愛のコリーダとレンゲさん [性の悩み・セクハラ・愛と性]
愛のコリーダとレンゲさん
阿部定は東京市神田区新銀町19、畳職人、重吉の4女に生れ小学校在学中より遊芸を仕込まれたが、早熟で15歳の時に処女を失った。
その後は町の不良と交り相次いで異性との交際を続けたので、定が18歳の頃、父親の重吉は娘を見限って芸妓にする事に決めた。
それ以来、定は横浜、富山、長野、大阪、名古屋、兵庫、東京等の各地を転々とし、芸妓、娼妓、私娼あるいは妾などをして次第に身を持ち崩していった。
しかし、昭和10年頃よりやや目覚めるところがあって、更生の一歩として昭和11年2月1日東京市中野区新井町五三八、割烹業を営む吉田家に女中として住み込みで働き始めた。
生来多情なる被告人は間もなく主人の石田吉蔵(42)と情を通じたが、家人に知られるところとなった。それで同年4月23日両名諜(し)めし合わせて家出した。
翌5月7日渋谷区円山町八五「みつわ」を初めとして、市内数ヶ所の待合を転々して愛慾生活に耽溺した。
吉蔵は被告人との関係を長く持続するため同人を妾として待合を開業させるための準備をするために一時帰宅した。互に未練を残して別れる事になった。
しかし、被告人は吉蔵と別れたのだけれど、同人に対し未だかつて経験した事のないような恋慕、愛著の念を感じ吉蔵夫婦の生活を想像して嫉妬と焦躁の情に馳(か)られた。瞬時も吉蔵と別離するに堪へがたく再会の折りは情痴の戯れに使おうとして牛刀を買った。
5月11日被告人は電話で吉蔵を誘ひ出し中野駅にて落ち合った。午後10時頃荒川区尾久町4ー1881、待合「まさき」に赴き、以来同家に流連し日夜情痴、愛慾の限りを尽した。
5月16日、吉蔵と情交中刺激を求めるため、同人の頸部を腰紐で絞めたが、同人の顔面が充血したため吉蔵はこれを治療するために帰宅静養したいと被告人に告げた。
被告人はさきに一時吉蔵と別れた間の嫉妬の苦しみを経験していたので到底同人と離れるのに忍びず、さりとて吉蔵には妻子を振り捨て自己と同棲するまでの意思がないことを察知していたため、吉蔵を永遠に独占しようと同人を殺害する事を決意した。
5月18日午前2時頃待合「まさき」の「さくらの間」で熟睡している吉蔵の頸部に腰紐を二重に巻き付け、その両端を両手で強くひきしめて同人を窒息死させた。
吉蔵の死体に痴戯しているうちに、同人を完全に独占したいため、女性は妻といえども死体の局部に指一本触れさせたくないと思い、牛刀で吉蔵の○莖及び○嚢を切り取った。
さらに同人の右上膊部外側に被告人の「定」の名を刻み込んだ。その後、傷口の血を手指につけ吉蔵の左大腿部に「定吉二人」なる文字を書き、その寝床敷布にも「定吉二人キリ」という文字を書き残した。
切り取った○莖及び○嚢を懐に入れて同日午前8時頃同家から姿を消した。
『予審決定書』より
デンマンさんは、どうして阿部定事件にこだわるのですか?
阿部定事件について調べれば調べるほど、阿部定がレンゲさんに似ているように思えてくるんですよ。
いややわああああ。。。。デンマンさん、マジですかあああ~~
もちろんマジですよ。
それって、セクハラですわあああ。。。
僕は別にレンゲさんに嫌がらせをしようとしているわけじゃないですよ。
じゃあ、どうして阿部定事件を持ち出すのですか?
レンゲさんの事がもっとよく理解できるのじゃないかと思ってね。。。阿部定が境界性人格障害を患っていたとは、これまで誰も言っていません。でもね、僕は予審調書を何度も読んだんですよ。読めば読むほど阿部定の生い立ちや経歴や行動がレンゲさんに似ているんですよ。
どういうところが似ているのですか?
