SSブログ

藤原鎌足と長男・定慧 [日本史]

藤原鎌足と長男・定慧

古人皇子、有間皇子の悲劇はよく知られています。しかしあまり知られていないのが、これから述べる定慧(じょうえ)の悲劇です。定慧は藤原鎌足の長男です。上の写真で大きな人がもちろん、鎌足です。小さい方の右が定慧、左が不比等です。

定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。わずか11歳の時の事でした。彼と共に中臣渠毎連(こめのむらじ)の息子・安達(あんだち)、春日粟田臣百済(かすがのあわたのおみくだら)の息子・道観などが共に出家しているとはいえ、権臣、中臣鎌足の長男が出家するということは、全く異例の事です。

この時、まだ鎌足の次男、不比等は生まれていません。つまり、定慧は一人息子だったわけです。どうして鎌足はこの一人息子を、しかもまだ11歳の幼少の身を出家させて、危険な船旅へ出したのでしょう。ご存知のように、この当時の唐への船旅は死を覚悟しなければなりません。遣唐使の歴史を見れば分かるとおり、千人以上の人が、嵐にあったり、難破したり、座礁したりして、命を落としています。

ロンドンからパリ行き、あるいは、ロスアンジェルスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってハイジャックされ、エッフェル塔やエンパイア・ステートビルディングに突っ込まれて、全員が命を落とすことは、ないとはいえません。しかし、仕事のために、明日、ニューヨークへ行ってください、あるいはLAへ飛んでくださいと言われた時に、私はそのことを理由に断ることは、先ずありません。

しかし、もし、この当時私が生きていたとして、一ヶ月後に、舟で唐に渡ってくださいと言われれば、真剣になって考え込んでしまうでしょう。なぜなら、4艘で船団を組んで出発したとしても、先ずその内の一艘か二艘は途中で難破したり座礁したりして海の藻屑となって消えてしまうのが、当時の常識でした。

要するに、10円硬貨を上に放り投げて手のひらで受け取った時の裏が出る確率にほぼ近い。表が出たら、めでたく命拾いをする。裏の場合には、海底に沈む運命だと思って諦める。実際、遣唐使が船出するシーンなどを映画で見ても分かるとおり、もう涙の別れです。念の入った映画では、水杯を交わして、これがこの世で会う最後だといって、見送るのです。

私は、すでに20年以上をカナダで暮らしています。しかも旅行好きですから、500回近く航空会社の飛行機に乗っています。しかも趣味でセスナを運転しますから、少なく見積もっても、1000回ほどは飛行機に乗っているはずです。このことを当時の船旅に置き換えてみれば、私は500回命を落としていることになります。仮に確率を10回に一度にしても、100回程、命を落としていたことになります。

当時の船旅が、いかに危険と隣り合わせていたかということは、以上述べたことでお分かりいただけたと思います。もう、これ以上、くどくど述べる必要はないでしょう。

それほど危険な船旅に、なぜ定慧を出したのか?

ここで鎌足と定慧の話に戻りますが、11歳の一人っ子を持つ親の身になってください。もしあなただったら、このような小学生を、生きるか死ぬか分からない、唐への船旅に出しますか?一ヶ月どころの話ではありません。10年、15年はざらです。長いのになると、30年帰ってこれない。もっとひどい例になると、阿倍仲麻呂のように、帰ってきたくとも、もう年をとりすぎて、船旅に耐えてゆけそうにないので、あきらめてしまった。結局、唐で亡くなってしまったわけです。これはもう、ひどい話です。

したがってどういうことが言えるでしょう?初めて、この話に出くわした時の私の結論は、定慧は、鎌足の実の子供ではなかった、ということでした。定慧は、当時、鎌足にとって1人しか居ない子供でした。それにもかかわらず、念の入ったことに出家させています。要するに、定慧を自分の跡取りにしないと、はっきりと決めているわけです。これは、『姥捨て山』の話ではありませんが、子供を一人捨てるようなものです。11年間、一緒に暮らしてきたものだから、くびり殺すこともできない。だから、出家させて、唐に追いやってしまう。運がよければ、唐の国で暮らしてゆくだろう。運が悪ければ、途中で大嵐にあって死んでしまうに違いない。

おそらく、鎌足は、そう思っていたことでしょう。このように書くと、私が鎌足を必要以上に悪人のごとく書いていると、受け止められそうなのでちょっとひと言付け加えます。鎌足という人物は、すごい人です。立派だという意味でもすごいし、エゲツナイという意味でもすごい人です。この人のことは、しかし、まだ良く分かっていないのです。なぜか?それは、これまでの歴史家の多くが、古事記と日本書紀をほとんど信用して、書かれていることをそのままに受け止め、藤原鎌足という人物について、ああでもない、こうでもないと言うように、総点検していないからです。

太平洋戦争中、あるいは、それ以前には、あまり変なことは書けませんでした。なぜなら、皇国史観というものが厳然として歴史学を支配していましたから、それに反したことを書くということは、それこそ、遣唐船で船旅をするようなもので、悪くすると、狂信的な国粋主義者によって、ばっさりと首をはねられる恐れがあります。命にかかわらないとしても、学会から締め出しを喰らいます。歴史学者としての命を葬り去られるわけです。

したがって、藤原鎌足についても、いろいろと研究がなされるようになったのは、終戦後です。それでも、天皇家に近いせいか、研究者も、当たり障りのないことばかり書いて、あまり歯切れのいい研究にはなっていないという印象を持つことが多いのです。鎌足の事について、いろいろな事を言うようになったのは、皇国史観などは縁もゆかりもない「新人類」が現れるようになった、つい最近のことです。

鎌足とは、一体どういう人なの?

