。

後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺しています。
讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのです。

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、
持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。

上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのです。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。

讚良皇女の幼少の頃の事件を
もう一度振り返ると。。。

乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。

聡明で非情である持統天皇が
なぜ怨霊を恐れるのか?

ここで持統天皇が詠んだ有名な歌を読んでみてください。



春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないんですよね。
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、
愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、
僕は次のようにしか解釈できません。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『性と愛の影に隠れて -- 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。
このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?



現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

この世に生き残った私は、明日からは、

弟が葬られている二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、
葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、
大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

怨霊信仰



非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」

SOURCE: 国史大辞典

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。

では、恒例になりましたが、司馬遼太郎さんの言葉を書きますね。

生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!

大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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ネットサーフィンしましょうね。



哀れな女の性(さが)と業(ごう) [日本史]

哀れな女の性(さが)と業(ごう)

 

古代のある女の悲劇





茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る


茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、
あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、
領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。

「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)。
標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。

大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、
神祇を司る巫女であった。

彼女はまた絶世の美女とも言われていた。
天智天皇・天武天皇に深く愛された。

彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。

彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、
そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、
複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、
自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。

僕のオツムの中では額田女王は日本国首相の小泉純ちゃんよりも有名な人物です。
しかし、歴史的には、この女性は謎に包まれているのです。
なぜなら、その素性が良く分かっていないんですよね。

生まれも定説はありません。
大和とも近江とも言われています。
父親が鏡王なので近江の「鏡山」に関連して故郷を近江とする説や、
額田の名は大和にある平群郡額田郷の出身であるとする説があります。
また、神事に携わる額田氏に養育されたからとも言われています。

父親の鏡王は、近江鏡山、現在の竜王町から野洲町にかけての鏡山付近を拠点に
須恵器生産に関わった渡来系集団の流れをくむ豪族の長とする歴史家も居ます。

当時、“王”と名の付くのは皇族の末か、あるいは中国や朝鮮の国王の末で、帰化した者のことを言いました。

でもね、出自を確かめても余り意味がないんですよね。
なぜなら、この当時の宮廷人の系図を遡(さかのぼ)れば、3代から5代前には祖先が大陸からやって来た可能性が強いのですよ。
少なくとも婚姻によって帰化人の血が流れていることはほぼ間違いがないんですね。

この事は藤原鎌足を調べてみるまでもなく、当時の政府の役人には圧倒的に帰化人が多かった。
なぜなら、律令国家には中国や朝鮮の歴史や法制、漢文に秀でた者が必要だったからです。
万葉集の原文を読んでも、漢字だけで書かれていますよ。
現在の我々が万葉集の原文を見たら、日本語の書物と言うよりも中国の書物を見ているような錯覚にとらわれてしまいます。

それ程、当時の日本の文化には大陸の影響がはっきりと表れている!
文化に影響が現れていると言うことは、それを運んできた人間がたくさん宮廷に入り込んでいたと言うことに他ならないんですよね。
つまり、帰化人が日本人化していった。

しかし、“よそ者”が宮廷で実権を握っていると言うのでは、地方の豪族に対して示しが付かないので、
『古事記』や『日本書記』を作って大陸からやって来た御食子(みけこ)を孫の藤原不比等は懸命に生粋の日本人であることを
“中臣氏”として日本の正史に残しているわけです。
しかし、婚姻によって中臣氏になっただけで、後にはわざわざ天智天皇に藤原氏を作ってもらって“中臣氏”とは袖を分かっています。
詳しいことは次の記事を読んでください。
『批判なき歴史は空虚にして、そのまま信じると馬鹿をみる  (2006年5月16日)』

額田女王の生年は不明ですが、讚良媛(さららひめ:後の持統天皇)とも(表面的には)親しく、
二人の関係から逆算して相前後して生まれ、額田女王が年長のようです。
持統天皇が藤原京で亡くなる直前まで、60才を越えてなお活躍した女流歌人でした。
それなのに、彼女を知るために信じるに足る履歴は『日本書紀』の天武天皇の条にある次の1行のみです。

天皇初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶(め)して十市皇女を生む

この他では、『万葉集』に残されている上の歌も含めた12首だけです。
これだけが、額田女王を知るすべての歴史資料なのです。
つまり、謎に満ちている女性です。

上の額田女王の歌を単なる恋の歌として読むと上のような解釈になるわけです。
実は、この歌に対して大海人皇子(後の天武天皇)が次の歌で答えているのです。



紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも


上の写真の紫草(むらさき)は上代の紫染め染料として尊ばれました。
滋賀県の蒲生野はかつて紫草(むらさき)栽培の御料地でした。
江戸時代には江戸紫として流行し、武蔵野のムラサキが脚光を浴びたのです。
現在では野生のものが少なくなっている、と言うか、
いずれの地もほとんど絶滅し、今や幻の植物となっている。
花は白いがその根が紫をおびているのでその名があります。

秋にこの根を採取し、日陰で乾燥したものが紫根です。
紫根は消炎、解毒剤として漢方薬に処方され、
華岡青州(はなおかせいしゅう)の創製した紫雲膏が有名。

額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。

今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。
でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。
こんなに愛してしまっているんだよ。
もう、恥も外聞もないよ。
ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、
あのように手を振ってしまったんだよ。
分かるだろう?

こんな気持ちだと思うのですよね。うへへへへ。。。。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、
壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、
彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”であるにもかかわらず、
なぜ謎の女性なのか?

額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われました。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、
天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、
僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。

この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!うへへへへ。。。。

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、
持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。
上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたんですよ。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
つまり、幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。

では、万葉集の中でこれだけ額田女王を輝かせたのは誰なのか?
それは、『万葉集』の編集長の大伴家持です。
ここで大伴家持の事を書くと長くなるので書きません。
すでに次の記事の中で詳しく書いたので関心のある人はぜひ読んでみてくださいね。
『性と愛と批判 --- 万葉集の中の政治批判?』

大伴家持は反骨精神を持った人物です。
藤原不比等が横暴の限りを尽くしたことを苦々しく思っていた人です。
大伴家持自身も“藤原政権”に反抗して時の権力者によって“逮捕”され罰を受けたこともあります。
上の記事の中で、そのことも書きました。

つまり、持統天皇のごり押しによって、額田女王の記述が『日本書紀』の中にたった1行しか書いてないことも、
大伴家持は苦々しく思っていたことでしょう。
『万葉集』は大和朝廷の正史ではありません。
だから、時の権力者は見逃してしまったのでしょうね。

「愛の歌を載せたんですよ。
政治とは関係ありませんからね。。。」

“発禁処分検閲官”が調べにやってきた時に、おそらく大伴家持はそう言ったでしょうね。

「まあ、そういうことならば、いいでしょう。。。」

馬鹿な検閲官は愛の歌と聞いて見逃してしまったのでしょうね。
でも、よく読めば、この相聞歌の裏には、生々しい政治的な“三角関係”が秘められている。
つまり、天智天皇が暗殺されて天武政権が出来上がって行く過程をこの相聞歌として万葉集に載せている。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

持統女帝は天智天皇の娘です。
しかし、崩壊家庭に育ったこの娘は、自分の母親とおじいさん、おばあさんがこの非情な父親のために死に追いやられたことを恨んでいました。
この娘は、父親に利用されて、腹違いの兄(弟ではない。実は兄)、大海人皇子の妻になるようにと言われて、実の姉と共に大海人皇子の妻になったのです。
でも、大海人皇子の心は上の歌でも明らかなように額田女王を愛している。

実の姉が亡くなり、名実ともに天武天皇の皇后になったけれど、夫の心は自分にはないと分かっている。
腹の中では夫に対しても、額田女王に対しても頭にきている!
天武天皇が亡くなる。
自分の血がつながっていない夫の子供たちには、何が何でも皇位を渡したくはない!
持統女帝として、自分で皇位を継ぐ。

同志の藤原不比等が『日本書紀』の編集長になる。
持統天皇は言ったはずす。

「あのね、史(ふひと)さん、額田女王のことは1行だけ書けばいいのよ。。。
あなたにも私の気持ちが分かっているわよね。。。」

「かしこまりました。そのように手配いたします。」

女帝と藤原不比等の会話はこのようなものだったでしょうね。

しかし、万葉集の編集長の大伴家持は反骨精神に燃えています。

おまえたちの思うようにはこの世界は動かんぞ!
読む人が読めば分かるように万葉集の中に真実を載せるだけさ!
いづれ、分かる時が来るさ!

僕は大伴家持のそのような呟(つぶや)きを聞きながら万葉集を読んでいます。うへへへへ。。。。

これまでのことは実は僕は6月29日の記事(『日本で最も有名な三角関係』)に書いたことです。
あなたも、もしかしたら読んだかもしれません。
この記事では、僕は持統天皇に焦点を当てて書きたいと思います。
なぜ、持統天皇は境界性人格障害を患うようになったのか?
なぜ、大津皇子を死に追いやったのか?
なぜ、額田女王の事をたった1行しか『日本書紀』に書かせなかったのか?

こうした質問に答えるには持統天皇の生い立ちを見てゆくと答えが見つかります。

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。
日本史上、この事件は“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)。
つまり、入鹿の首をたたき切ったのが後の天智天皇だったのです。
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。
藤原不比等の父親です。

そして、この入鹿の首をたたき切った天智天皇が持統女帝の父親なのです。
しかも、持統天皇が生まれたのがこの事件の起きた年の暮れなんですよ。
なんとなく、彼女の一生を暗示しているような事件ですよね。

俗に女の子は父親に似ると言いますよね。
この持統女帝こそ、天智天皇の子供の中で、最も血筋を引いていると言う歴史家が多いのもうなづけます。

鸕野讚良(うののさらら)皇女と呼ばれたこの女性は、男勝りの気丈な性格で、権勢欲・独占欲が強く、為政者としての冷徹な非情さと冷酷さを持っていました。
自分の血が流れている者だけに皇位を継がせようと固執したのです。
例えば、大津皇子を死に追いやった事はその良い例です。
大津皇子は持統天皇の甥に当たります。
つまり、実の姉(大田皇女)と天武天皇の子供です。
しかし、例え実の姉の子供と言えども、
自分の血が入っていない者に皇位を継がせたくはなかったのです。

注: 
この系図は従来どおり、中大兄皇子と大海人皇子が同腹の兄弟であるという事で書いてあります。
これ以降の話もそのつもりで進めます。

乙巳の変から12年後の657年、讚良皇女と姉の大田皇女は父親の中大兄皇子の政略的な都合で弟の大海人皇子の妃として一緒に嫁がされたのです。
この時、大田皇女は満13才。讚良皇女は満12才です。

中大兄皇子が政治的に最も恐れていたのが弟の大海人皇子だったのです。
そのため弟の歓心を買うためと懐柔策からこうして自分の娘二人を同時に弟の妻として与えたのです。
そうする事によって、弟を自分の協力者にしようとしたわけです。
要するに、これは政略結婚だったわけです。

大海人皇子の妻になった讚良皇女の生活は以前とほとんど変わる事がありませんでした。
天皇の妃であれば後宮に入ることになりますが、皇子の場合は妃と言っても実家で暮らします。
讚良皇女の母親の遠智娘(おちのいらつめ)も父親の石川麻呂の別宅で暮らしていたように、
讚良皇女も以前と同じように叔母の姪娘(めいのいらつめ)の世話を受けて弟の建皇子(たけるのみこ)の世話をしながら祖母である斉明天皇の宮で暮らしていたのです。

この時、すでに讚良皇女の母親は亡くなって居なかったのです。
この悲劇についても書く必要があるでしょう。
幼少の時のこの悲劇が讚良皇女の心に与えた衝撃はトラウマとなって後の人格形成に大きな影響を与えたと僕は信じています。
現在で言うなら境界性人格障害に陥っていたと思います。

乙巳の変から4年後の649年3月、当時右大臣であった石川麻呂が謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。
石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂は政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

しかし、事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのです。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのです。
何と、哀れな事かああ~~
泣けてきますよね。
でしょう?
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したと言います。
取ってつけたような弁解ですよね。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、他の誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。
これも哀れな事ですよね。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に叔父大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは我が子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、讃良皇女が最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。



春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだんではないんですよね。
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、
愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、
僕は次のようにしか解釈できません。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
とにかく、証拠がないんですよ!

しかし、状況証拠を寄せ集めれば、このような解釈しか僕にはできないんです。
関心のある人は、なぜ僕がこのように解釈したのか?を理解するために、ぜひ次の2つの記事を読んでくださいね。

■ 『【いにしえの愛を求めて。。。】 万葉集の中の持統天皇のあの有名な天香具山の歌は、大津皇子の怨霊を鎮魂するために詠われたのでしょうか?』

■ 『【いにしえの愛を見つめて。。。】 不破内親王(安倍内親王とは異母姉妹)は悪霊扱いされています。。。果たして悪霊にあたいするのでしょうか?』

その後、あれほど期待をかけていた草壁皇子も亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進めました。
上の歌は、この藤原京の宮殿で詠んだものです。

持統天皇は在位中、頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子の亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の息子、軽(珂瑠)皇子でした。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。
あくまでも自分の血にこだわった人だったのです。
そのためなら、父親のように冷徹な非情さと冷酷さを持つことのできる人でした。

しかし、心の平穏をつかむ事ができたのでしょうか?
僕は上の有名な歌を読んでみて、
持統天皇は結局、失われた愛の思い出を偲びながら
自分の業の深さに思いを馳(は)せていたのではないか?。。。そうとしか思えないのです。 

あなたはどう思いますか?