レンゲさんとお母さんとの関係と定さんとお母さんの関係。。。それからレンゲさんが16歳で坂田さんの腕に抱かれて桜の花びらを散らした事とか。。。定さんが15歳で乙女から女になってゆく事とか。。。
だって教わってないから。
2005-08-13
わたしは生まれた時から、
必要な愛情をあたえられなかった。
両親ともに、
こんなめんどくさい生き物の
ニーズなんて考えもしない。
わたしはいつも見捨てられてきた。
わたしの胸には、愛情はない。
だって教わってないから。
わたしは、親を憎んでいました。
今は“血のつながった
やっかいな他人”だと思っています。
これからどうなるか分かりませんが、
今の私には親との和解は無理です。
ウチの親を客観的に見れば、
社会性が欠如していたんです。
ふたりともボンボンとお嬢だから世間知らずだし。
で、わたし親から最後の一撃食らわされて、
自分は将来利用するために育てられてきたことがわかっちゃって。
親はわたしに向かって確かにそう言ったのです。
それで、わたしは親から離れたのです。
by レンゲ
『デンマンさんが私のことをグロリア・スタイナムに似ていると』より
レンゲさんは未だにお母さんと和解していないんですよね。
あたしは本当に母から愛されていなかったんです。
定さんは調書の中では自分は幸せな少女時代を過ごしたと言っているんですよ。
そうだったのですか?
表面上はそうだった。けっこう裕福な暮らしをしていたんですよ。レンゲさんは両親のことを“ウチの親を客観的に見れば、社会性が欠如していたんです。ふたりともボンボンとお嬢だから世間知らずだし。。。”と、書いているけれど、定さんの両親にもそのようなところがあった。だから、調書をよく読むと、定さんもお母さんを憎んでいた事が良く分かる。しかも調書の中でも、はっきりと“恨んでいました”と言っている。
私は末子で両親に大変可愛がられました。
母は派手好きで見え坊でしたから小学校2年生頃から私に三味線を習わせ綺麗にしては連れ歩いたのです。
そういうわけで、勉強の方は自然に嫌いになりました。 先生からお稽古なんか止めなさいと言われましたが在学中ずっと身を入れてお稽古に励みました。
卒業してからは裁縫のお稽古に通ったりしましたが、家には大勢職人が居て色々の話を聞かされ10歳頃から男と女がすることを知りました。 それに兄真太郎は少し道楽者で私が15歳位の時、堅気の姉さんを出して外に囲っていた水商売の女を家に入れたのです。
丁度その頃職人を和子姉さんの婿養子にしたので、真太郎兄さんは両親が和子姉さんに家を相続させるのではないかと嫁さんと若夫婦を虐め母は和子姉さんに味方し毎日家中ごたごたしていました。
両親は家が揉めるので私に見せては将来のためにならないと思ったらしく、“表で遊んでおいで”と毎日のように言うので、私はそれを良いことにして毎日お友達の宅等へ遊びに行っていました。 そういうわけで、自然外に出歩く事がが好きになりました。
その頃の私はどちらかと言えば堅過ぎる位真面目な考えを持っていました。 でも15歳の時お友達の家で学生に抱かれてからガラリと気持が変って不良になり浅草で遊び暮すようになったのです。
その頃、毎日お友達の福島ミナ子さんの家へ遊びに行きました。 やはり、そこに遊びに来た福島さんの兄さんの友達で慶応の学生さんと知合いました。 私はその人と懇意になり二階でふざけて居るうち、その学生さんに関係されてしまいました。 その時大変痛みがあり、二日位出血したので驚いてしまいました。 これで自分は娘でなくなったと思うと何だか怖ろしくなって母に話さずにいられなくなったのです。
その後その学生さんと会ったので自分はこの間の事を話しました。 “あなたも親に話して下さい”と言ったところ、その学生さんはその後福島さんに寄りつかなくなり、母がその学生さんのところへ行っても会ってくれず、そのまま泣き寝入りになってしまいました。
当時、その学生さんに遊ばれただけだと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、このような事を隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もうお嫁に行けないのだとまで思ひ詰め、ヤケクソになってしまいました。 母は私の様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だから、と慰めてくれました。 お前の知らないことを男がしたのだから何でもないと言ってくれたのです。 その時、大正琴を買ってくれました。
母に、慰めてもらえば、もらうほど、学生さんに抱かれた事がシャクにさわり、ある日どこかへ行って遊んで来ようと思い、家の金15円程持ち出しました。 その頃、私の近所には不良が沢山いて、私の姿を見ると何とか声をかけてはからかいました。 でも、それまでは私は振り向きもしませんでした。
ところが、その時は私が不良に声をかけ、今日は気分が悪いから面白い処へ連れて行ってくれと言うと快く連れて行ってくれることになりました。 一日中遊び暮し、帰る時金を持ち帰ると悪いと思ったから全部分けてやりました。
