マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは? [日本史]
マキアベリもビックリ !
藤原氏のバイブルとは?
マキアベリ (Niccolo di Bernardo Machiavelli 1469-1527) の事は、多分知っていると思いますが、念のために、ちょっとひと言。日本の戦国時代に当たりますが、当時の、イタリアは、フィレンツェ市国(公国)の役人をしていた人物です。
1513年に、“The Prince” というタイトルの本を書きます。これはいわば、政権の座にある者のための、治世の書とも言われるもので、現在の考え方からすると、ひどくエゲツナイやり方で,国を治める方法が書いてあります。したがって,マキアベリズムと言う場合、たいてい、悪い意味に使われることが多いようです。
そういう本を書いたマキアベリもびっくりする、というのですから、藤原鎌足が愛読していた「六韜(りくとう)」という兵書がどのようなものであったか、大体想像がつくでしょう。たぶんマキアベリは、この兵書を読んでいなかったでしょう。私の知る限り、マキアベリが「六韜」を参考にしたとは、どこにも書いてありません。
この「六韜」のどこがすごいかと言うと、例えば、
「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、
そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」
「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、
そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」
「外交使節に隣国から優秀な人物が交渉にきたら話をまとめるな、愚鈍な人物のときにまとめろ、そうすればその人物が重んじられ優秀な人物は失脚し、隣国は弱まるだろう」
というわけで、政略、謀略を通して、時の政治をどのように操って行けばよいかということが書かれているマニュアル本だったのです。
これには、さらに、「八徴の法」という人物の本性を見抜く八つの方法がのっています。
1) 質問してみて理解の程度を観察
2) 追及してみてとっさの反応を観察
3) 間者をさしむけて内通を誘い誠実かどうかを観察
4) 秘密を打ち明けてその人徳を観察
5) 財政を扱わせて正直かどうかを観察
6) 女を近づけてみて、人物の堅さを観察
7) 困難な任務を与えてみて勇気があるかどうかを観察
8) 酒に酔わせてみてその態度を観察
エゲツナイといえば、確かに、その通りには違いないわけですが、人間の弱いところ、痛いところを見極めて、なかなか意味のあることを言っています。もちろん、まともなことも、たくさん書いてあります。くだらないことばかり書いてある本だとしたなら、藤原鎌足が見向きもしなかったでしょうし、結局現代まで、伝わらなかったでしょう。
この六韜(りくとう)は、周の太公望の撰とされ、「荘子-徐無鬼」という本に「金版六囁」(「囁」は「とう」で「韜」に同じ)と出ています。現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の6巻からなっています。ちなみにこのうちの「虎韜」から派生した言葉が、今日よく耳にする「虎の巻」という慣用語です。
また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書もあり、これは3巻からなる兵書です。これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の上で漢の張良に授けたと伝えられています。しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。老荘思想を基調にした治国平天下の大道から戦略・政略の通則を論述したものですが、日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。
ところで、このような一見エゲツナイと思われる藤原鎌足にもすばらしい女性との出会いがあったのです。
そのお話読んでみたいと思いませんか?
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ええっ?
あたしが誰だとお聞きですか?
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実の兄と妹の恋愛? [日本史]
実の兄と妹の恋愛?
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ますが、私はそう思いません。
なぜなら、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。
しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと私は信じます。
この間人(はしひと)皇后は、中大兄皇子に無理やり連れて行かれたのだと私は思うのです。
その時、孝徳天皇は歌を詠みます。
しかし、こんなひどい仕打ちを受けても、なおかつ歌心を忘れていないというところが、なかなかどうして、馬鹿にできない、立派な人だと感心させられます。
その歌とは次のようなものです。
国文学者の吉永登さんは次のように解釈しています。
お前は私を捨てて他の男のもとに走ったのではないか。
上の歌を見て、間人(はしひと)皇后が孝徳天皇を捨てたと解釈するのは間違いで、中大兄皇子によって捨てさせられたと解釈すべきです。
そのように理解したうえで、上の歌をもう一度かみ締めて味わうと、次のようになるのではないでしょうか?