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


万葉集の謎と山上憶良 [日本史]

万葉集の謎と山上憶良




山上憶良の「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく
寒くしあれば 堅塩を
取りつづしろひ 糟湯酒
うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ
ひげかきなでて 吾をおきて 人は在らじと 誇ろへど
寒くしあれば 麻ぶすま 引き被り
布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着そへども
寒き夜すらを 吾よりも
貧しき人の 父母は 餓え寒からむ
妻子(めご)どもは 乞ひて泣くらむ この時は
いかにしつつか 汝が世は渡る

天地(あめつち)は 広しといへど 
吾がためは 狭くやなりぬる 
日月(にちげつ)は 明しといへど 吾がためは 
照りや給はぬ 人皆か 
吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 
人並みに 吾も作れるを 
綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと 
わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの
曲いほの内に 直土に 藁解き敷きて 
父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て
憂へさまよひ かまどには 火気ふき立てず 
こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊く事も忘れて 
鵺鳥の のどよひをるに 
いとのきて 短きものを 端きるといへるがごとく 楚取る
里長が声は 寝屋處(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術無きものか 世の中の道

(反歌) 
世の中を憂しとやさしと思へども 
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


風交じりで雨が降っていると思えば、雨がだんだん雪になってしまったなあぁ~
寒くてどうにもならんよ。塩でもなめながら、糟湯酒をすすることにするかな。
ああもう、くしゃみは出るわ鼻水は出るわ。
それでも、ヒゲをなぜながら、「この世にはワシはワシ一人しかおらん!」と誇らしく思うけれど
寒さに変わりはありゃせんわ。頭から麻布団かぶって、
ありったけの着物かきあつめて着ても、
それでも寒いなぁ~ ワシより貧しい人の、とおちゃんやかあちゃんは、腹空かして寒がっているだろうなあ。
女房子供は、ハラ減って泣いているだろうなぁ~
そういう時、あなたなら、どうします?この厳しい世間で生活するって、大変ですよね。

世間は広いと言うけれど、
ワシには狭いんだよねぇ~。どこにも逃げ場がないんだよ。
お天道さんもお月さんも明るいと言うけれど、ワシは、
いっこうに陽の目を見てないよ。
皆、一緒かなぁ。ワシだけかなぁ~。 人並みに生まれてきたはずなのに。
綿も入ってない着物、ワカメみたいに
びらびらになってるのを、カッコだけ肩にひっかけて、着てはみるのだけれど。
ボロ屋の土の上に直(じか)に藁(わら)をばらまいて、
オヤジとお袋は枕の方に、女房子供は足の方で、ワシを囲んで
泣き暮らすみたいに寝ているのですよ。かまどに火の気もないし、
お釜には蜘蛛の巣張って、それというのも、米炊くのも忘れるほど何もないんですよ。
鵺という鳥が、獲物をさらう時には、
弱いヤツを選んでさっとはさんでくっちゅうけれど、
ワシらもおなじ弱い者や。おおおお~、またかぁ~、里長が怒鳴りこんで来たよ。
まだ税金を取り立てるつもりなのか?ひどすぎる!厳しい世の中だなあ~。

(反歌) 
世渡りはいつの時代でも大変なんだよね。
でも、鳥ではないんだから、飛び立って蒸発するわけにもゆかないし、
現実逃避は、やっぱ、ダメだよねぇ~。

僕がかなり意訳して現代文で書いています。
誤っている箇所があれば指摘してもらえると助かります。

次に引用するエッセーは章子さん(仮名)がジオシティーで書いたものの一部です。
実は、僕はこの女性のことをほとんど知らないのです。
文章を読んで僕なりに想像したところでは、高校の歴史の先生のようです。

持統天皇の“天香具山”の歌については僕はすでに詳しく書きました。
関心のある人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』

この記事では山上憶良について書こうと思っています。
それで、冒頭に有名な「貧窮問答歌」を載せたというわけです。

では、まず、章子さんのエッセーを読んでください。



春すぎて 夏来にけらし 白妙の

 衣ほすてふ 天香具山


これは万葉集の中に載せられている持統天皇の歌です。

天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、
それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。

問題の本質はそういうところにはないのであって、
貴族社会の中に生きる人々の中にも、
自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに
心を砕くものが居たということの方が、
重要なのではないかと思う。

その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、
上にあげた持統天皇の歌にも見られるように、
多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。

本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。
それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。

【山上憶良の『貧窮問答歌』】より
(注: 読みやすいように写真や改行を加え、大幅にデザインを変えてあります。)

持統天皇の詩を人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈をしていると思います。
章子さんが上の文章を書いたページの一番下に“教育崩壊”というロゴが表示されています。

教育の現場で生徒に教えながら、最近の教育が崩壊しているのではないか?
そういう問題意識を持ってこの文章を書いていることが実に良く分かります。

しかし、僕が『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』の中で書いたように
章子さんは持統天皇の表面的なことしか見てないような気がするのです。
もし、持統天皇の生い立ちや、持統天皇が大津皇子を死に追いやった事などを考え合わせると、上の“天香具山”の歌は次のようには見て取れないのです。

付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。

それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは

私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。

少なくとも、持統天皇の波乱に富んだ人生をじっくりと見れば、香具山のふもとで農民たちが白妙を干しているのを、ぼんやりと眺めながら歌を詠むような人ではないんですよ。
それが僕の解釈です。
つまり、上の持統天皇の歌は、読み方によって幾通りにも解釈できるわけです。
読み手がどれだけ持統天皇の性格や、人生や、行動を理解しているかによって、当然解釈が違ってきます。

章子さんには、初めに人道的な観点、また人間性ということを重要視したスタンスがある。
それに基づいて持統天皇の歌を解釈している。
僕にはそのように見えるんですよ。

では、一体どのような見方をする必要があるのか?

その当時に戻って、この場合だったら持統天皇が生きていた奈良時代に遡(さかのぼ)って、
その当時の生活を生きるような姿勢で見る必要があると思うのですね。
そのような事は実際にはできないのだけれど、そのような姿勢が大切なのではないか?
僕はそう言いたい訳です。

なぜなら、“皇国史観”の歴史的な見方が、現在の“日本史”教科書にも残っています。
だから、天皇の“悪口”は、ほとんど書いてないんですよね。
天皇だって、人間なんですからね、我々と同じように50の長所と50の欠点を持っています。
でも、太平洋戦争中には、天皇の“悪口(欠点)”は書けなかった。
だから、持統天皇の“悪口”も書けなかった。

現在でも皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患っていて、かなり奇行のある人だった、という事は歴史の教科書に書いてないでしょう。
大正天皇は後年、精神状態が悪化して政務を行う事が困難になり、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政として政務を行っていた。
近親結婚が重なると、優生学上、好ましくない遺伝子が現れてしまうので良くない。
民間から正田美智子さん(現在の皇后)が皇室に入ったということも、このようは背景があった。

つまり、歴史を振り返ってみるときには、“表”だけを見ても仕方がないんですよね。
“奇麗事(きれいごと)”だけしか書かれていない場合が多いからです。また、故意に悪口を書いたりする。
例えば、大和朝廷は“蝦夷(えぞ)征伐”をする都合があったので、蝦夷(えぞ:えみし)のことを『日本書紀』に悪い人間だと書いた。
“蝦夷征伐”を正当化するためです。

つまり、上の章子さんの文章は人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈だと僕は思います。
しかし、持統天皇の“表”ばかり見て“裏”を観ていません。
歴史を読むとき、“読み人”は歴史の裏も表も読まなければならないと僕は信じています。
それが歴史を読む人のスタンスであるべきです。

山上憶良の「貧窮問答歌」に対しても章子さんは一面的な見方しかしていないような気がします。
章子さんは次のように書いています。

農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

つまり、章子さんは自分独自のスタンスで眺めている。
もちろん、誰もが独自のスタンスを持っています。
しかし、歴史を眺める時には、一旦、自分独自のスタンスを離れて、歴史の中に飛び込んでゆく必要があると僕は信じています。
タイムマシーンがあるわけではないので、それは不可能な事だけれども、
少なくとも、タイムマシーンに乗って時代を遡(さかのぼ)って自分でその当時を生きてみる努力が必要なのではないか?
僕は、その態度と姿勢のことを言っているわけです。

具体的には、防人の事ですよ。
章子さんはこの防人の実態について良く理解していません。
だから、大きな誤りを犯しています。
大伴家持は防人たちの苦しい実情を自分が防人たちを監督掌握している役人の立場に居たので良く知っているのですよ。

防人の苦しい実態とは。。。?
それは次のようなものでした。

東国人は天智天皇によって
防人として狩り出された

天智天皇は百済を助けるために古代韓国で戦争に加担した。
それで、663年に白村江の戦いで敗れた!
天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手だった。
先ず人望を失います。

これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。
ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。
当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという重大ニュースです。

おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。
天智帝が援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。

そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。

664年

「甲子の宣(かっしのせん)」を出して豪族の再編成をすすめる。
対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や
通信手段としての「烽(とぶひ)」を置く。
戦前に造った山城を強固にする。
博多湾岸にある那津官家(なのつのみやけ-筑紫大宰)を
南の内陸部(現太宰府市)に移転する。
百済からの亡命者の指導によって,大宰府を守るための水城を築く。

665年

新たに,大宰府の役人たちが逃げ込むための城として大野城や基肄(きい)城、
長門城などの朝鮮式山城を築く。
11月さらに大和に高安城、讃岐に屋島城,対馬に金田城を築く。

667年

飛鳥から大津に都を遷都する。

668年

中大兄皇子、正式に天智天皇として即位する。
大津遷都には多くの豪族が不満を持つ。
常に急進的な政治を行う中大兄皇子の一大決心だったが、
大和の豪族たちは大反対運動を起こす。

しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
(現在で言うなら、テポドンに備えるようなものですよ!
その防衛網を実際に構築したんですよ!
その実行力は確かにすごい!)

そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?
しかし、天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。

「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」

大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。
これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です!
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです。
このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族、古代アイヌ人から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
東国には、当時アイヌ人の祖先がたくさん暮らしていた。
つまり、大和人に同化したアイヌ人もたくさん居た。
この人たちは、文字通り、万物に神が宿ると信じて、平和に感謝して生きる人たちだった。

この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
そのような素朴な人たちまでもが警備兵として狩り出される。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。
つまり自費で帰国しなければなりません。

したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけがありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

それで、バチが当たって(?)天智天皇は暗殺されたわけです。
これまでの天智天皇の政策と防人の実態についての説明は次の記事から引用したものです。
『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人』より

大伴家持は役人としてこの防人たちを監督していた事があるんですよ。
もちろん、天智天皇が防人を狩り集めていた頃から100年がたっていましたが、当時の事情も十分に知っています。

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。


橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。

山上憶良(やまのうえのおくら)

斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。

奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身

中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。



702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。

仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。

そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。

抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。

でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。

ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。
『平安時代は決して平安ではなかった』

章子さんは、上のエッセーの続きで次のように書いています。

ヨーロッパ社会に、例えばギリシアやローマの時代、
もっと下ってヨーロッパ中世の時代や、古代オリエント社会に、
このような農民たちの生活の悲惨さに心を砕いた支配者が居たのかどうか、
私は寡聞にしてそういう話を聞いたことがない。

中世社会の徳政令にしても、
私は古代から受け継がれた農民観の延長線上で
考えるべきではないかと思うのである。
本来、「仁政」を意味するものが「徳政」令なのであるが、
それが現在では曲解されて、徳政といえば悪政の代名詞になっている。

江戸時代の「慶安の御触書」(現在は御という文字はつけないことになっていて、
それはそれで問題点をはらむのだが)にしても、
農民への指導書と受け取れば、もっと素直に読めるはずなのだ。

江戸時代には「撫民」という思想があり、
貧しい農民たちに芋がゆなどの施しをするのは、
為政者としてのあるべき姿だと考えられていた。
そのような観点に立って「慶安の御触書」を素直に読めば、

「年貢さへすまし候へば、百姓ほど心易きものはこれなく、
よくよくこの趣を心がけ、子々孫々まで申し伝え、
よくよく身持をかせぎ申すべきものなり。」

という言葉も、年貢さえ支払っていれば、
あとは干渉しないということを述べているのであって、
これは税金さえ払えば、農民の私的所有権を認めるということなのである。
こういう社会は決して奴隷制社会ではない。
そして私的財産を貯めていくためのいろいろな心がけを教えている。
これを幕府の「愚民観」の表れだと捉えるのは、行きすぎではないかと思う。

私は、もし武士階級が百姓に対して、
よくいわれるような愚民観を持っていたとすれば、
明治になって、武士の子も百姓の子も机を並べて
同じ小学校で勉強することなど不可能だったと思う。
しかしそこに混乱があったという話は聞かない。
武士階級も農民の子供たちと一緒に
勉強することをすんなり受け入れていったのである。
そのことをどう説明すべきなのか。
そこが従来の日本史を流れる「愚民観」では説明がつかないのである。

そしてそのことは親が子供を愛でる気持ちの豊かさとつながっている。

山上憶良にはもう一つの有名な歌がある。
「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」

このような親の子に対する情愛の深さは、
決して自分の子供に対してだけ生まれるものではなく、
社会生活全般の情愛の深さの中で育まれていくのである。

【山上憶良の『貧窮問答歌』】より

僕はこの20年間、ヨーロッパ史、古代オリエント史、古代ギリシャ史、古代ローマ史、古代日本史、古代中国史、古代インド史、。。。を自習してきました。
つまり、僕は20年近く“歴史馬鹿”であり続け、歴史の本や映画を暇があれば片っ端から観たり読んだりしてきました。
しかし、ヨーロッパ社会に、例えばギリシアやローマの時代、もっと下ってヨーロッパ中世の時代に農民たちの生活の悲惨さに心を砕いた支配者はめったに居ませんでしたね。

江戸時代だって、農民に対する政策の基本は“生かさず殺さず”だったですよ。
つまり、為政者の中で本当に庶民のことを考えている人は極めてまれだったんですよ。
奈良時代に山上憶良のような“社会派歌人”は極めてまれだったんです。

だからこそ、大伴家持が政治批判のために『貧窮問答歌』を載せた。
でも、これは完全に藤原政権から無視された。
だから、庶民は平安時代に地獄のような生活を余儀なくされた。

そして、現在の日本の政治家を見てくださいよ。
大伴家持や山上憶良のような“社会派”の役人も政治かも極めてまれですよ!
でしょう?

