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天智帝は、後年、悪政を施していた。 [日本史]

天智帝は、後年、悪政を施していた。


天智天皇という人は天皇になるべくして生まれたような人です。決断力もあり、勇気もあります。これは前にも書きました。だからこそ、鎌足が、この皇子と共に大化の改新を成し遂げたわけです。しかし、当時の皇子は20歳になるかならないかと言う若さです。当然鎌足からいろいろと学ぶことも多かったでしょう。ただし、決断力もあり、勇気もある、しかも頭の回転の速い。こうなると、いつまでも、鎌足の風下についているというわけではない。独自の考えと、独自の政策を打ち出してきます。

おそらく外交政策の面で天智帝と鎌足は、後年になって意見が分かれるようになったでしょう。天智天皇は百済一辺倒だったようです。そこへ行くと鎌足は臨機応変です。それ以前の鎌足のやり方を見ても、これ以後の不比等のやり方、あるいは藤原氏のやり方を見ても、非常に考え方が柔軟です。とにかく一つの主義や、外交方針にあまりこだわらない。悪く言えば日和見主義です。仏教に反対していたと思ったら、いつの間にか仏教を取り入れ始めたように、どうしても、仏教が政権を維持してゆくのに必要だと見極めれば、さっそく仏教を取り入れます。ひと言で言えば、政治屋に徹しています。主義を持っているとするなら、それは六韜主義とでも呼ぶものです。それ以外にこだわるものがないように見えます。

いずれにしても、天智帝は、後年になってから、かなりの独断に走ったようです。もう鎌足の言うことを聞かなくなっていたでしょう。白村江の敗戦後は、百済から逃げてきた役人たちをどしどし登用してゆきます。余自信(よじしん)、憶礼福留(おくらいふくる)、鬼室集斯(きしつしゅうし)、谷那晋首(こくなしんす)、沙宅紹明(すたくしょうみょう)、答本春初(とうほんしゅんじょ)、木素貴子(もくそきし)、。。。天智帝の回りには、このような人たちが群がってくるわけです。鎌足の祖先も百済からやってきましたから、初めは、歓迎したでしょう。しかし、このような人たちがあまり増えてくれば、鎌足の影が当然薄くなってゆきます。そのことは、鎌足にとって、余り気分のよいものではないはずです。

しかも、敗戦後にやってきた百済人が山城などの築城の指導をしてゆきます。天智帝が構築しようとした大防衛網計画には、経験豊かなこれらの百済人の意見が重く用いられたとしても不思議ではありません。当然のことながら、政府内に百済からやってきた人たちの新たな派閥ができてきます。こうなると、彼らは、日本の政治と外交について大きな発言力を持ってきます。鎌足にとっては、ますますやりにくくなるわけです。

天智帝と、彼ら百済人の進めていることが、近畿周辺の豪族や、庶民の支持を受けていれば、鎌足としても、まだ我慢ができたでしょう。しかし、彼らのやっていることに対して、豪族や庶民が反対する。

しかも、大海人皇子(天武帝)を統領とする新羅派の、反天智運動がますます盛んになってくる。

こんな状態が続けば、いつか必ず変事が起こるでしょう。鎌足もただじっとしているわけには行きません。ここで例に因って、六韜(りくとう)の教えが鎌足の頭にいろいろと閃きます。そこで鎌足としては、大海人皇子と連絡を取って、天智帝打倒に向かいます。いずれ変事が起きるなら、そうなる前に、自分たちが政権をとろうじゃないかと。これが鎌足のこれまでのやり方でした。

天智帝と鎌足の対立

今まで、見てきたように、後年、天智帝の政策は、ほとんどすべてにおいて、豪族や民衆の反発を受けました。その当時、鎌足が、かりに天智帝を悪人として批判したとしても、ほとんどの人が、そのことに異存はなかったでしょう。事実、天智帝は豪族からは憎まれ、民衆の怨嗟の的になっていました。しかし藤原不比等には、天智帝が悪人だとは書けません。なぜか? 

