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大岡越前とセックス [日本史]

大岡越前とセックス


「大岡越前とセックス」なんて、ショッキングなタイトルを書きましたが、大岡越前の性生活を特集する記事ではありません。
昨日、『雲とおく オンナは近し 枯れおばな』という川柳まがいのザレ句について書きましたが、その記事の中で次のような疑問とリクエストを投げかけました。

「ある時(新井白石は)母親に尋ねたそうだ。『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うので御座いますか?』とね。実は、新井白石は、父が57歳、母が42才の時に生まれた子供だった。今日でさえ大変な高齢時の出産といわれる。だから、昔は40才過ぎた母親から生まれると“恥かきっ子”と呼ばれ、からかわれたりした。そういうわけで、白石の頭のどこかで、そのことが気になっていたのかもしれない」
「それでお母さんは何と答えたの?」
「それが昔のことだからね、母と息子がセックスの話などするなんてとても考えられない。お母さんも、わが息子が大真面目な顔して、そんなことを尋ねられたものだから、さぞかしビックリしたに違いない」
「それで?」
「お母さんは、どのように答えようかと困ってしまった。昔の女性のことだから、その年になってもポッと頬を染め、うつむいてモジモジと火鉢の中に眼をおとし、火箸で灰の中に『の』の字を書いた」
「『母上、いかがなもので御座いましょうか?』と、息子は返事をさいそくする。お母さんは、うつむいたままモジモジと灰の中に『の』の字を書く。そのうち、頭脳明晰な新井白石には、ハッと閃くものがあった」
「どういうこと?」
「新井白石はおじぎをすると、『ありがとうございました』とお礼を言った」
「答えてくれたの?」
「そうさ。ちゃんと答えた」
「なんと言って?」
「言葉にだしては何も言わなかった」
「分からないわ。どういうこと?」
「『この母ありて、この子あり』 頭脳明晰な新井白石のお母さんだから、やはり頭のよい人だった。お母さんは、ちゃんと仕草で答えを表していたんだ。白石はちゃんと気付いた。あとでお母さんの部屋から出ながら、口の中でつぶやいた。『灰になるまでか!』」
「あたし、まだ分からないわ。どういうこと?」
「ジューンさんは、こういう風習には、あまり馴染みがないかもしれないけれど、日本では、たいてい人が死ぬと遺体を焼くんだ。だから、『灰になるまで』とは、“死ぬまで”という意味だ」
「それ本当にあった母と息子の対話なの?」
「出どころをインターネットで調べたけれど、ついに分からなかった。でも僕と同じように、この話をどこかで聞いたとみえて、ページに載せている人がいた。そのひとのページにはこんな風に紹介されている」



近代史解釈:
歴史は夜、つくられるとゆー
その昔、新井白石は母に問うた
「女性の性欲は、何時までありますか」
 .....灰文字
       

「それだけ?」
「そう。この人のページにも、どこでこの話を聞いたのかは書いてない」
「デンマンさんはどこでこの話を知ったの?」
「若い頃、落語で聞いた覚えがある。もし、どなたか出どころを知っていたら教えて欲しい」

この記事をRealogのデンマンのブログ [2005-10-05 15:40]にも書きました。

そしたら10分後にRealogのメンバーであるBogyさんから次のようなコメントをもらったのです。
その早さに驚きました!
これほど早くコメントをもらったのは初めてのことです。

はじめまして!
「新井白石」は「大岡越前」では?

外国の方に、「叙情的」な日本語の表現は、説明が難しいですね!

by Bogy 10/05 15:50

ん? 大岡越前? まさかあああ!
僕は実際そう叫んでしまったほどです。
あり得ない事のように思えたのです。

しかし、全く予期しなかった事とはいえ、わずか10分後にわざわざ無意味なコメントを書く人もあり得ないと思ったので、とにかく調べてみようと思ったわけです。
せっかく、ご親切にコメントを書いてくれたのです。無視するのは申し訳ない!
そのようなわけで、さっそくGOOGLEで検索してみました。結果は次のリンクをクリックしてみてください。(新しいウィンドーが開きます。)

GOOGLEで「大岡越前 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果

なんと、445件のヒットがあったんですよ。

ちなみに大岡越前を新井白石に変えて検索してみたら次の結果を得ました。
GOOGLEで「新井白石 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果
56件のヒットでした。