何度も言うように、政治家が年金をごまかす!
日本国民の福祉と幸せを願って国政を預かる人たちが年金をごまかす。
一体、どういう神経を持っているのか?
どういうオツムを持っているのか?
これでは、平安時代の藤原氏と全く変わりがありません。
自分のことしか考えてない!

年金をごまかした国会議員のほとんどすべてが、
今でもあなたの税金を使いながら、国会議事堂の中を歩いていますよ。
うへへへへ。。。。

“デンマンさん、日本へもどってきて政治家になってください”、と言ってくれた人が居ますが、
年金をごまかすような日本のダメな政治家と国会で政治をやるなんて馬鹿らしくてできませんよ。
あの大橋巨泉さんが嫌気がさしてしまうぐらいの政治の内容なんですからね。。。。
馬鹿馬鹿しくてやってられないんでしょうね。その気持ちが分かりますよ。

だから僕は、国を越えたレベルで、
世界のネット市民の一人として正しいと思うことを一人でも多くの人に読んでもらう。
それが僕のできる事だし、それが僕にとって“草の根政治”だと信じていますよ。

日本に年金をごまかす政治家が居る限り、馬鹿馬鹿しくて政治家なんかになれませんよ。
時間の無駄です。
意味のない事をやる事は犬死ですからね。
年金をごまかす政治家と肩を並べて政治をやるのは、僕にとって犬死に等しいですよ。
それよりも、自分の信じる事をこうしてブログで記事にして書いた方が
よっぽど世界のネットの発展のためになると信じているんですよ。
うへへへへ。。。。

だから、世界のネット市民の一人としてバンクーバーでこうしてブログを書いています。
Grassroots Net Politicsを実践しているつもりなんですよ。。。うへへへへ。。。。。

"grassroots net politics" を入れてGoogleで検索してみたら、
一つも引っかかりませんでした。
注: この言葉を記事の中で僕が何度も書いたので、
    現在では僕が書いたものばかりがたくさん引っかかります。
    試してみてください。 
    ダブルクオートで囲むことをお忘れなく。

いづれにしても、このような活動をしている人が全世界に居ますよ。
僕もそのうちの一人です。

So, let's carry out grassroots net politics, shall we?

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


日本で最も有名な三角関係 [日本史]

日本で最も有名な三角関係


おほほほほ。。。。

デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!

日本で
最も有名な
三角関係ですってえええ~~

デンマンさんのことだから、あたくしの事を書くのかな?
。。。そう思ったのでござ~♪~ますのよ。
うひひひひひ。。。

でも、考えてみたら、あたくしの相手が居ませんものね?おほほほ。。。

でも、デンマンさんが、あたくしのアバンチュールを書いたのでござ~♪~ますのよ。
んも~~

あなたも興味があるでしょう?
絶対に面白いわよゥ~。

もし、お読みになりたいのならば次のリンクをクリックしてくださいね。

『平助さんが卑弥子さんに恋をしたのがウンのつき』

三角関係なんかよりも、よっぽど面白いわよ。
ほんとよ。

でも、余りあたくしのことばかり書くとデンマンさんに怒られてしまいますので、
この辺で三角関係のことに。。。。
あたくしが出てきたのだから、古代の三角関係ですわよ。

万葉集に出てくるのですわよ。
あたくしも、うわさで聞いた事があります。
詳しいことはデンマンさんがお話してくれるはずですわ。

ではこの辺で、デンマンさんにバトンタッチをしようと思いますわ。
おほほほほほ。。。。


なんだか卑弥子さんが支離滅裂な紹介をしてくれましたが、
実は、僕が6月25日にRealogで書いた記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』)に例によって更紗さんから次のような貴重なコメントをもらいました。
いつもいつもありがとね。
感謝感激で~♪~す。

その発禁処分の短編小説は、
たしか、高橋鉄を紹介した本
(ムックだったかも…)の巻末に載っていて、
10年位前に図書館で借りて
読んだことがあるのですが、

どんな内容だったのかは
忘れてしまいました。
(>_<)スミマセン

三角関係の話だったのは覚えているのですが…
たしか、和人の男性とアイヌ人の女性の
悲恋物語だったような記憶があります。

多分、「アイヌ人が主人公」という要素と、
「三角関係」という要素が、
発禁処分の原因だったのではないかと思います。

by 更紗 2006/06/27 10:28

僕は、さっそく次のような返信を書きました。

更紗さん、いつものことながら、コメントありがとね。
高橋鉄さんに関心があるということは
更紗さんもフロイトに関心がありそうですね?

僕は以前フロイトの名言を引用した事があります。
覚えていますか?
次のようなものですよ。



When two people make love, there are at least four people present---the two who are actually there and the two they are thinking about.

--- Sigmund Freud


つまり、フロイトの精神分析に従うと、
幸せなカップルでもオツムの中では四角関係なんですよね。

三角関係を書いて発禁処分だとすると、
現実の世界では、
すべてのカップルが“発禁処分”関係をしていることになりますよね。
うへへへへへ。。。。



これは半分冗談ですが。。。

とにかく、「アイヌ人が主人公」という要素で発禁処分ということは、
明らかに人種差別ですよね。

日本人はアメリカ人と比べると人種差別をしないと言う人が居ましたが、
とんでもない話で、第三国人に対する差別や、部落差別、。。。など、
日本人はインド人と同じくらい差別する民族だと僕には思えますよ。

ところで、この三角関係で急に思い出しましたが、
額田女王と天智天皇と天武天皇の三角関係ね。
これは日本史上有名な三角関係ですからね。

明日はこのことで記事が書けそうですよ。
いつものように、更紗さんのコメントから
インスピレーションが湧いてきましたよ。
明日の記事をまた読んでくださいね。
じゃあね。

by デンマン 2006/06/28 12:38

『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』のコメント欄より

万葉集には額田女王(ぬかだのおおきみ)の次の歌が載せられています。




茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る


茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、
あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、
領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。

「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)。
標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。

大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、
神祇を司る巫女であった。

彼女はまた絶世の美女とも言われていた。
天智天皇・天武天皇に深く愛された。

彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。

彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、
そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、
複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、
自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。

僕のオツムの中では額田女王は日本国首相の小泉純ちゃんよりも有名な人物です。
しかし、歴史的には、この女性は謎に包まれているのです。
なぜなら、その素性が良く分かっていないんですよね。

生まれも定説はありません。
大和とも近江とも言われています。
父親が鏡王なので近江の「鏡山」に関連して故郷を近江とする説や、
額田の名は大和にある平群郡額田郷の出身であるとする説があります。
また、神事に携わる額田氏に養育されたからとも言われています。

父親の鏡王は、近江鏡山、現在の竜王町から野洲町にかけての鏡山付近を拠点に
須恵器生産に関わった渡来系集団の流れをくむ豪族の長とする歴史家も居ます。

当時、“王”と名の付くのは皇族の末か、あるいは中国や朝鮮の国王の末で、帰化した者のことを言いました。

でもね、出自を確かめても余り意味がないんですよね。
なぜなら、この当時の宮廷人の系図を遡(さかのぼ)れば、3代から5代前には祖先が大陸からやって来た可能性が強いのですよ。
少なくとも婚姻によって帰化人の血が流れていることはほぼ間違いがないんですね。

この事は藤原鎌足を調べてみるまでもなく、当時の政府の役人には圧倒的に帰化人が多かった。
なぜなら、律令国家には中国や朝鮮の歴史や法制、漢文に秀でた者が必要だったからです。
万葉集の原文を読んでも、漢字だけで書かれていますよ。
現在の我々が万葉集の原文を見たら、日本語の書物と言うよりも中国の書物を見ているような錯覚にとらわれてしまいます。

それ程、当時の日本の文化には大陸の影響がはっきりと表れている!
文化に影響が現れていると言うことは、それを運んできた人間がたくさん宮廷に入り込んでいたと言うことに他ならないんですよね。
つまり、帰化人が日本人化していった。

しかし、“よそ者”が宮廷で実権を握っていると言うのでは、地方の豪族に対して示しが付かないので、
『古事記』や『日本書記』を作って大陸からやって来た御食子(みけこ)を孫の藤原不比等は懸命に生粋の日本人であることを
“中臣氏”として日本の正史に残しているわけです。
しかし、婚姻によって中臣氏になっただけで、後にはわざわざ天智天皇に藤原氏を作ってもらって“中臣氏”とは袖を分かっています。
詳しいことは次の記事を読んでください。
『批判なき歴史は空虚にして、そのまま信じると馬鹿をみる  (2006年5月16日)』

額田女王の生年は不明ですが、讚良媛(さららひめ:後の持統天皇)とも(表面的には)親しく、
二人の関係から逆算して相前後して生まれ、額田女王が年長のようです。
持統天皇が藤原京で亡くなる直前まで、60才を越えてなお活躍した女流歌人でした。
それなのに、彼女を知るために信じるに足る履歴は『日本書紀』の天武天皇の条にある次の1行のみです。

天皇初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶(め)して十市皇女を生む

この他では、『万葉集』に残されている上の歌も含めた12首だけです。
これだけが、額田女王を知るすべての歴史資料なのです。
つまり、謎に満ちている女性です。

上の額田女王の歌を単なる恋の歌として読むと上のような解釈になるわけです。
実は、この歌に対して大海人皇子(後の天武天皇)が次の歌で答えているのです。

紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも


右の写真の紫草(むらさき)は上代の紫染め染料として尊ばれた。
滋賀県の蒲生野はかつて紫草(むらさき)栽培の御料地であった。
江戸時代には江戸紫として流行し、武蔵野のムラサキが脚光を浴びた。
現在では野生のものが少なくなっているという。
いずれの地もほとんど絶滅し、今や幻の植物となっている。
花は白いがその根が紫をおびているのでその名となっている。

秋にこの根を採取し、日陰で乾燥したものが紫根である。
紫根は消炎、解毒剤として漢方薬に処方され、
華岡青州(はなおかせいしゅう)の創製した紫雲膏が有名。

額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。

今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。
でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。
こんなに愛してしまっているんだよ。
もう、恥も外聞もないよ。
ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、
あのように手を振ってしまったんだよ。
分かるだろう?

こんな気持ちだと思うのですよね。うへへへへ。。。。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、
壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、
彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”であるにもかかわらず、
なぜ謎の女性なのか?