丁度和子姉さん夫婦が家出した頃で家の中がゴテゴテしていました。 親達は別段私の事を気に止めず母から“随分遅かったね”と言われたのですが、上野の山に行って来たと言ってごまかしていました。 金を持ち出して遊びに行き不良仲間におごったり小遣をやったりすると皆からサーチャン、サーチャンと騒がれるので面白くてたまらず、親が余り小言を言わないのをいい事にして段々増長してしまいました。 朝は目が覚めても仲々起きず、二階までお膳を運ばせ御飯がすむと直ぐ着換えては浅草へ遊びに出かけました。 金竜館などで一日遊び暮しては夜9時頃でなければ帰りませんでした。
(中略)
父は田舎で商売をしなかったため私も仕事がなく、また私は三味線の稽古を始めましたが矢張り温和しくしておれず、近所の男と懇意になり一度関係した事もあり、時々散歩したので目に付き、それに一人で近所の洋食屋などに出かけるため、田舎の事ですから私の噂が五月蝿(うるさ)くなったので父はそれを見兼ねて怒り、そんなに男好きなら娼妓に売ってしまうと言い出し、母やタカ姉さんは心配して父をいさめ、私も本当に怖ろしくなり三日も眼を泣きはらして謝ったのですが、父はどうしても承知せず大正11年7月18歳の時、私を連れて横浜市××町に居た遠縁に当る稲葉正武の家に行き娼妓の世話を頼みました。
私は父と口もきかず、どうせヒビの入った身体だし、こうなった以上はどうともなれモウ決して親元へは帰らないと決心しました。 稲葉方に1ヵ月ばかり世話になった後、稲葉から紹介屋に頼み前借金300円で中区住吉町の芸妓屋春新美濃に抱えられ「みやこ」と名乗り一本の芸者になりました。
(中略)
各地に転々として芸者をしたわけですが、その話をするには私と稲葉正武の関係を申上げねばなりません。 稲葉は兄真太郎の先妻とも知り合いでしたので、私の両親とも交際していました。 だから、私が前から不良少女である事を知っており、私が一ヵ月ばかり世話になって居た時無理矢理に関係させられてしまいました。
(中略)
信州は皆、不見転(みずてん)芸者【相手を選ばず、お金しだいで客の言いなりになる芸者】でした。 検黴もありましたから場所がら私も不見転をしたところ、花柳病に罹ってしまいました。 私は検黴(けんばい)まで受けて芸者をするなら一層娼妓になった方がましだと思い、22歳の正月大阪市の飛田遊郭「御園楼」に住み替へ娼妓になり、源氏名を「園丸」と名乗って出ました。 その時稲葉と縁を切りました。
「御園楼」に住み替える話がきまった当時、母も私と稲葉との関係のあることを知っていましたから今後縁を切る話を母に話したいと思い横浜に居る紹介業甲斐田さんという人に頼み、母を信州の三河屋へ連れて来てもらい母にこれまでの稲葉との関係を話し印鑑を返してもらう事を頼み「御園楼」から2800円位前借した金で「三河屋」へ前借を返し、今度は父の連判だけにし母に300円ほど小遣をやりました。
私が親に小遣をあげたのはこの時が初めてでした。それまで私は親を恨んでいましたが気を取り直し母には前借金も与えたし、もうここまで落ちてしまったのだから今更どうなるものでもないし、今後私の我儘は勘忍して下さいと謝りました。
御園楼は当時大阪で一流でした。私も売れてナンバースリー以下に下がった事がありませんでした。抱主からも可愛がられて「御園楼」では面白く働きました。
一年位経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりました。しかし、その人の部下も私の客であることが判ってその話は駄目になり、客から勘忍してくれと言われ金を貰った事がありました。それで、少し腐っているところへ紹介屋から話があって、翌年早々23歳の時、名古屋市西区羽衣町の「徳栄楼」に借金2600円で住み替えました。
ここに移る時は、その抱主は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望していたそうです。私は面長でどちらかと言えば伝法肌の女であり、紹介屋から是非抱えて呉れと頼まれて抱えることになったらしいのです。当時、その事情を知らない私は抱主が内儀さんに仕方なく抱えたんだ、名前などは何でもいいと話しているのを耳にし、私を抱主が気に入らぬのなら気に入らせて見せるという気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きました。それから売っ子になり可愛がられるようになりました。 「徳栄楼」では2年間位働きました。思い出の多かった時代です。
『自伝・阿部定の生涯 その1』より
阿部定事件の予審調書を調べて“自伝・阿部定”を『なつかしの映画・TV番組(ウラ話)掲示板』書いてみたんだけれど、すぐ上で引用した抜粋を読んでみれば分かるように、定さんはレンゲさんのように水商売の世界に足を踏み入れて波乱に富んだ生活をしました。でも、けっこう頑張り屋なところがあったんですよ。常にナンバーワンからナンバースリーにとどまっていたようです。まさに、レンゲさんを見るようですよ。
。。。
あなたにとって大学生活は慢性的な空虚感と退屈さが伴っていたんですよね。少なくともホステスの生活の方が楽しかったんですよ。楽しいという言葉が適切でないなら、レンゲさんの求めているものは、大学生活よりもホステス生活の方にたくさん見出すことが出来たんですよ。
あたしの求めているもの?。。。それは何ですか?