天智帝を悪人にすると、不比等の父親である鎌足までも悪人に仕立て上げなければならなくなります。それはなぜかと言うと、勧善懲悪の精神で日本書紀の事件の説明がなされているからです。つまり、まず聖徳太子は立派な人だったという前提があります。これをくずすことができません。当然聖徳太子の息子の山背大兄皇子も善い人だったとなる。そこで、この皇子を殺害した蘇我入鹿は悪人になります。その悪人・入鹿を暗殺した中臣鎌足と中大兄皇子は善人だとなります。

そういうわけで、天智帝を悪人に仕立て上げることができない。と言うことは、日本書紀には天智帝を殺しましたとは書けません。そう書くと、善人を殺した天武帝は悪人になります。これでは、天武朝が正統なる王朝であることを書いたことになりません。

天智帝を暗殺したことを明記して、しかも天武朝が正統なる王朝だと主張するためには、天智帝が悪人にならんければなりません。そうするためには、すべての話を初めから書き換えねばなりません。そうすると、聖徳太子を悪人に仕立て上げねばなりません。もちろん、そんなことはできません。

いずれにしても、天武朝が正統なる王朝だと言うことを、後世の人が納得のゆくように書き残す、という使命に燃えて不比等は両書の編纂に当たったわけです。その結果が、今われわれの眼にする古事記、日本書紀となって伝わっているわけです。

「でも、こんな昔の事を書いて、どうしようというの?」

現在のいい加減な政治の事をあなたに考えて欲しいからですよ!
ヴィジョンを持った政治家は日本列島改造論の「角さん」の後ぱったりと絶えて出てきていませんよね。
恐らく、あなたは次の記事が読みたくなるでしょう。

『日本を良くするということは分かるけれど、その変革のエネルギーはどこに?』

『日本って世界的に見て本当に住み良い国なんでしょうか?』


ところで上の記事のオリジナルは次のリンクをクリックすると読めます。
歴史に関心のある人はぜひ覗いて見てください。
興味あるリンクがたくさん貼ってありますよ。

http://barclay.e-city.tv/oldhist/temmu2.html


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降龍十八章

天智がお好きのようですね。
日本の歴史って、証拠がないので推理がいろいろなりたっておもしろいですよね。『逆説の日本史』もびっくりしますが、専門書を読むともっとスゴイ推理や説がたくさんありますね。
天智(てんじ)については、森鴎外が殷の紂王(悪役)が身についけていた宝石(天智玉)に因んでおくり名されたと、豊富な漢籍の知識からみやっぶています。つまり天智天皇=悪王というわけですね。
by 降龍十八章 (2005-07-06 12:26) 

denman

降龍十八掌さん、ここにもコメントをいただいて、ありがとうございます。
「天智がお好きのようですね。」
実は、天智よりも藤原鎌足のほうが好きですね。天智も鎌足もエゲツナイ人と言うイメージが僕にはありますよ。しかし、人間、完全な悪人も居なければ、完全な善人も居ませんからね。じっくりと見てゆくと、どこかに良いところを持っているものですね。僕は鎌足と彼の長男・定慧の関係を見て鎌足と言う人を見直しました。そのことは次のページに書きました。
『藤原鎌足と軽皇子』
http://barclay.e-city.tv/oldhist/joe03.html

とにかく、この当時の国際性に改めてビックリする思いです。歴史が大きく動く瞬間を見るようなスリルとサスペンスを、定慧の生涯、鎌足の生涯、不比等の生涯に感じます。日本史を振り返っても、この時代ほど国際的に躍動の時代というのはあまり見当たらないですよね。僕自身、20カ国以上を放浪しましたから、23歳で殺されてしまった定慧の生きザマには共感しますね。

「天智(てんじ)については、森鴎外が殷の紂王(悪役)が身につい けていた宝石(天智玉)に因んでおくり名されたと、豊富な漢籍の 知識からみやっぶています。つまり天智天皇=悪王というわけです ね。」僕もこのパッセージを読みましたよ。降龍十八掌さんも、たくさんの本を読んでいるようですね。『逆説の日本史』を読むと、その源流は森鴎外だったり、梅原猛だったり、柳田國男だったり、。。。。先人の研究を踏まえて書いているようですが、僕も、言ってみれば乱読した中から僕の考えに都合のよいことだけを引き出して書いていますよ。

でも、最近の下らない日本の政治を見るにつけ、最終的には歴史の中に答えを見つけるより仕方がないというような気がしてきましたね。年金をごまかした政治家が、もう少し歴史書を読んでいれば、あんなバカな真似はしなかったと思うのですよ。たとえば、「諸葛孔明」について書いてある歴史書をもっとたくさん読んでほしかったと思いますね。

最近の政治家は歴史書を読んでいないのでしょうね。「歴史は繰り返す」と賢
人が見抜いていますが、マッカ-サー元帥がかつて見抜いたように「日本人は小学校6年生の頭の程度しかないよ」、と言われないためには、もう少し政治家が歴史を勉強して、もっとましな日本にしないといけないと思うのですが、降龍十八掌さんはどう思いますか?
by denman (2005-07-06 15:58) 

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