額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、
天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、
僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。

この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!うへへへへ。。。。

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、
持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。
上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたんですよ。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
つまり、幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。
このことについては、あとで詳しく書きたいと思います。

では、万葉集の中でこれだけ額田女王を輝かせたのは誰なのか?
それは、『万葉集』の編集長の大伴家持です。
ここで大伴家持の事を書くと長くなるので書きません。
すでに次の記事の中で詳しく書いたので関心のある人はぜひ読んでみてくださいね。
『性と愛と批判 --- 万葉集の中の政治批判?』

大伴家持は反骨精神を持った人物です。
藤原不比等が横暴の限りを尽くしたことを苦々しく思っていた人です。
大伴家持自身も“藤原政権”に反抗して時の権力者によって“逮捕”され罰を受けたこともあります。
上の記事の中で、そのことも書きました。

つまり、持統天皇のごり押しによって、額田女王の記述が『日本書紀』の中にたった1行しか書いてないことも、大伴家持は苦々しく思っていたことでしょう。
『万葉集』は大和朝廷の正史ではありません。
だから、時の権力者は見逃してしまったのでしょうね。

「愛の歌を載せたんですよ。
政治とは関係ありませんからね。。。」

“発禁処分検閲官”が調べにやってきた時に、おそらく大伴家持はそう言ったでしょうね。

「まあ、そういうことならば、いいでしょう。。。」

馬鹿な検閲官は愛の歌と聞いて見逃してしまったのでしょうね。
でも、よく読めば、この相聞歌の裏には、生々しい政治的な“三角関係”が秘められている。
つまり、天智天皇が暗殺されて天武政権が出来上がって行く過程をこの相聞歌として万葉集に載せている。

■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

■ 『天智天皇は暗殺された』

■ 『天智天皇暗殺の謎』

持統女帝は天智天皇の娘です。
しかし、崩壊家庭に生まれ育ったこの娘は、自分の母親とおじいさんがこの非情な父親のために死に追いやられたことを恨んでいました。
この娘は、父親に利用されて、腹違いの兄(弟ではない。実は兄)、大海人皇子の妻になるようにと言われて、実の姉と共に大海人皇子の妻になったのです。
でも、大海人皇子の心は上の歌でも明らかなように額田女王を愛している。

実の姉が亡くなり、名実ともに天武天皇の皇后になったけれど、夫の心は自分にはないと分かっている。
腹の中では夫に対しても、額田女王に対しても頭にきている!
天武天皇が亡くなる。
自分の血がつながっていない夫の子供たちには、何が何でも皇位を渡したくはない!
持統女帝として、自分で皇位を継ぐ。

同志の藤原不比等が『日本書紀』の編集長になる。
持統天皇は言ったはずす。

「あのね、史(ふひと)さん、額田女王のことは1行だけ書けばいいのよ。。。
あなたにも私の気持ちが分かっているわよね。。。」

「かしこまりました。そのように手配いたします。」

女帝と藤原不比等の会話はこのようなものだったでしょうね。

しかし、万葉集の編集長の大伴家持は反骨精神に燃えています。

おまえたちの思うようにはこの世界は動かんぞ!
読む人が読めば分かるように万葉集の中に真実を載せるだけさ!
いづれ、分かる時が来るさ!

僕は大伴家持のそのような呟(つぶや)きを聞きながら万葉集を読んでいます。うへへへへ。。。。

では、恒例になりましたが、司馬遼太郎さんの言葉を書きますね。

生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよ!

額田女王が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

額田女王は、それを期待しながら、1350年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

大伴家持は一読者として額田女王の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

あなたは、どう思いますか? 

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 [日本史]

平和を愛し仲良く暮らしていた
古代日本人。
万物に神が宿ると信じ、
平和に感謝して生きる民族。


それが古代日本人で
ござ~♪~ますのよ!

そして現在、
北海道の片隅で
生活しているアイヌ人です。

この人たちこそ、
直系の古代日本人の
子孫ですわぁ。

おほほほほ。。。。

デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!

戦争を無くす事は
できますよね?!

ん?
あなたは、そう思えないのねぇ~?

思いなさいよォ~!
信じる者は救われると
言うざ~♪~ますでしょう?
おほほほほ。。。。

卑弥子さんも、そのように言っているので、この際、信じることにしましょうね。
ところで、僕が6月21日にフルーツ・ブログで書いた記事(『万物に神が宿ると信じ、平和に感謝して生きる民族』)にメンバーのじゅぁきさんから次のようなコメントをもらいました。
いつものことですが、ありがとね。

またコメントしに来ました^^;;。
なんか自分だけコメントしてるの申し訳ないのですが・・・。

今回の記事で、歴史的な問題が
非常にわかりやすく書かれていて大変興味深く読ませていただきました。
多少、何かの雑学本で読んだ内容だったので、なるほどと思いました。

前にアイヌの信仰を知ってると書きましたが、
何で知ってるのか全然記憶がなかったのですが、
急に思い出しました^^;;。

小学校の頃によくいっていたラーメン屋がどさん子といい、
そこの暖簾にアイヌの言葉が書いてあったんですね。
もう忘れてしまっていますが^^;;。
で、アイヌに興味持って、図書館で調べたと思います。
その時にアイヌの信仰を知ったと思います。

それがいつの間にか、自分の信仰になっているのかもしれません。
小学校3,4年の頃なので影響があったんでしょう(笑)。
また、機会があればよろしくお願いします。

by じゅぁき ◆ starclew 2006/06/23 17:00

僕はさっそく次のような返信を書きました。

> またコメントしに来ました^^;;。


いつでもどうぞ。
大歓迎ですよ。
じゅぁきさんのコメントから何度かインスピレーションをもらって、
結構記事が書けましたからね。
感謝感激で~♪~す!

(*^_^*)キャハハハ。。。



ありがとね。
(^_^)キャハハハ。。。



> なんか自分だけコメントしてるの申し訳ないのですが・・・。


いやいや。。。
遠慮しないでくださいね。
申し訳ないことなんてないですよ。
もう、どんどんコメント付けちゃって下さいね!
(^Д^)ギャハハハハ。。。。



待ってますよ!
(⌒∀⌒)ノキャハハハ。。。



> 今回の記事で、歴史的な問題が非常にわかりやすく書かれていて
> 大変興味深く読ませていただきました。
> 多少、何かの雑学本で読んだ内容だったので、
> なるほどと思いました。


そうですかああああ~ そう言ってもらえるとうれしいですよ。
(^v^)



これからも分かりやすく面白い記事を書くつもりですよ。
じゅぁき さんも時たまコメントを書いて、
僕にインスピレーションを与えてくださいね。
そうすれが、ルンルンル~♪~ン♪┌(・。・)┘♪
気分で楽しく書けますからね。
うへへへへ。。。。。



> 前にアイヌの信仰を知ってると書きましたが、
> 何で知ってるのか全然記憶がなかったのですが、
> 急に思い出しました^^;;。
> 小学校の頃によくいっていたラーメン屋がどさん子といい、
> そこの暖簾にアイヌの言葉が書いてあったんですね。




ほ~~~。。。
ラーメン屋でねええええ~~
なかなか面白いお話ですね。

> もう忘れてしまっていますが^^;;。
> で、アイヌに興味持って、図書館で調べたと思います。
> その時にアイヌの信仰を知ったと思います。
> それがいつの間にか、自分の信仰になっているのかもしれません。
> 小学校3,4年の頃なので影響があったんでしょう(笑)。


万物に神が宿るという信仰は、考えてみれば戦争反対信仰でしょうね。
つまり、万物に神が宿るから、戦争を起こす事ができないわけですよね。戦争というのはもともと破壊が目的ですからね。
精神的にも肉体的にも物質的にも相手を破壊する。
近頃はテポドンで日本は騒いでいるようですが、
テポドンなど万物破壊兵器の見本みたいなものですよね。
まさに、アイヌ人の信仰には受け入れがたいものでしょうね。

> また、機会があればよろしくお願いします。


こちらこそ。
また気が向いたらコメントを書いてくださいね。
じゃあね。



by デンマン 2006/06/16 18:27

『万物に神が宿ると信じ、平和に感謝して生きる民族。(2006/06/21 Wed)』のコメント欄より

じゅぁきさんのコメントがいつものように僕にインスピレーションを与えてくれました。
ラーメンで思い出しましたが。。。
僕はラーメンが好きなんですよ。
僕の好物は仙台の五右衛門ラーメンです。

これは食べ残しの写真ですけれどね。。。うへへへ。。。
手打ちの太い麺を使ったもので、
味噌味、塩味、しょうゆ味の3種類がありました。
僕の好物は味噌味のモノです。

仙台は僕の第2のふるさとなんですよ。

僕はこの新しい駅ができる前の古い駅を知っています。
高校生の頃、仙台に立ち寄ったのですが、旅費を稼ぐためにこの旧駅舎で一晩夜を明かした事があります。
僕の他にも10数人一晩夜を明かした人たちがいましたよ。
ほとんどの人が“田舎の人たち”という印象を与える表情をしていました。

つまり、苦労が顔のシワに現れているような純朴そうな人の顔ですよ。
ああいう素朴で苦労人の表情が最近の日本人の顔からなくなっていますよね。
もちろん、僕自身も苦労を知らない顔をしていますよ。うへへへへ。。。。

でも、僕は違う苦労をしています。
それは、冒険による苦労です。
贅沢な苦労ですよね。うひひひひ。。。。

でも、死ぬ思いを10本の指では数え切れないほどしています。
今、生きているのが不思議なほどですよ!

高校生の頃の自分には想像もつかないような人生を歩んできてしまいました。
とにかく30カ国近い国を放浪したのですから。。。
この町の仙台商業高校で後年、教育実習をやることになり、数学を教えるとは夢にも思っていませんでした。

。。。仙台駅の事ですが。。。
寒くてベンチでは眠れなかったですよ。
それでも、駅舎を閉めずに待合室に居させてくれただけ良かったです。
北海道の小樽駅で、僕が一晩駅舎で明かそうとしたら、
当時の(あのレンガ造りの)小樽駅ではドアを閉めて、待合室では夜を明かすことができませんでした。
つまり、11時頃の最終列車が出ると追い出されてしまったわけです。



現在の小樽駅の建物は3代目で昭和9年に建てられた。
道内では木造駅舎の札幌、函館に先んじた鉄筋コンクリート造りの近代的駅舎。
東京の上野駅に似ており、同時期に建てられた小樽市庁舎ともそっくり。
僕の記憶の中ではレンガ造りなんですよね。
これとは形も違っている。
僕は他の建物と勘違いしていたのだろうか????

仙台駅では、駅員がお客を追い出すような事はしませんでした。
でも、とにかく寒くてベンチにゴロッと横になっても眠れませんでしたね。
スチームのパイプにわずかなぬくもりが残っていて、
僕は母親の肌のぬくもりを求める幼児のように
身を摺り寄せながら、スチームのパイプに体をこすり付けるようにして震えていたものです。
今から思えば懐かしいですよ。

寒くて空腹な僕が、まず朝一番に食べたのがラーメンだったのですよ。
うまかったですねええええええ~~~。
でも、味なんかどうでも良かったんですよ。
とにかく、腹に入って体がぬくもるもの。。。
それだけ。。。
ぬくもりを求めてラーメンを食べました。

その時食べたのは五右衛門ラーメンではありませんでした。
ごく、当たり前のラーメンでした。

杜の都仙台。
その名の通り緑の多い街が仙台です。
この文字通り“青葉通り”を歩いて1番町まで行きます。
そこで小さな路地裏の店に入ると五右衛門ラ-メンが食べられました。
今でもあるのかどうか?

もしあなたが仙台の人なら、教えてくださいね。
ぜひコメントに書いてください。
当時、250円か350円ほどだったと思います。
30円か50円出すと大盛りにしてくれましたよ。

しかし、このラーメンの話は余談なんですよ。
じゅぁきさんのコメントからもらったインスピレーションはラーメンではないのです。
“アイヌの言葉”です。

じゅぁきさんはラーメン屋の暖簾にアイヌの言葉を見たと書いていました。
僕の知る限りアイヌ人には書き言葉がないんですよ。
つまり、アイヌ字がないはずです。
たぶん、日本語のひらがなか、カタカナを使って書かれていたんでしょうね。
たいてい、次の引用で示すようにカタカナを使って書いているようですよね。

アイヌ語を奪われたアイヌ人



イランカラプテ。
この言葉を教わったのは、農家に嫁ぎ、二風谷のアイヌ語教室に通っている女性からだった。

「あなたの心にそっと触れさせて下さい」

そんな慎ましやかな意味をもつ言葉をアイヌは挨拶のときにかわす。
和語の「はじめまして」と同じように、である。
私には「イランカラプテ」がアイヌ語との最初の出会いだったけれども、
アイヌの、心の奥行きを見たようだった。

私は数ヶ月ぶりにアイヌ語教室を訪ねた。
開講して11年目を迎えたアイヌ語教室・子供の部に、
今年はちょっとした出来事があったと聞いた。

久しぶりの教室には、自分たちの想い出がつまったビデオを見る子供たちの騒がしい声に包まれていた。
「ああ、あの人だ!」と誰かが画面を指さして、皆の歓声が「爆発」する。
ビデオには、五月の連休にカナダの先住民を訪ねたとき、そこで出会った人たちが映っている。

先住民として、誇り高く生きる人々。
子供たちは、その生きざまと暮らしに触れて帰ってきた。

ここに来ているアイヌの生徒たちは、アイヌ語を母語として受け継ぐことはなかった。
母語とは、母が子に乳を与えるように、周囲に囁きかけられながら、知らず知らずのうち身につけていく言葉だとすれば、高齢者でも、母語・アイヌ語を獲得した人は、少ない。

「滅びゆく言語」と、実際を無視していわれた時期があった。
言葉をここまで追いつめた歴史を辿ると、アイヌ自身が自ら言葉を放棄せざるをえないほど、有形無形の社会的な圧力が存在していたことがわかる。