“幼児的なふれあい”ですよ。
レンゲさんがホステス時代に“お客リスト”を作っていた。レンゲさんはクラブ・オアシスで働いていた30人の女性のうちでナンバーワンになったんですからね。レンゲさんがマジメに一生懸命ホステス業に励んでいたことが僕は理解できましたよ。どんな職業でもそうですが、トップになるためには、それなりの努力が必要ですよ。実際、“ちゃらちゃらして”いたら、ナンバーワンにはなれなかったと思いますよ。
。。。
“セックスから愛が生まれることもあります”と言ったんですよ。覚えているでしょう?
セックスから愛が生まれる事は、極めてまれにはあるかもしれません。でも、普通は逆ですよ。愛し合っている男と女がやがて結ばれる。そう思いませんか?ただし、レンゲさんが“セックスから愛が生まれる”事を体験したと言う事は僕には理解できますよ。でも、その愛はレンゲさんが求めていた愛ではなかったようですよね。
本当の愛を見つけていたなら、レンゲさんはベターハーフを見つけていたでしょう。でも、人生の伴侶をいまだに見つけていないですからね。しかも、レンゲさんは求めている愛を見つけることが出来そうにないと思ったから、ホステスの世界からきれいに足を洗ったんですよ。2度と戻らなかった。これからもレンゲさんは戻らないと思いますよ。
本当の愛があることをレンゲさんは信じている。信じきれないまでも信じようとしているレンゲさんが居る。しかし信じたいにもかかわらず、レンゲさんの目の前に現れる愛は、理想とする「愛の形」からはあまりにもかけ離れている。それでレンゲさんは絶望を感じないわけには行かない。これ以上どうにも出来ない愛に無力感を覚える。レンゲさんがホステスを辞めたのは、この事が真の理由だと僕は思っていますよ。
やはり、セックスから愛は生まれませんか?
だから、そういうことも極めてまれにはあるでしょう。でもね、これだけはハッキリ言えますよ。クラブに行く男たちは、そこで愛を探そうとしているわけではないんですよ。女の子と遊ぶために行くんですよ。だから、そこで仮に求める女の子を男が“釣った”としても、釣った魚にエサをやるようなことはしないものですよ。
遊びだけが目的だと言うのですね。
僕はそう思いますよ。レンゲさんだって、そう思ったからこそ、馬鹿馬鹿しくなって、ホステス業を廃業にしたはずでしょう?
分かりますか?
レンゲさんは頑張り屋の性格ですからね、ホステス業が本当にすばらしいと思うなら、あなたは自分のクラブを立ち上げる事の出来る人ですよ。しかし、あなたは結局、ホステス業を廃業した。大学にも戻らなかった。何をしたか。。。?ホステス時代の関係を引きずってしまったんですよ。
何もかもご破算にすることなんて出来ませんわ。
そういうところがレンゲさんの優柔不断なところです。レンゲさんを衝動的に殺そうとした椎名さんはホステス時代からの付き合いですよ。あなたのドクターもこの人だけとは別れなさいと言っていた。
でも、椎名さんは可哀想な人なんですよ。
あなたと同様、不幸な家庭に育った。だから、同病相哀(あいあわ)れむような関係だったんですよね。でもね、レンゲさん自身が溺れようとしていたんですよ。そのレンゲさんが溺れかけていた椎名さんを助けようとした。それがレンゲさんの感じていた“愛”だった。しかし、溺れかけていた人が溺れようとしている人を助けようとして、結果的に二人とも溺れてゆく。僕にはそのように見えましたよ。
つまり、“不毛の愛”ですか?