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。
もし、孝徳天皇と中大兄皇子を見比べて、人情の機微が理解できるのは、果たしてどちらかと尋ねられたら、私は、疑問の余地を残さずに孝徳天皇だと答えます。
そういうわけで天智天皇と間人(はしひと)皇后の関係をもう一度見直す必要があるのではないかと思っています。
見直したいと思いますか?
こういうことは興味のない人にクダクダと書いても意味ありませんからね。
もし関心があったら次のリンクをクリックして読んでみてください。
ええっ? 私が誰だとお尋ねですか?
卑弥子と申します。
よろしく。エヘへへへ。。。
いいえ、卑弥呼じゃなくて卑弥子ですわあああ~。
卑弥呼さんは歴史上の女性ですよね。
私は、デンマンさんが立ち上げた『新しい古代日本史』サイトのマスコットギャルざますゥ。
更に、よろしくね。
もし、上のリンクをクリックすれば、私がところどころに顔を出しますので、またあなたにお目にかかることが出来ると思います。
デンマンさんが、私をコスプレさせるので、もう、全く可笑しな服装で登場させられるんですのよォ~。
そういうわけざますゥ~。
では、関心があったら、またお目にかかりましょうね。
さいなら~♪~
“士農工商”という身分制度はなかったのか? [日本史]
“士農工商”という身分制度はなかったのか?
11月28日にSO-NETのブログで書いた記事(『“縦社会” と “横社会”』)に次のようなコメントをもらいました。
>あの“士農工商”という身分制度です。
江戸時代にこういう身分制度はありません。
武士と百姓・町人の関係を中心とした
職業と身分が結びついた制度ということです。
「士農工商」というのは明治になってはじめて使われた言葉です。
現在はこういう序列で江戸時代の身分制度を考えるのは
あやまりだとされています。
by NTHAWKS (2005-11-28 20:32)
NTHAWKSさんは、これまでにも僕の記事に対して貴重なコメントを寄せてくれました。
その1つが僕が10月9日に書いた『戦争やり始めるのは、ごく一部の愚かな政治屋です!』に書いてくれた次のコメントです。
現在の仮想敵国とされているのは、中国です。あくまで「仮想」です。
自分の政権維持に執着している人間が、世界を滅ぼすでしょうか。脅しに屈してはいけませんよ。 それに、アメリカに対話を求めてきたのは、外向的な成果をあげることで国内の不満を抑えるためです。
したたかですよ、北朝鮮は。
ペンで何かしたいと考えていらっしゃるからこそ、こういうブログなど通じて意見を発信されているのではないですか、Denmanさんは。
「戦争は嫌だ」と叫ぶことは大事だと思いますよ。
自分の意思をはっきり示し、同じ意見の者と連携し、更に大きな声にしていく。
遠回りかもしれませんが、「戦争はなくならない」と嘆くだけよりもマシではないですか。
by NTHAWKS (2005-10-09 18:42)
僕が10月10日に書いた『戦争はなくす事ができるものです』という記事の中で
MattさんとNTHAWKSのコメントを使わせてもらいました。
NTHAWKSさんのコメントが僕のMattさんに対する反論の“援護射撃”のような役目をになってくれたのです。
そういう意味で僕はNTHAWKSさんのコメントをありがたく思ったのでした。
Mattさんからは最近コメントが全くありませんが、NTHAWKSさんからは久々のコメントでした。
ありがとう。
ところで、NTHAWKSさんの冒頭のコメントですが、
江戸時代にこういう身分制度はありません。
このように何の根拠も明示しないで“不注意に”断定していますが、本当にそうだったのだろうか?
“「士農工商」というのは明治になってはじめて使われた言葉です。”
NTHAWKSさんは、上のように書いていますが、明治になって誰がいつ使い始めたのか?