明治政府はアイヌから一方的に生きる基盤を奪い、彼らが貧窮してもそのまま「放置」していた。
だが、天皇制国家である以上、その子弟は「教育」し、皇民化しなければならない体面もあった。
「教育」とは民族の否定、同化を指向した。

アイヌ集落に建てられた「旧土人学校」は、アイヌに多大な影響を及ぼした。
「アイヌの言葉を喋ると、先生にひどく叱られた。
殴る先生がとても恐かった」と、ある老人は当時を語る。
また、アイヌ系児童の成績が良いと、「アイヌのくせに、そんなにできるはずはない」と叱り、シャモの子には、「アイヌでさえできるのにお前達はなぜできない!」と教師が渇を入れたとも聞いた。

子供たちは出口のない袋小路にいた。ひたすら、民族の誇りを奪われ、劣等感を植えつけられていく。

「悲しむべし今のアイヌはアイヌをば
 卑下しながらにシャモ化してゆく」

そう歌ったのは、昭和4年、27才で逝ったアイヌの歌人、違星北斗である。
容赦のない、同化への圧力が働いていた。
目には見えない、凍りつくような差別の空気。
真綿で首をしめていくような重たい圧迫感。

父や母、祖父母たちもアイヌのことを伝えられない。
口をつぐむぎ、わが「血をうすめる」ことが子供の幸せと考えるほかなかったからだ。
母語の灯は、自らの吐息で一つ一つ、ふき消されていった。

『イランカラプテ』より

当時の明治政府はアイヌ人同化政策のためにアイヌ人からアイヌ語を奪ってしまったんですよね。
同じような事を明治政府は台湾人、それに当時の朝鮮人に対してもしたんですよね。
明治政府が推し進めた“義務教育”は昭和になってから日本が“経済大国”になる原動力になったけれど、
その影で民族の言葉を奪われてしまったアイヌ人が居たわけです。

このようなことは2度としてはならない事ですよね。

では、以前に紹介したじゅぁきさんのコメントをもう一度。。。

アイヌの話はどこかで聞いた事があって、
正直すばらしい民族だと思いました。
確か宗教も万物に神が宿り、
全てに感謝して生きるというものだったと記憶しています。
もし、この文化が根付いていれば
戦争なくなる第一歩なんですが。

それと戦争インフラはものすごくわかります。
明らかに日本の政府は取り込まれてますよね?
ケネディがそうだったという噂はありますが、
まぁ内心事実と思っていますが、
一応証拠ないですので^^;;。

お金儲けのために何でもありの武器商人。
でもアメリカだけでなく三菱系や住友重工系でも武器って作ってませんでしたっけ?
こういった戦争インフラが戦争を好むんですよね?
どうやって失くせばいいんでしょう・・・。

最近は戦争とずれますが、
障害者自立支援法案という悪法が通ってしまいました。
無力を感じたできごとでした。

まずは声を出して言うことから始めるしかないですかね?
黙っていても何も変わらないのはわかってるし。

今はそんな気分です(笑)。

by じゅぁき 2006/06/16 09:19

『戦争を無くす事はできますよね。(2006/06/15 Thu)』のコメント欄より

大和朝廷は明治政府よりも、
もっとひどい事をアイヌ人に対してやったのです

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。

この暗殺によって、現代の日本の“基礎”ができあがった!
。。。と言っても決して言い過ぎではない程の事件なのです。

なぜか?

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)。
つまり、入鹿の首をたたき切ったのが後の天智天皇だったのです。
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

この鎌足こそ藤原不比等の父親なのです。
この不比等は日本史ではもちろんのこと、世界史でも他に例がないほどの“とんでもないこと”をやり遂げた人物なのです。
詳しい事は次のリンクをクリックして読んでみてください。
『愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり - 歴史書を私物化することは許されないということ!』

この首を切られた入鹿の父親の名前が蝦夷(えみし)なのです。
つまり、当時の“アイヌ人”という意味です。

“蝦夷(えぞ)征伐”をするために、当時の大和朝廷は古代アイヌ人を悪者に仕立て上げた。
『日本書紀』には古代アイヌ人のことを太平洋戦争時代の“鬼畜米英”というスローガンのように、悪口だけしか書いてありません。
つまり、何が何でも古代アイヌ人を悪者に仕立て上げてしまった。

この『日本書紀』の編集長こそ藤原不比等です。
一口に言えば、蘇我氏を滅ぼした事を正当化し、“藤原政権”を確立すための書物が『日本書紀』と『古事記』だと言う事ができると思います。

詳しい事は次の記事を読んでみてください。

■ 『真理は作られた?日本書紀と古事記』

■ 『なぜ、蝦夷という名前なの?』

つまり、蘇我蝦夷という人物は“蝦夷”の他にも名前を持っていた。
しかし、藤原不比等はこの人物を “蝦夷のように悪いやつ” という事を印象付けるために、そのように呼んだ訳です。
要するに、“蘇我氏という氏族はアイヌ人のように悪い奴らなんだよ!”という事を読む人に訴えたわけです。
そうやって、蘇我氏を滅ぼしたことを正当化しようとした。

しかし、じっくりと歴史を見れば、決して蘇我氏は悪者ではないのですよね。
それが証拠に、大化の改新で中大兄皇子が成し遂げた事は、すでに蘇我氏が考えていた事をそのまま継承して実行したに過ぎない。
中大兄皇子は実権を握りたかった。
つまり、権力闘争だったんですよね。
その事を『日本書紀』で正当化した。

中大兄皇子は後に天智天皇になって、日本史ではすばらしい人物として教えられてきた。
僕も歴史の時間に、天智天皇はすばらしい人間だと教わった。
もちろん、現在でも、僕は天智天皇が下らない人間だったとは思っていません。
その実行力と行動力、すばらしいと信じているアイデアを実施してゆくというエネルギーとガッツには目を見張らせるモノがあります。

しかし、やりすぎてしまった。
庶民の心、アイヌ人の心を、(そして、女性の心も。。。)充分には理解していなかった!

天智天皇は、アイヌ人にも迷惑をかけた

古代韓国で戦争に加担した。
それで、663年に白村江の戦いで敗れた!
天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手だった。
先ず人望を失います。

これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。
ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。
当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという重大ニュースです。

おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。
天智帝が援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。

そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。

664年

「甲子の宣(かっしのせん)」を出して豪族の再編成をすすめる。
対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり-東日本出身の兵隊)や
通信手段としての「烽(とぶひ)」を置く。
戦前に造った山城を強固にする。
博多湾岸にある那津官家(なのつのみやけ-筑紫大宰)を
南の内陸部(現太宰府市)に移転する。
百済からの亡命者の指導によって,大宰府を守るための水城を築く。

665年

新たに,大宰府の役人たちが逃げ込むための城として大野城や基肄(きい)城、
長門城などの朝鮮式山城を築く。
11月さらに大和に高安城、讃岐に屋島城,対馬に金田城を築く。

667年

飛鳥から大津に都を遷都する。

668年

中大兄皇子、正式に天智天皇として即位する。
大津遷都には多くの豪族が不満を持つ。
常に急進的な政治を行う中大兄皇子の一大決心だったが、
大和の豪族たちは大反対運動を起こす。

しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
(現在で言うなら、テポドンに備えるようなものですよ!
その防衛網を実際に構築したんですよ!
その実行力は確かにすごい!)

そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?
しかし、天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。

「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」

大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。
これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です!
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです。
このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族、古代アイヌ人から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
東国には、当時アイヌ人の祖先がたくさん暮らしていた。
つまり、大和人に同化したアイヌ人もたくさん居た。
この人たちは、文字通り、万物に神が宿ると信じて、平和に感謝して生きる人たちだった。

この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
そのような素朴な人たちまでもが警備兵として狩り出される。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。
つまり自費で帰国しなければなりません。

したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけがありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

それで、バチが当たって暗殺されたわけです。
うへへへへ。。。
失礼!天智天皇ファンには申し訳ない失笑でした。(ハンセ~~)

何代かさかのぼれば、天智天皇の祖先は古代朝鮮の任那(みまな)からやってきたんですよ。
だから、古代日本人の気持ちが充分に理解できなかった!

詳しい事は次の記事を読んでください。
『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

つまり、僕が何を言いたいかというと。。。
古代日本人は万物に神が宿ると信じ、平和に感謝しながら生きていた、という事ですよ。
つまり、戦争など馬鹿馬鹿しくてやらなかった。
だから、中国やヨーロッパのように町を城壁で囲む事もしなかった。

万物に神が宿ると信じている!
戦争などできるはずがないんですよ!

山を崩したり、岩を押し上げたりして山城を築く事なんて神を冒涜する事ですよ。
山は聖域だった!
戦火で森や林を焼く事も神を冒涜する事です。

現在だって、素朴な農村に行けば、今でも万物に神が宿ると素直に信じているお年寄りが日本にはたくさん居ます。
我々の血の中にも、古代日本人の血が少しは流れているんですよ。


ミノア人のファッショナブルな女性たち。
クノッソス宮殿の発掘現場で
考古学者のアーサーエヴァンズが初めてこのフレスコ画を目にした時、
思わず “可愛いパリジェンヌ” と口から出たと言う、いわく付きの壁画。

このお話については次のリンクをクリックして読んでくださいね。
『ラピスラズリ と 美女アメニア (前書き)』

古代日本人はミノア人(古代クレタ人)と同じように平和を愛する民族だったんです。
現代日本人のようにアメリカの防波堤にされて、ぇへらぇへら不気味に笑うような国民ではなかったんですよ!
(これはちょっと飛躍でしたよね!えへっへへへ。。。。)

とにかく、そのようなわけで、現在、純アイヌ人は好戦的な日本人に追いやられて、北海道の北の端でひっそりと暮らしています。

でもね、どちらが幸せな民族なのか。。。?
昔ながらの伝統を守って、こじんまりと落ち着いた生活を送っているアイヌ人。

現代日本人は経済大国になったけれど、
今夜のテレビニュースを見るまでもなく、
崩壊家庭に育った若者が常識では考えられないような悲惨な事件を引き起こしている!
それも、ほとんど毎日のように!

日本はどこか狂ってしまったのではないか?
。。。こう思うのは僕だけではないと思いますよ!
でしょう?
あなただって、日本がちょっと異常になり始めていると思いませんか?

何度も言うように、政治家が年金をごまかす!
日本国民の福祉と幸せを願って国政を預かる人たちが年金をごまかす。
一体、どういう神経を持っているのか?
どういうオツムを持っているのか?

年金をごまかした国会議員のほとんどすべてが、
今でもあなたの税金を使いながら、国会議事堂の中を歩いていますよ。
うへへへへ。。。。

“デンマンさん、日本へもどってきて政治家になってください”、と言ってくれた人が居ますが、
年金をごまかすような日本のダメな政治家と国会で政治をやるなんて馬鹿らしくてできませんよ。
あの大橋巨泉さんが嫌気がさしてしまうぐらいの政治の内容なんですからね。。。。
馬鹿馬鹿しくてやってられないんでしょうね。その気持ちが分かりますよ。

だから僕は、国を越えたレベルで、世界のネット市民の一人として正しいと思うことを一人でも多くの人に読んでもらう。
それが僕のできる事だし、それが僕にとって“草の根政治”だと信じていますよ。

戦争が無くなるまであと200年はかかるでしょうね。
でもね、いつか必ず地球から戦争は無くなりますよ!

戦国時代のことを考えてみてくださいよ!
戦国時代に、マジで戦争がなくなる日本を考えた人が居たと思いますか?
でも、現在、日本国内で県と県が戦争する事なんて絶対にありえませんよね。

つまりね、まだまだ、世界レベルで政治や戦争の事をマジで考える事のできる人たちが、極めて少ないという事ですよ!
僕は早く生まれすぎたんですよ!
100年遅く生まれてきたら政治家になりますよ!
しかし、日本に年金をごまかす政治家が居る限り、馬鹿馬鹿しくて政治家なんかになれませんよ。
時間の無駄です。
意味のない事をやる事は犬死ですからね。
年金をごまかす政治家と肩を並べて政治をやるのは、僕にとって犬死に等しいですよ。
それよりも、自分の信じる事をこうしてブログで記事にして書いた方がよっぽど世界のネットの発展のためになると信じているんですよ。
うへへへへ。。。。

いつの時代にも、戦争などする事は馬鹿馬鹿しいという事は常識だったんですよ。
頭のいい民族はやらなかった。
古代ミノア人!
古代日本人!

どうして戦争をやめないのか?
戦争をすると。。。
金が儲かる人たちがいる。
権力を維持できる人たちがいる!

馬鹿を見るのは何も知らない庶民です!
僕はそのような馬鹿な庶民の一人として死にたくない。

だから、世界のネット市民の一人としてバンクーバーでこうしてブログを書いています。
Grassroots Net Politicsを実践しているつもりなんですよ。。。うへへへへ。。。。。

"grassroots net politics" を入れてGoogleで検索してみたら、一つも引っかかりませんでした。
でも、このような活動をしている人が全世界に居ますよ。
僕もそのうちの一人です。

So, let's carry out grassroots net politics, shall we?