。。。
デンマンさんは、あたしの事を誰よりも良く理解している。でも、それでいてあたしを愛してくれませんよね。どうしてですの?
レンゲさんが言う“愛している” “男と女が理解しあう” と言うことには “関係を結ぶ” と言うことが当然のように含まれている。でも、あなたはね、一度の関係では終わらないタイプなんですよ。だから、あなたが求めるような愛に、僕はのめり込むことは出来ないんですよ。溺れるものを助けるために溺れてどうします?ミイラ取りがミイラになってしまってはお笑いモノですよ!
『とこしえの愛って。。。 』より
定さんも、どちらかと言えばレンゲさんのように“セックスから愛が生まれ”ることを経験しているんですよ。ただし、出だしはレンゲさんの場合と違いかなりつらい思いをしたんですよね。自暴自虐になって水商売の世界にのめり込んでしまったようなところがある。でも、一旦その商売に浸(つ)かると頑張り屋の性分からレンゲさんのようにトップに躍り出ようと一生懸命に頑張った。
そういうところが定さんとあたしは似ているとデンマンさんはおっしゃるのですか?
それだけではありませんよ。僕は定さんも“幼児的なふれあい”を求めていたように思えますよ。
定さんもお母さんに愛されていなかったと言うのですか?
定さんはお母さんを“恨んでいました”とはっきりと言っていますよ。しかし、具体的にどのようなことを恨んでいたのか?その事は言ってません。調書を読む限り、お母さんから可愛がられていたように思える。
一体何を恨んでいたのですか?
“母は派手好きで見え坊でしたから小学校2年生頃から私に三味線を習わせ綺麗にしては連れ歩いたのです” つまり、派手好きで見栄坊のお母さんの“小道具”にされていたのに過ぎなかったのではないか? つまり、可愛いペットに過ぎなかったのではないか? 本当に愛していたのなら、可愛い娘を水商売などに出さないに違いない!そう思ったのかも知れませんよね。
でも、お父さんが連れて行ったわけでしょう?
だから、本当に愛しているのなら、お母さんが引き止めたはずだと思ったのでしょう。レンゲさんの場合は、お母さんが教育ママゴンだった。レンゲさんにりっぱな教育をつけさせる事がお母さんの見栄でもあった。でも、レンゲさんにとって、それは教育という名の虐待だった。その虐待から逃れるために、レンゲさんは坂田さんの腕の中に飛び込んでいった。そうやって、レンゲさんはハラハラ。。。ワクワク。。。どきどき。。。坂田さんの腕に抱かれて桜の花びらを散らしたんですよ。
定さんは15歳の時なんですね?
でも、残念ながらレンゲさんのように期待して抱かれたわけではなかった。そこがレンゲさんと定さんで大きく違ってくるところです。
でも、定さんも“幼児的なふれあい”を求めていたとおっしゃるのですか?
つまりね、ここで境界性人格障害を考えればうまく説明する事ができますよ。
どういうことですか?
つまり、お母さんに愛されなかった以上に、学生さんに拒絶された事が定さんにとってはトラウマだったと僕は思っているんですよ。定さんは書いていました。
私は父と口もきかず、どうせヒビの入った身体だし、こうなった以上はどうともなれモウ決して親元へは帰らないと決心しました。
つまり、学生さんに拒絶された事がトラウマになって、“幼児的なふれあい”を求めていると。。。?
レンゲさんと同じように拒絶される事への恐怖があの事件を引き起こしたように思いますよ。
それで、デンマンさんは、。。。あたしも。。。あたしも、同じように洋ちゃんのお○ん○んをちょん切ってしまうと言うのですかああああ~~
僕はそんなことを言っていませんよ。
でも、これから言うつもりなんでしょう?
いや、僕は別に。。。
デンマンさんは、そうやって、またあたしを
馬鹿にするんですわああああああああ~~
【ここだけの話しですけれどね、また黒いパンティーをはいたサディストが出てきたようですよ。このサディストは怖いんですよ。何しろ、河内弁でまくし立てますからね。へへへへ。。。。とにかくね、レンゲさんの話の続きは、ますます面白くなりますよ。どうか期待して待っていてくださいね。もっとレンゲさんのことが知りたいのなら、下にリンクを貼っておきましたからぜひ読んでくださいね。】
レンゲさんの愉快で面白い、そして悩み多い日々は
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レンゲさんをもっと知りたい人は。。。。
■ 『レンゲさんのように苦境から立ち上がった女 ー グロリア・スタイナム』
レンゲさんの写真を見たい人は。。。
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