つまり、大岡越前にも新井白石にも同じようなエピソードがあるのですね。
しかし、検索結果から見れば、大岡越前の方が8倍も多いのです。
数字の上から見れば、もう間違いなく大岡越前なんですよね。

でも、僕はどうしても新井白石とこのエピソードを切り離しては考えられないのです。
このエピソードは新井白石とお母さんで無ければならないような気がするのです。

例えばですよ。寅さんは渥美清が演じなければしっくりきませんよね。
あの寅さんを加山雄三が演じたら全くイメージが壊れてしまいますよね。
寅さんは渥美清、渥美清は寅さん。  あなただって、そう思うでしょう?

僕の頭の中で、上のエピソードは新井白石と彼のお母さんでなければならなかった。
急に大岡越前と言われたって、僕の頭の中ではイメージを切り替える事ができないんですよね。
それほど新井白石と彼のお母さんが火鉢の灰の上に『の』の字を書くシーンが僕の脳裏に焼きついてしまっています。

そういうわけで、僕は大岡越前についてもう一度調べ直してみようと思い立ったのです。
この人はとにかく日本史の中では有名な人です。
日本人なら知らない人は居ないでしょう!
特に江戸市民の間には驚くほどの人気があった!

僕の調べた結果を次に示します。

本名は忠相(ただすけ)。越前守だったことから「大岡越前」と呼ばれる。
1677年に旗本の家に生まれる。旗本大岡美濃守忠高の4男。
1686年(貞享3年)10歳のとき同族の大岡忠真(大岡忠右エ門忠真)の養子となる。
養父病死のため、1700年(元禄13年)家督を継ぐ。寄合旗本無役。
24歳で家督を継いで35歳で重大事件を審議・裁判する評定所の一員となった。
その後41歳で江戸町奉行に任命され、8代将軍徳川吉宗の命をうけてからは、裁判だけでなく江戸火消しの「いろは四十八組」を創設したり、小石川養成所などを開設するといった行政面での業績を残した。
1736年、寺社奉行。
1748年、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名に。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけである。
1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が没し、12月忠相も死去。

大岡越前といえば「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で知られ、特に2人の母親に子供を引っ張らせることで実の母親を決めたという話が有名です。
しかし、この話は大岡越前とは全く無縁の話なのです。実はこれは江戸時代「大岡政談」という小説に描かれたもので全くの作り話。
19年間の在任中裁判は3回しか行なわれず、そのうち大岡越前が執り行ったのは1回だけ!

忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみであり、現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代等他の奉行のものや中国の故事などに基づいている。
しかし、忠相が名奉行として人々に記憶されていたことの証(あかし)にはなっている。
つまり、名裁判官でなければこのような言い伝えが残らなかったと言うわけです。

これだけ調べて、僕は、なるほど~、そういうことだったのかと思い当たりました。
つまりですよ、大岡越前が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみなんですね。

加藤剛が演じる『大岡越前シリーズ』をテレビで見たことがありますか?
もし歴史に忠実に脚本を書いたら、あのシリーズはたった一回で終わりです。
ところが、あのシリーズの中では大岡越前が50回以上事件を裁いていますよね。

要するに、大岡越前と言う人は人気があった。だから、他の人のエピソードであっても、江戸市中のミーちゃんハーちゃんは面白そうなエピソードをこの人に結び付けてしまったのではないか?
新井白石は1657【明暦3年】に生まれて1725【享保10年】に亡くなっています。つまり、大岡越前よりも20年前に生まれています。
だから、この人のエピソードが庶民の間では人気があった大岡越前のエピソードとして受け入れられたのかもしれません。
僕にはそう思えるのです。

しかも、大岡越前と言う人は養子に入ったのですね。エピソードの中の母親は実母でないと面白みが半減してしまいます。
養母ではアカの他人ですからね、息子と実の母親の間で交わされるセックスにまつわる会話の緊張感・羞恥心が希薄になってしまいます。
このようなことを考えると、やはり、上のエピソードは新井白石と実母の間で交わされた会話ではなかったのか?

いずれにしてもBogyさん、貴重な情報をありがとうございました。
もし、このエピソードの出典が分かったらまた教えてください。
これを読んでいるあなたも、もし僕が書いたエピソードの出所が分かったら教えてください。
じゃあね。


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