とにかく、時間があったら次の記事を読んでくださいね。

■ 『戦争はなくす事ができるものです』

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『2ちゃんねるは世界のネットのために貢献できるか?』

■ 『日本のネットではありませんよ! 世界のネットです!』

■ 『日本の皇室はどうあるべきでしょうか?』

■ 『一体、日本は良くなるの?』

■ 『どうして、こうも犯罪が増えている?警察はホントに駄目になったの?』

■ 『日本人に欠けているものは?』

■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


いにしえの愛を訪ねて [日本史]

いにしえの愛を訪ねて
  万葉集の謎と
  持統天皇
 





春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山




「白たえ」の “たえ” は楮(こうぞ)のこと。
こうぞ・くわ科の落葉低木で、春、淡黄緑色の花が穂状に咲く。
六月頃に熟して赤く、甘くなる。
樹皮は和紙の原料になる。
「白たえ」とは、この楮の樹皮で作った白い布。


この上の歌は万葉集の中に載せられている持統天皇の歌です。

天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。

この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、
それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。

問題の本質はそういうところにはないのであって、貴族社会の中に生きる人々の中にも、
自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに心を砕くものが居たということの方が、
重要なのではないかと思う。

その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、
上にあげた持統天皇の歌にも見られるように、
多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。

本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。
それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。

【山上憶良の『貧窮問答歌』】より
(注: 読みやすいように写真や改行を加え、編集してあります。
   大幅にデザインも変えてあります。)

ここで引用した文章は章子さん(仮名)がジオシティーで書いたものの一部です。
実は、僕はこの女性のことをほとんど知らないのです。
文章を読んで僕なりに想像したところでは、高校の歴史の先生のようです。

持統天皇の詩を人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈をしていると思います。
章子さんが上の文章を書いたページの一番下に“教育崩壊”というロゴが表示されています。

教育の現場で生徒に教えながら、最近の教育が崩壊しているのではないか?
そういう問題意識を持ってこの文章を書いていることが実に良く分かります。

僕も実は教育の現場に立った事があるんですよ。
教育実習で仙台商業高校の1年生に数学を教えた事があります。
カナダでは大学でコンピューターと社会人クラスでは国際貿易(インターナショナルマーケティング)を教えた事があります。
(もちろん英語で教えたわけですよ。うへへへへ。。。。)

でも、歴史に関しては素人です。
しかし、もう20年近くヨーロッパ史、古代オリエント史、古代ギリシャ史、古代ローマ史、古代日本史、古代中国史、古代インド史、。。。を自習しています。
つまり、僕は20年近く“歴史馬鹿”であり続け、歴史の本や映画を暇があれば片っ端から観たり読んだりしてきました。
もちろん、日本史や世界史を高校の時に勉強しました。古文・漢文も勉強させられました。

そういうわけで、僕も上の持統天皇の歌を学校で勉強した事があります。
僕の高校時代の恩師は京都大学の哲学科を卒業した先生で、僕のクラス担任でもあったし、歴史の先生でもあった人です。
この青木先生の教育のスタンスは、ちょうどこの章子さんと同じようでした。
つまり、人道的な立場に立って、人間性を重要視するというスタンスです。

そういうわけで、章子さんの文章を読んだ時に、懐かしく青木先生のことが思い出されてきたのです。
この恩師に高校の同窓会でお会いしたのですが、“加藤君”ではなく、“加藤さん”と呼ばれたときには面食らいましたね。

僕は現在カナダに居るのですが、200人程度のコンサルティング会社で働いた事もあります。
課長であろうが、部長であろうが、社長であろうが、Mr.Bushなんて呼んだ事は一度もありません。
Georgeと呼びすてですよ。

IBMのような伝統的で歴史のある大会社ならともかく、中小企業なら、間違いなくファースト・ネーム・ベースで付き合うものです。
つまり、名前(ファーストネーム)を呼び合う事が当たり前です。
役職だとか年齢には全く関係しません。
Mr.Bush と呼ぶと。。。
Call me George, will ya? 。。。という返事が返ってくるほどです。

青木先生は飾らない先生で、権威に対してもおもねるような所がない人でしたから、“加藤さん”と呼ばれた時、僕は唖然とするというか、かなり面食らったのですが、
内心では。。。というか、直感的に、
“なるほどなあああ。。。教職の現場から離れるという事は、社会人として付き合うということなのか。。。?”
。。。こう思ったものですゥ。

しかし、社会に出て、一体幾人の人が青木先生のような態度が取れるか?
日本には歴然として、先輩・後輩の付き合いがありますよね。
先輩に対して“。。。君”とは言えないし、
先輩だって、後輩に向かって“。。。さん”とは言わない。
これは卒業してからも終生日本では続きます。
こういうところに、僕は日本の縦型社会を感じるんですよ。

そういう体育会系の付き合いを僕は良く知っているだけに、青木先生から“加藤さん”と呼ばれた時の僕の内心の驚きを察してください。
つまり、僕は、青木先生のスタンスに横型社会を感じたんですよね。
要するに、どちらかと言えば欧米の社会です。
つまり、自由平等。
市民社会です。
(ところで、欧米では教室でも先生の僕をファーストネームで呼ぶ人も居たほどです。
半分ほどの生徒は僕をファーストネームで呼びましたよ。
もちろん、慣れてしまえば、全く抵抗がないものです。日本では絶対に考えられない事でしょうね。)

どうして、このようなことを書いたのか?
それは、上の章子さんの文章に、僕は横型社会志向を感じたからです。
もちろん、そのような社会こそが市民社会であると僕は信じています。
そのような社会が日本にも出来上がる事を僕は期待しています。

しかし、歴史を振り返ってみるとき、“横型社会志向”のメガネで見てはいけないと僕は思います。
“市民社会”の型にはめて歴史を見るような見方はまずいと思うのです。

ではどのような見方をする必要があるのか?

その当時に戻って、この場合だったら持統天皇が生きていた奈良時代に遡(さかのぼ)って、その当時の生活を生きるような姿勢で見る必要があると思うのですね。
そのような事は実際にはできないのだけれど、そのような姿勢が大切なのではないか?
僕はそう言いたい訳です。

なぜなら、“皇国史観”の歴史的な見方が、現在の“日本史”教科書にも残っています。
だから、天皇の“悪口”は、ほとんど書いてないんですよね。
天皇だって、人間なんですからね、我々と同じように50の長所と50の欠点を持っています。
でも、太平洋戦争中には、天皇の“悪口(欠点)”は書けなかった。
だから、持統天皇の“悪口”も書けなかった。

現在でも皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患っていて、かなり奇行のある人だった、という事は歴史の教科書に書いてないでしょう。
大正天皇は後年、精神状態が悪化して政務を行う事が困難になり、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政として政務を行っていた。
近親結婚が重なると、優生学上、好ましくない遺伝子が現れてしまうので良くない。
民間から正田美智子さん(現在の皇后)が皇室に入ったということも、このような背景があったからです。

つまり、歴史を振り返ってみるときには、“表”だけを見ても仕方がないんですよね。
“奇麗事(きれいごと)”だけしか書かれていない場合が多いからです。

また、故意に悪口を書いたりする。
例えば、大和朝廷は“蝦夷(えぞ)征伐”をする都合があったので、
蝦夷(えぞ:えみし)のことを『日本書紀』に悪い人間たちだと書いた。
“蝦夷征伐”を正当化するためです。

つまり、上の章子さんの文章は人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈だと僕は思います。
しかし、持統天皇の“表”ばかり見て“裏”を観ていません。
歴史を読むとき、“読み人”は歴史の裏も表も読まなければならないと僕は信じています。
それが歴史を読む人のスタンスであるべきです。

では、そのようにして上の持統天皇の歌を解釈すると、どのようになるのか?

僕の解釈を読んでみてください。

春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
とにかく、証拠がないんですよ!

しかし、状況証拠を寄せ集めれば、このような解釈しか僕にはできないんです。
関心のある人は、なぜ僕がこのように解釈したのか?を理解するために、ぜひ次の2つの記事を読んでくださいね。

■ 『【いにしえの愛を求めて。。。】 万葉集の中の持統天皇のあの有名な天香具山の歌は、大津皇子の怨霊を鎮魂するために詠われたのでしょうか?』

■ 『【いにしえの愛を見つめて。。。】 不破内親王(安倍内親王とは異母姉妹)は悪霊扱いされています。。。果たして悪霊にあたいするのでしょうか?』

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!

持統天皇が、おそらく全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

大伴家持は一読者として持統天皇の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

大伴家持は、1250年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、女帝の歌を万葉集に載せたのかも知れませんよ。

つまり、この歌の表面的な意味は、天の香具山の麓で農民たちが白妙の衣を干している、という事ですよね。
僕は初めてこの歌を読んだとき、どうしてこの歌がそれ程読むだけの値打ちがあるものか?
正直言ってさっぱり分からなかったですよ。
僕の感性に訴えてこなかった。

ところが大津皇子の事件を調べてゆくうちに、
この歌が、急に関連があるように思えてきた。
それで、僕は上のように解釈したんですよ。

味も素っ気もなかった歌が、このように解釈する事によって叙事詩的に広がりを持ってくる。
自分ながら、面白いと思いましたよ。

あなたはどう思いますか?
感想でも、批判でも、。。。何なりとコメントに書いてくれる事を期待しながら。。。
へへへへ。。。。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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■ 『日本のネットで迷惑を振りまいているウツケ者たち』

■ 『国際化・グローバル化とはあなたにとってどのようなものですか?』

■ 『日本 ☆ 日本人 ☆ 日本社会 ☆ 比較文化論』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


怖~い、とても怖~い女の確執? [日本史]

怖~い、とても怖~い女の確執?

おほほほほ。。。
『新しい古代日本史』サイトから
出向してきたので
ござ~♪~ますわ。
デンマンさんが
出ろっつんですのよ!
あたくしは嫌~♪~だ
イヤ~♪~だと
言ったんでござ~♪~ますのよ。
でも、出ないのなら、
バンクーバーへ来ても
追い返すっつんですよ。
あたくし、今年の夏休みには
ぜひともバンクーバーへ行って、
レンゲさんのようにデンマンさんに
甘えたいんでざ~♪~ますのよ。
うひひひひ。。。。
あらあぁ~~ごめんなさいね、
個人的なことを申し上げてしまって。。。
今日はね、怖~い、とっても怖~い女の確執について
デンマンさんが書いてくれるはずですわ。
デンマンさん、この程度のご紹介でよろしいでしょう?
おほほほほ。。。。

まあ。。。仕方ないですよね。
どうでも良いことを並べ立てて、全く紹介になっていないんですが、
卑弥子さんの事だから、この程度で上等でしょう。

とにかく、今日は奈良時代の怖い怖~♪~い女の確執について書いてみようと思います。
実は、6月9日にRealogで書いた記事(『愛と憎しみの原点?PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらったんですよ。

この記事の全文を1ページで読みたい人は次のリンクをクリックしてください。
『愛と憎しみの原点?』

不破内親王と安倍内親王の両方が、
お互いがお互いの歌を万葉集に載せないように、
大伴家持に圧力をかけたのかもしれませんね。

女が喧嘩する時は、絶対にタイマンをはりませんから。
必ず周囲を巻き込んで、「私の味方をしなさい!」って言って、
複数VS複数の戦いにする傾向があるんです。

大伴家持もそれに巻き込まれて、
双方から

「私の味方になりなさい!
そして、あの女の歌を万葉集から削除しなさい!」

。。。って言われていそうです。

by 更紗 2006/06/13 18:23


更紗さん、コメントありがとう!
面白い解釈ですよ!
またインスピレーションが
湧いてきましたよ。
記事が書けそうです。
いつも貴重なコメントありがとね。

ところで、“タイマンをはる”というのは
どういう意味ですか?
僕は使った事がないんですよ。
“怠慢になる”ということですか?

もし時間があったら説明してくださいね。

17日か19日に、このことで記事を書きたいと思います。
更紗さんのコメントを使わせてもらうので、よろしく。

とにかく貴重なコメント感謝してま~♪~す!
じゃあね。

Thanx millions!

by デンマン 2006/06/14 12:46




タイマンとは、「一対一の喧嘩」の意味です。
あまり上品な言葉ではないので、
辞書には載っていないかも…(^^;)



by 更紗 2006/06/14 14:11


僕が使っている三省堂国語辞典には載っていませんよ。
初めて目にしました。
そうなんですか。。。
「一対一の喧嘩」ねぇ~~
方言なのですかねえぇ~~?

僕は生まれは埼玉県なんですが、そういう言い方はなかったですよ。

もしかすると、最近流行の俗語なんでしょうか?

とにかく興味深いことです。
勉強させてもらいました。
このことでも記事が書けそうですよ。
うへへへへ。。。。



とにかく、すばやい返信ありがとね。
感謝で~♪~す!
じゃあね。

by デンマン 2006/06/15 14:48

『愛と憎しみの原点?PART 3』のコメント欄より

そういうわけです。
では、怖い女性の一人を紹介します。

不破内親王(ふわないしんのう)



生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。

聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母妹。
塩焼王の妻。

739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。

757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。

764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。

769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。

771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。

782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。

795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。

不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』

とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?