鎌足の性格を分析する事は、大変難しい事です。彼の心の中へ入り込んで考えることは、更に難しい。しかし、手がかりになるものは、けっこうたくさんあんあります。その重要な手がかりの一つに、中国の古い兵法書『六韜』が上げられます。鎌足は、この兵法書を座右において愛読していました。問題は、彼の愛読書がどのような内容のものであったかという事です。たぶん現代人が読めば、かなりエゲツナイ内容のものだと感じるに違いありません。詳しい事は、このページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)を読んでください。新しいウィンドーが開きます。

端的に言うと、非常に頭のいい人でした。視野が広いという事が先ず彼の特徴だと思います。おそらく、これは彼の父親が百済で生まれたことと関係していると思います。このことについては、このページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。朝鮮半島で政権を維持してゆくとしたら、国際情勢に明るくないと、とてもやっては行けません。しかも、朝鮮半島の歴史を見れば分かるとうり、戦乱の繰り返しです。もちろん日本だって戦乱がなかったわけではありません。しかし、その規模が違います。『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、大陸人は、日本の街が城壁に囲まれておらず、丸裸の集落に過ぎないと言って、驚くよりも呆れている様子が読み取れます。

要するに、原日本人と呼ばれるアイヌ人たちは、もともと好戦的ではないのです。はっきり言うと、この戦乱と言うのは、渡来人が持ち込んだものです。つまり、大陸から、あるいは、朝鮮半島からやってきた人たちが、あとから持ち込んだものです。それまでは、アイヌ人たちの間では、小競り合いはあったかもしれないけれど、城壁を築くような大規模な戦争はなかったのです。

したがって、どういうことがいえるかというと、『六韜』を愛読しているということ自体、原日本人的ではないということです。古事記や日本書紀を読むと、鎌足は、日本古来からの古い中臣氏の出身と言うことになっています。しかしこれは、まちがいで、鎌足の父親は百済で生まれ、日本へやってきて、婚姻によって中臣氏の中へ混ざってゆきます。しかし、ご存知のように、中臣氏という氏族は、仏教を受け入れない氏族です。したがって、どういうことになったかと言うと、仏教を取り入れなければ、にっちもさっちも行かないと先を読んだ鎌足は、天智帝に頼んで『藤原氏』を作ってもらいます。そのことによって、中臣氏と袖を分かち、別行動をとってゆきます。

『六韜』の精神とは何か?ともし、鎌足に尋ねれば、彼は答えて、こう言うに違いありません。「それは生き残るためのバイブルさ。とにかく、生き残ることが最も大切だ。そのためには、何でもする。何?悪いことでも平気でやるかって?勝てば官軍ということを知っているでしょう?生き残れば何とでもなる。死んではおしまいだ」と答えるでしょう。

現代的な我われの感覚では、これは「エゲツナイ」とか、「人でなし」と言われかねない内容の返答です。しかし、実際に、鎌足という人物は、このようなやり方で、政権の座に就いたのでした。具体的には、このページ (藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) を見てください。

しかもこの精神は、次男の不比等に引き継がれてゆきます。この人も、父親を上回るほどに、頭の切れる人です。この人によって、藤原氏の地盤がしっかりと固まったと言えると思います。しかし、この人は、日本史上とんでもないことをしています。それは、下に示すような変則的な、皇位継承を無理やり押し通して、天武天皇の息子たちを政権から締め出していることです。

つまり、持統王朝をサポートしてゆくことによって政権の座から新羅派を追い落としてゆくという政略を採りました。このあたりのことは、このページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で詳しく説明しています。

しかも、この『六韜』の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆきます。このような六韜精神で運営されていた政治・社会が一体、どのようなものであったか、というその典型的な例をこのページ (平安時代は、決して平安ではなかった) で示しています。

藤原氏の子孫の人たちが、もしもこのページを見たら、怒り出すかもしれないので付け加えます。私は何も必要以上に藤原氏を悪く言うつもりは毛頭ありません。鎌足も、彼の次男である不比等も人の子です、切れば血もでる、涙も流す人間です。人間である以上、根っからの悪人もいなければ、根っからの善人という者もいません。悪いところもあれば、良いところもあるというのが、我われ人間だと思います。そこで、悪い面ばかり書くのも不公平になるので、次のページでは、定慧の出生の秘密を探りながら、鎌足の感情的な側面を見てみたいと思います。

---------------------------------------------

この記事は次のページをコピーして編集したものです。

『藤原鎌足と長男・定慧』


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問・資格(旧テーマ)

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。