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いにしえの愛を見つめて。。。 [日本史]

いにしえの愛を見つめて。。。

春過ぎて夏来たるらし白たえの

衣(ころも)ほしたり天(あめ)の香具山

万葉集の中に収められた持統天皇の歌。

持統天皇がこの歌を詠んだ時の気持ちは、おそらく次のようなものだったでしょうね。。。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

おととい(6月5日)、Realogで書いた記事(『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。

持統天皇の歌が「怨霊を鎮めるための歌」ですか・・・
それは大胆な仮説ですね(・◇・;)

持統天皇の歌というと、
「女性らしい爽やかな歌」という解説しか見かけたことがないのですが、
確かに持統天皇からすれば大津皇子の件は後ろめたい出来事でしたし・・・。
祟りを恐れていたのは確かでしょうね。

そういえば、ブックオフで永井路子の
『悪霊列伝』という本を105円で買ってあったのですが、読むのをすっかり忘れていました(^^;)

この本だと不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています。

by 更紗

2006/06/06 15:45

さっそく僕は次のようは返信を書きました。

> 持統天皇の歌が「怨霊を鎮めるための歌」ですか
>・・・それは大胆な仮説ですね(・◇・;)


その通りですよ。
かなり大胆な仮説です。
歴史家なら絶対にこのような事は書けないでしょうね?

確証がありませんからね?
歴史馬鹿のデンマンならばこそ、できる事ですよね。
うへへへへ。。。。

でもね、“真相”はいつか必ず表れるものですよ。
読む人の心にね。

歴史を読めば読むほど真相に近づいてゆきますからね。
歴史を読むとは、そのような事だと思います。
司馬遼太郎さんも、そのような事をどこかで書いていたように思います。

つまり、歴史を読む人が解き明かして行くのが“真相”だと思いますよ。

>持統天皇の歌というと、「女性らしい爽やかな歌」
>という解説しか見かけたことがないのですが、


そうですよ。そういう批評ばかりが目立って、持統天皇の暗い部分に焦点を当てて批評する人は極めてまれですよね。

しかし、歴史上の人物でも完璧に善人は居ないし、完璧に悪人も居ませんからね。

僕は善人と思われている人は暗い部分を見ようと思うし、悪人と思われている人は善の部分を見ようとしますね。

そのほうが歴史を読んでいて面白いですよ。

>確かに持統天皇からすれば大津皇子の件は
>後ろめたい出来事でしたし・・・。
>祟りを恐れていたのは確かでしょうね。


間違いなく恐れていましたよ。
だから、大津皇子の死体を15キロ離れた二上山に移して、持統天皇は皇子の怨霊を閉じ込めたんですからね。。。

> そういえば、ブックオフで永井路子の
>『悪霊列伝』という本を105円で買って
>あったのですが、読むのをすっかり忘れていました(^^;)


永井さんも良い本を書きますよね。
残念ながらバンクーバーの市立図書館には永井さんの本が1冊か2冊ぐらいしかないんですよ。

ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC: University of Britishi Columbia)の新渡戸ガーデンのそばにある東南アジア・センターの図書館には、すばらしい日本の図書がたくさん収められています。
ここなら永井さんの本もたくさんあるはずです。



Vancouver International Airport の上の濃い緑が
UBCの大学に寄贈された広大な原生林を含む森。
左の方に見える岬の突端部分がUBCのキャンパス


僕は、日本ではほとんど日本の小説は読まなかったのですが、
カナダのトロント大学とバンクーバーのUBCの東南アジアセンターの図書館で
松本清張、司馬遼太郎、三島由紀夫、山本周五郎、。。。
このような作家の本をかなり読み漁りました。

>この本だと不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も
>悪霊扱いされています。


不破内親王についても書きたいと思っていますよ。

いつもながら更紗さんのコメントをもらって、感謝していますよ。
ありがとね。

不破内親王。。。また、インスピレーションが湧いてきましたよ。

とにかく、メチャ忙しくって、更紗さんのブログを読む機会がありませんが、
そのうち時間ができたら読ませてもらいますね。
つまり、書く種が尽きたら。。。。

じゃあね。



by デンマン 2006/06/06 18:06

『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』のコメント欄より

更紗さんの書いたコメントに触発されて、上の返信にも書いたように不破内親王の事が書きたくなったというわけです。
この内親王の略歴はウィキペディアによると次の通りです。

不破内親王(ふわないしんのう)



生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。

聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母姉。
塩焼王の妻。

739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。

757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。

764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。

769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。

771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。

782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。

795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。

不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』

とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?

実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったといすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。

更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。

井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。

つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。

事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。

1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。

なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。

2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。

しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。
不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。

3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。

この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。



興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』


4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。

県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。

5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。

氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。

このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。

これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。

しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?

この事については明後日じっくりと見てゆきたいと思います。
 
では。。。

ィ~ハァ~♪~!



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