実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったとすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。

更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。

井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。

つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。

事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。

1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。

なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。

2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。

しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。 不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。

3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。

この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。



興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。 『日本女性の愛と情念の原点』


4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。

県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。

5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。

氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。

このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。

これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも、少なくとも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。

しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?

不破内親王は阿倍内親王に毛嫌いされた!

塚野重雄さんが『不破内親王の直叙と天平十四年塩焼王配流事件』の中で、この事件を巫蠱厭魅(ふこえんみ)だと見て、その主犯に不破内親王を想定しています。
天平14年に起こったこの事件も皇位継承に絡んだものです。
当時、聖武帝の唯一の息子であった安積親王を差し置いて阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となったのです。
安積親王の同母姉である不破内親王が憤りを覚えて阿倍内親王を厭魅呪詛(えんみじゅそ)したと言うのです。

不破内親王の気持ちは良く分かりますよね。
この当時生きていたら、あなたも僕も絶対に不破内親王の肩を持つはずです。
なぜなら、最近の日本の女帝問題を考えてみてください。

現在、天皇の跡を継ぐ男子が居なくなるので女帝問題が騒がれているんですよね。
もし、天皇の跡を継ぐ男子が皇室に居れば、これほど女帝問題が現在の日本で話題になる事はないでしょう。
天皇継承権を持つ男子が居れば、その男子が将来、天皇の跡を継げば良いのだから、今のように女帝問題がマスコミで取り上げられるはずがないのです。

ところが、天平14年当時、天皇継承権を持つ男子が居た。安積親王です。
だから、何も問題がなかったはずでした。

ところが、安積親王が皇太子にならずに、阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となった。
これでは、問題になるのが当たり前ですよね。

たとえば、同じ状況が明治時代に出現したと想定してみれば良く分かりますよ。
明治のあとは大正ですよね。
その大正天皇は、あなたも知っていると思いますが、精神に異常をきたして大正時代の後年には、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政になって政務を見た。

僕が子供の頃、祖母が笑い話として話してくれました。
居並ぶ大臣の前で天皇が詔勅を読むときには、卒業式のときに渡される証書のような紙を開いて読むわけです。
大正天皇は一応字が読めるから、一通り読んだそうです。
ところが読み終わったあと、その紙を丸めて、望遠鏡のようにして目に当て、居並ぶ大臣たちを見渡したというのです。
もちろん、僕の祖母がその場に居たわけではありません。

でも、そういう話が庶民の間にまで伝わって、僕の祖母の耳にも入った。
それほど、この大正天皇には奇行があったそうです。
おそらく、精神的に問題がある人だということは大正天皇が皇太子になる以前に分かっていたでしょう。
でも、そうだからといって女性である内親王を皇太子にしたら、明治時代でも大問題になったでしょうね。

ところが、天平14年には安積親王という男子継承者が居るにもかかわらず阿倍内親王を皇太子にしてしまった。
これでは、問題にならない方が不思議ですよね。

誰がこのような無茶苦茶な事をしたのか?
それは次の系図を見るとはっきりと分かります。

まず、697年に軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させたのは、祖母の持統女帝です。
持統天皇はその5年後に亡くなります。

そのあとで、皇后でもなかった草壁皇太子妃の阿閉(あべ)皇女が707年に元明天皇として即位します。
714年には14才の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を皇太子に立てます。
また、715年には皇后位でもない未婚の氷高(ひだか)皇女を即位させて元正天皇とします。
さらに、716年には安宿媛(あすかべひめ: 後の光明皇后)を首皇子の妃としたのです。
この一連の事をプロデュースしたのは、誰あろう藤原不比等です!
その黒幕が720年に62才で亡くなります。

藤原不比等の死後は、政治的にも人生の上でもパートナーである妻の橘三千代が夫の遺志を継いで、
727年に孫の基(もとい)皇子を生後1ヶ月あまりで皇太子にします。
729年には三千代の娘の安宿媛(光明皇后)を皇族でもないのに、つまり臣下の出の最初の皇后にしています。

橘三千代が亡くなったあとでは、小心で神経質な聖武天皇に代わって光明皇后が主導権を握ります。
738年、光明皇后は娘の阿部内親王を先例のない女性の皇太子としたのです。
749年には、その未婚の阿部皇太子を即位させて孝謙天皇にしました。

つまり、上の系図は持統天皇と、藤原不比等と橘三千代が描いた“天皇家の設計図”だったのです。
その設計図通りに天皇家を構築してきたのです。

この系図の中の最後の人。
その人こそ悩み多き阿部内親王なのです。
2度天皇の位に就(つ)きました。
その2度目の天皇の名が称徳天皇です。

阿部内親王がモデルになって造られたこの阿修羅像に、僕は阿部内親王の苦悩を見ますね。
この16才のときに阿部内親王は自分が生涯結婚できないという宿命を負わされていた事を母である光明皇后から聞かされて充分に知っていたんですよね。

阿部内親王にすれば、何も好き好んで皇太子になったわけではないんですよね。
16才の乙女心は充分すぎるほど苦悩に悩まされてきた。
そういうわけで、この乙女は後年、仏教に心の救いを見出す事になるのですが、
道鏡に近づきすぎたばっかりに、後年、碌(ろく)な事を言われなかった。

“スケベ坊主とエロ女帝”というように庶民の間に伝承される事になってしまった。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』

しかし、僕は個人的には、道鏡も阿部内親王もすばらしい人だと信じています。
あまりにも潔癖すぎ、理想を求め、正論を吐いたので、その後、主導権を握った藤原氏主流派(藤原百川や藤原永手)に憎まれてしまった。
(権力を握ったという意味で主流派です。)
そのような訳で、歴史的には、この藤原主流派に貶(おとし)められてしまった。

阿部内親王は上の設計図に基づいて登場したに過ぎない。
しかし、母親違いながら、同じ父を持つ不破内親王にとっては、こういう事は面白くない。
そういうわけで、不破内親王は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)までして姉さんである阿部内親王を呪う。

現在の我々の眼から見れば、上の系図でも明らかなように、藤原氏が横暴の限りを尽くしたわけですよね。
だから、不破内親王が阿部内親王を呪う気持ちが良く分かります。
(不破内親王には藤原氏の血が流れていません。)

しかし、阿部内親王にしてみれば、いい迷惑ですよね。
彼女が好き好んで皇太子になりたくってなったわけじゃない。
呪うなら光明皇后を呪うべきですよね。
そうなったら、今度は光明皇后が言うでしょうね。
“あたしが悪いんじゃないわよ、母上が、こうしなさいと言ったからしているだけよ”

しかし、不破内親王は表面的なことしか見ていない。
姉の阿部内親王だけしか目に入ってこない。
姉妹の間の愛憎とは、そういうものだと思いますよね。
血がつながっているだけに憎悪が阿部内親王に集中してしまう。

阿部内親王にすれば、身に覚えのない“悪行”で恨みをこうむっているわけですから、頭にきますよね。
そういうわけで不破内親王は毛嫌いされる。
詳しい事は歴史的に判明していないのですが、この天平14年の事件によって、主犯の不破内親王は「親王」の名を削られ、塩焼王や女孺(地位の低い女官)らは従犯として流罪にされた。
そういう事件です。

神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛するという、おぞましいものだった。

この事件では、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。
ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。

僕は個人的には、“姉妹喧嘩”だと見ていますよ。
どちらの女性にも同情します。
阿部内親王も不破内親王も陰謀の渦巻く時代の落とし子です。
聖武天皇の娘として腹違いに生まれた女同士の宿命に翻弄されてしまった。
そう思えませんか?

女の確執を離れて見たら。。。?

阿部内親王が皇太子になった事に対して安積皇子を次期天皇にしようとする動きは不破内親王のグループの他にもあったのです。
当然のことですよね。
上の系図を見るまでもなく、この当時の事件を歴史的に読んでゆくと、藤原不比等の遺志を引き継ぐ主流派が横暴の限りを尽くしていることが分かります。

藤原広嗣の乱(740年9月3日に挙兵)のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と美の原点』

そういうわけで、客観的に見れば、安積親王を皇太子にするのが正論だと信じる人たちがたくさん居た事だと思います。

不破内親王は同腹の姉のおとなしい井上内親王に比べると、性格的にはいろいろと問題があったかもしれません。
しかし、5つの事件に巻き込まれながらも70代まで生き延びたという事は、藤原主流派にとっては“反逆児”ではあっても、歴史的、客観的に見れば、基本的には間違った事はやっていないという事だと思います。
つまり、当時でも藤原氏の横暴に対する“反抗”と見られて、同情の余地があると見られていたのではないか?
少なくとも、影で不破内親王に声援を送っていた人たちが居たはずです。
そうでもなければ、これまでの事件に首を突っ込んで、70代まで生きる事など到底考えられません。

安積親王を皇太子にすべきだと主張する大伴家持のような人たちが居たという事がその何よりの証拠だと思いますね。

ところで、この大伴家持が万葉集を編纂した編集長だという事になっていますが、
万葉集には不破内親王の歌も阿部内親王の歌も載ってないですよね。

『続日本紀』巻第15には天平15年5月5日の条に阿部内親王の歌が3首(続紀2~4)載っています。
この時の宴で、阿部内親王は自ら五節を舞ったということです。

不破内親王の歌も万葉集にはないですよね。
河内女王(かわちのおおきみ)の歌が万葉集に1首載っています。
この女性は天武天皇の孫であり、高市皇子の娘です。
神護景雲3(769)年に起こった“不破内親王事件”に連座したと見られており、処罰されたのですが、宝亀4(773)年に不破内親王とともに官位に復しています。
この女性の歌が万葉集に載っていて、張本人の不破内親王の歌が載っていない。

つまり、大伴家持も不破内親王と阿部内親王の諍(いさか)いを“女の確執”と見たのではないか?
そういうわけで、喧嘩両成敗として二人の歌を万葉集に載せなかったのではないか?

もし、このことで、あなたがもっとうまい説明ができましたら、コメントをお願いします。
 
このお願いに応じて更紗さんが上で紹介したコメントを書いてくれたと言う訳です。

僕は更紗さんのコメントに触発されて、大伴家持が女性に対して、特に上の16才の阿部内親王のような“乙女”に対してどのようなイメージを持っているのか?
ネットで調べ始めたのです。

大伴家持には次のような歌があります。

もののふの八十をとめらが汲みまがふ

寺井の上の堅香子の花

堅香子の花(カタクリ)が詠まれているのは、万葉集では唯一この作品のみだそうです。
この歌の中で大伴家持は乙女をイメージしています。

調べていたら、次のようなすばらしい解釈に出会いました。
『堅香子の歌について』
この中から引用させてもらいます。

私事になるが'96年に友人に招かれて秋田へ旅行した。
そのおり刺巻の水芭蕉の池で、年配の女性がおひたし用にと、
束ねたカタクリの茎を売りに来た。
とにかく私は驚いた。カタクリを食うという発想がなかったからである。
(勿論買った。ついでに言うとホウレン草よりねばりと甘みがあって美味であった)。

ついで西木村のカタクリ自生地に案内してもらった。
ひっくりかえるぐらい驚いた。
まるでレンゲ畑なのである。
小さな丘二つにカタクリが群生している。



関西でたかだか数本のカタクリしか見たことのない私は、
一生分以上のカタクリを見た気分になった。
関西では宝物のカタクリがここではレンゲ。
意味もなく大きな笑いがこみ上げて、ゲラゲラと笑いだしたことを今もよく覚えている。

では「八十をとめらが汲みまがふ」とは何なのかである。
私は上三句は堅香子の花の形容であると考えている。
堅香子は群生する。
その花は紅紫色で下を向いて咲く。
水を汲む時、女性たちは俯く。
この群生した堅香子の風情自体が「八十をとめら」にほかならないと私は思う。

口訳すると

たくさんの乙女たちが入り乱れて水を汲む、

そんな風情で咲いている寺井の上の堅香子の花よ


というようになる。第三句までは第五句の堅香子の花を修飾するものであって、
序詞の役割を果たしている。
家持は群生している堅香子の一本を手折ってこの歌を詠んだ。
群生している花のなかで作った歌である。
紅紫色の花を表現するのに「をとめら」の詩句を斡旋するのは
家持にとってはさして難しくはあるまい。
すでに引用したように「くれなゐにほふをとめらし」(4021)とも家持は詠んでいる。
また家持は寺井の水を汲む乙女たちを日常的に見ていたであろう。
堅香子の群生をみたとき、その美しさを表現するのに、
水を汲むさいに俯く女性の風情でもって比喩したと私は考えている。

乙女らが居ないという点で私は身崎説に近い。
しかし私は幻想とは取らない。
あくまで堅香子の花の美しさを表現する比喩として理解するものである。
従来の説はいずれも上三句は、第四句の「寺井」にかかる言葉として理解している。
しかし私は第五句の「堅香子の花」に直接かかる言葉と考えている。
第四句は堅香子の場所を示すために挿入された句とみるわけである。

たくさんの乙女たちが実際に水を汲んでいたら堅香子の花は踏み潰されるだろう。

注: 写真を加え、読みやすく改行しています。

この「関西の私」がどなたなのか僕は知らないのですが、すばらしい解釈だと思いました。

僕はこの歌に、乙女(ひいては女性一般)に対する大伴家持の感性を見るような気がするんですよ。
大伴家持という人の中に、僕はどちらかと言えば歌人というよりも武人を見ていました。
つまり、藤原氏の横暴に断固として立ち向かう男らしい姿勢に僕の権威に対する反感と共鳴するものがある。
僕はその点で、歴史上の人物としての大伴家持に共感を持ちます。

しかし、そういう無骨な大伴家持が歌を詠む事ができたのは、まさに上の歌の中に良く表れているように、乙女に対する、また自然の草花に対するこのみずみずしい感性ではなかったのか?

また家持は寺井の水を汲む乙女たちを日常的に見ていたであろう。
堅香子の群生をみたとき、その美しさを表現するのに、
水を汲むさいに俯く女性の風情でもって比喩したと私は考えている。

「水を汲む少女」 by リオス

平野政吉美術館には、
秋田の豪商・平野と親交があったエコール・ド・パリの日本人画家・藤田嗣治の作品が集めてあるが、この「水を汲む少女」と題する絵はリオス(スペイン語で神)と名乗る無名画家の作品。

この水を汲む少女と上のカタクリの花を見てください。
そして、このスペインの乙女の代わりに奈良時代の大和撫子を思い浮かべてください。
大伴家持の感性が見えてきませんか?

今度は、称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、
それを川原で拾ってきた死人のドクロに入れて呪詛するという、
おぞましい光景を思い浮かべてください。

不破内親王が実際に手をかけていないとしても、その場で見ていたことでしょう。
この光景は大伴家持の感性ではとても受け入れられないものだと思います。

一方、大伴家持は阿部内親王に対しては、その哀れな宿命に同情していたかもしれません。
しかし、この内親王が女帝として権力を握る事は、藤原氏の横暴に断固として反対していた彼には当然受け入れがたい事だったでしょう。
しかも、腹違いであれ、実の妹に対して“台所で働く下女”という汚名を着せて京外に追放した。
この光景も大伴家持の感性ではとても受け入れられなかったでしょう。

要するに、大伴家持がこの二人の女性の歌を万葉集に載せなかったのは、
彼の感性がそうさせたのではないだろうか?
僕はそう思うわけです。

更紗さんの女の性(さが)による解釈も面白いですが、
僕は大伴家持の歌人としての感性により注目したいのです。
あなたはどう思いますか?

では、あなたのコメントをお待ちしています。

ィ~ハァ~♪~!



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愛と憎しみの原点? [日本史]

愛と憎しみの原点?

不破内親王(ふわないしんのう)



生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。

聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母妹。
塩焼王の妻。

739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。

757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。

764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。

769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。

771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。

782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。

795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。

不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』

とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?

実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったとすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。

更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。

井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。

つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。

事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。

1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。

なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。

2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。

しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。
不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。

3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。

この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。



興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』


4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。

県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。

5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。

氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。

このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。

これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも、少なくとも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。

しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?

不破内親王は阿倍内親王に毛嫌いされた!

塚野重雄さんが『不破内親王の直叙と天平十四年塩焼王配流事件』の中で、この事件を巫蠱厭魅(ふこえんみ)だと見て、その主犯に不破内親王を想定しています。
天平14年に起こったこの事件も皇位継承に絡んだものです。
当時、聖武帝の唯一の息子であった安積親王を差し置いて阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となったのです。
安積親王の同母姉である不破内親王が憤りを覚えて阿倍内親王を厭魅呪詛(えんみじゅそ)したと言うのです。

不破内親王の気持ちは良く分かりますよね。
この当時生きていたら、あなたも僕も絶対に不破内親王の肩を持つはずです。
なぜなら、最近の日本の女帝問題を考えてみてください。

現在、天皇の跡を継ぐ男子が居なくなるので女帝問題が騒がれているんですよね。
もし、天皇の跡を継ぐ男子が皇室に居れば、これほど女帝問題が現在の日本で話題になる事はないでしょう。
天皇継承権を持つ男子が居れば、その男子が将来、天皇の跡を継げば良いのだから、今のように女帝問題がマスコミで取り上げられるはずがないのです。

ところが、天平14年当時、天皇継承権を持つ男子が居た。安積親王です。
だから、何も問題がなかったはずでした。

ところが、安積親王が皇太子にならずに、阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となった。
これでは、問題になるのが当たり前ですよね。

たとえば、同じ状況が明治時代に出現したと想定してみれば良く分かりますよ。
明治のあとは大正ですよね。
その大正天皇は、あなたも知っていると思いますが、精神に異常をきたして大正時代の後年には、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政になって政務を見た。

僕が子供の頃、祖母が笑い話として話してくれました。
居並ぶ大臣の前で天皇が詔勅を読むときには、卒業式のときに渡される証書のような紙を開いて読むわけです。
大正天皇は一応字が読めるから、一通り読んだそうです。
ところが読み終わったあと、その紙を丸めて、望遠鏡のようにして目に当て、居並ぶ大臣たちを見渡したというのです。
もちろん、僕の祖母がその場に居たわけではありません。

でも、そういう話が庶民の間にまで伝わって、僕の祖母の耳にも入った。
それほど、この大正天皇には奇行があったそうです。
おそらく、精神的に問題がある人だということは大正天皇が皇太子になる以前に分かっていたでしょう。
でも、そうだからといって女性である内親王を皇太子にしたら、明治時代でも大問題になったでしょうね。

ところが、天平14年には安積親王という男子継承者が居るにもかかわらず阿倍内親王を皇太子にしてしまった。
これでは、問題にならない方が不思議ですよね。

誰がこのような無茶苦茶な事をしたのか?
それは次の系図を見るとはっきりと分かります。

まず、697年に軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させたのは、祖母の持統女帝です。
持統天皇はその5年後に亡くなります。

そのあとで、皇后でもなかった草壁皇太子妃の阿閉(あべ)皇女が707年に元明天皇として即位します。
714年には14才の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を皇太子に立てます。
また、715年には皇后位でもない未婚の氷高(ひだか)皇女を即位させて元正天皇とします。
さらに、716年には安宿媛(あすかべひめ: 後の光明皇后)を首皇子の妃としたのです。
この一連の事をプロデュースしたのは、誰あろう藤原不比等です!
その黒幕が720年に62才で亡くなります。

藤原不比等の死後は、政治的にも人生の上でもパートナーである妻の橘三千代が夫の遺志を継いで、
727年に孫の基(もとい)皇子を生後1ヶ月あまりで皇太子にします。
729年には三千代の娘の安宿媛(光明皇后)を皇族でもないのに、つまり臣下の出の最初の皇后にしています。

橘三千代が亡くなったあとでは、小心で神経質な聖武天皇に代わって光明皇后が主導権を握ります。
738年、光明皇后は娘の阿部内親王を先例のない女性の皇太子としたのです。
749年には、その未婚の阿部皇太子を即位させて孝謙天皇にしました。

つまり、上の系図は持統天皇と、藤原不比等と橘三千代が描いた“天皇家の設計図”だったのです。
その設計図通りに天皇家を構築してきたのです。

この系図の中の最後の人。
その人こそ悩み多き阿部内親王なのです。
2度天皇の位に就(つ)きました。
その2度目の天皇の名が称徳天皇です。

阿部内親王がモデルになって造られたこの阿修羅像に、僕は阿部内親王の苦悩を見ますね。
この16才のときに阿部内親王は自分が生涯結婚できないという宿命を負わされていた事を母である光明皇后から聞かされて充分に知っていたんですよね。

阿部内親王にすれば、何も好き好んで皇太子になったわけではないんですよね。
16才の乙女心は充分すぎるほど苦悩に悩まされてきた。
そういうわけで、この乙女は後年、仏教に心の救いを見出す事になるのですが、
道鏡に近づきすぎたばっかりに、後年、碌(ろく)な事を言われなかった。

“スケベ坊主とエロ女帝”というように庶民の間に伝承される事になってしまった。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』

しかし、僕は個人的には、道鏡も阿部内親王もすばらしい人だと信じています。
あまりにも潔癖すぎ、理想を求め、正論を吐いたので、その後、主導権を握った藤原氏主流派(藤原百川や藤原永手)に憎まれてしまった。
(権力を握ったという意味で主流派です。)
そのような訳で、歴史的には、この藤原主流派に貶(おとし)められてしまった。

阿部内親王は上の設計図に基づいて登場したに過ぎない。
しかし、母親違いながら、同じ父を持つ不破内親王にとっては、こういう事は面白くない。
そういうわけで、不破内親王は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)までして姉さんである阿部内親王を呪う。

現在の我々の眼から見れば、上の系図でも明らかなように、藤原氏が横暴の限りを尽くしたわけですよね。
だから、不破内親王が阿部内親王を呪う気持ちが良く分かります。
(不破内親王には藤原氏の血が流れていません。)

しかし、阿部内親王にしてみれば、いい迷惑ですよね。
彼女が好き好んで皇太子になりたくってなったわけじゃない。
呪うなら光明皇后を呪うべきですよね。
そうなったら、今度は光明皇后が言うでしょうね。
“あたしが悪いんじゃないわよ、母上が、こうしなさいと言ったからしているだけよ”

しかし、不破内親王は表面的なことしか見ていない。
姉の阿部内親王だけしか目に入ってこない。
姉妹の間の愛憎とは、そういうものだと思いますよね。
血がつながっているだけに憎悪が阿部内親王に集中してしまう。

阿部内親王にすれば、身に覚えのない“悪行”で恨みをこうむっているわけですから、頭にきますよね。
そういうわけで不破内親王は毛嫌いされる。
詳しい事は歴史的に判明していないのですが、この天平14年の事件によって、主犯の不破内親王は「親王」の名を削られ、塩焼王や女孺(地位の低い女官)らは従犯として流罪にされた。
そういう事件です。

神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛するという、おぞましいものだった。
この事件では、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。
ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。

僕は個人的には、“姉妹喧嘩”だと見ていますよ。
どちらの女性にも同情します。
阿部内親王も不破内親王も陰謀の渦巻く時代の落とし子です。
聖武天皇の娘として腹違いに生まれた女同士の宿命に翻弄されてしまった。
そう思えませんか?

女の確執を離れて見たら。。。?

阿部内親王が皇太子になった事に対して安積皇子を次期天皇にしようとする動きは不破内親王のグループの他にもあったのです。
当然のことですよね。
上の系図を見るまでもなく、この当時の事件を歴史的に読んでゆくと、藤原不比等の遺志を引き継ぐ主流派が横暴の限りを尽くしていることが分かります。

藤原広嗣の乱(740年9月3日に挙兵)のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と美の原点』

そういうわけで、客観的に見れば、安積親王を皇太子にするのが正論だと信じる人たちがたくさん居た事だと思います。

不破内親王は同腹の姉のおとなしい井上内親王に比べると、性格的にはいろいろと問題があったかもしれません。
しかし、5つの事件に巻き込まれながらも70代まで生き延びたという事は、藤原主流派にとっては“反逆児”ではあっても、歴史的、客観的に見れば、基本的には間違った事はやっていないという事だと思います。
つまり、当時でも藤原氏の横暴に対する“反抗”と見られて、同情の余地があると見られていたのではないか?
少なくとも、影で不破内親王に声援を送っていた人たちが居たはずです。
そうでもなければ、これまでの事件に首を突っ込んで、70代まで生きる事など到底考えられません。

安積親王を皇太子にすべきだと主張する大伴家持のような人たちが居たという事がその何よりの証拠だと思いますね。

ところで、この大伴家持が万葉集を編纂した編集長だという事になっていますが、
万葉集には不破内親王の歌も阿部内親王の歌も載ってないですよね。

『続日本紀』巻第15には天平15年5月5日の条に阿部内親王の歌が3首(続紀2~4)載っています。
この時の宴で、阿部内親王は自ら五節を舞ったということです。

不破内親王の歌も万葉集にはないですよね。
河内女王(かわちのおおきみ)の歌が万葉集に1首載っています。
この女性は天武天皇の孫であり、高市皇子の娘です。
神護景雲3(769)年に起こった“不破内親王事件”に連座したと見られており、処罰されたのですが、宝亀4(773)年に不破内親王とともに官位に復しています。
この女性の歌が万葉集に載っていて、張本人の不破内親王の歌が載っていない。

つまり、大伴家持も不破内親王と阿部内親王の諍(いさか)いを“女の確執”と見たのではないか?
そういうわけで、喧嘩両成敗として二人の歌を万葉集に載せなかったのではないか?

もし、このことで、あなたがもっとうまい説明ができましたら、コメントをお願いします。
 
では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
と尋ねたのでざ~♪~ますのよ。
そしたら、今日の記事の話題は
あたくしがマスコットギャルをやっている
『新しい古代日本史』サイトに
直結する話題だから、
宣伝しなさいっつんで
ござ~♪~ますのよ。
それで、また
出てきてしまったのでざ~♪~ます。
おほほほほ。。。。
そういうわけですので、あたくしのことを
憎まないでくださいましね。
よろしくね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。


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