批判をする時には、このようなことを明確に書かなければならないんですよね。
NTHAWKSさんは、あまり批判した事も無いようだし、批判を受けた事も無いようですね。
全く“批判”の文章になっていませんよ。
つまり、批判というには根拠が貧弱すぎます。
根拠が全く無いに等しい。
僕に言わせてもらえば、しっかりと調べもしないで聞きかじりの知識を並べて書いた、出来の悪い中学生レベルの文章です。
また、憎まれ口を聞いてしまいました。ねっ?
へへへへ。。。。。
では、どうしてNTHAWKSさんは批判する事を知らないのか?
ちょっとばかり説明してみようと思います。
まず、僕はGOOGLEで調べてみました。
23,600件引っかかりました。
全く引っかかりません!
NTHAWKSさんが言うように“江戸時代に士農工商という身分制度がなかった”のなら、1件ぐらい引っかかってもよさそうなものです。
まず、この検索結果から見てもNTHAWKSさんは明らかに間違った事を言っている!
『国内の統一と江戸幕府の成立』というページには次のように書かれています。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)で石田三成を破り、江戸幕府を開きました(1603年)。
さらに、大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、江戸幕府は強固なものとなりました。
また、身分(士農工商・・・身分を武士・農民・町人に分ける)に応じて様々な規則を制定しています。
つまり、身分(士農工商・・・身分を武士・農民・町人に分ける)に応じて様々な規則を制定しています。
このような記述を1時間以内に100件以上見つけることが出来ました。
ないどころじゃない!
士農工商が厳然としてあったという事を書いているページを1時間以内に100ページ以上見つけることが出来ましたよ!
しかし、これだけでは片手落ちになるので、NTHAWKSさんが正しいとして、検索してみました。
その中から次のページを見つけました。
『江戸時代後半の文化』のページでは“石門心学”の観点から「士農工商」について次のように述べています。
農家の出で商家奉公の中で儒教を学んだ梅岩は,京都で町人を集めた講釈で道義を訴え、門弟の養成に努めた。梅岩は、商人の社会的職分を強調し,商業道徳の確立を説き、『都鄙問答』で、「富ヲナスハ商人ノ道ナリ。富ノ主ハ天下ノ人々ナリ」と説いた。
梅岩を継いだ京都の商人手島堵庵は、その思想を平易にし,心学の同志が集まって切磋琢磨する組織を会輔と名づけ,講舎の制をたてた。京都では堵庵の自宅を五楽舎とし,明倫舎・脩正舎・時習舎の三舎ができた。三舎が本山となり、各種の認可証が発行された。
ところが堵庵の門弟中沢道二は、師匠の指示で一七七九年(安永八)に江戸へ下って参前舎を開いた。学問が下から上流武家へ浸透し、播州山崎藩主をはじめ十藩の藩主が道二の門に入った。
道二は,比喩や諧謔で笑わせて考えさせ聴衆を魅了する道話形式を確立した。
脇坂義堂は舌禍によって京の堵庵から破門されたが、江戸へ下って道二の知遇を得、人足寄場教諭方に推薦された。その講話は「心学教諭録」と題して出版され、その外にも平易な教訓書をたくさん著した。
盲目の柴田鳩翁は、京都を中心に十数か国を巡講したが、おもしろい道話で世人を魅了し、それを記録した「鳩翁道話」は一世を風靡した。
こうして、心学は道話と切り離さないものになり、心学道話という言葉が定着した。
藩政改革では、心学講話を実施する所があり、良き服従者になることを教えることにもつながったが、士農工商が上下の尊卑よりも生業の区分であることを強調して、仕事の誇りを教える心学は、身分の尊卑観念をなし崩しにする効果があった。
また成人の女性や少女も受講者として扱い、講話に列席させた。
NTHAWKSさんは、恐らくこの“石門心学”の流れに沿って江戸時代の一部の庶民の間に広まった“士農工商が上下の尊卑よりも生業の区分であることを強調して、仕事の誇りを教える”心学の事を聞きかじったようですね。
しかし、この心学を実践する者は現在の日本に居るキリスト数信者より多くは無かったでしょう。
でも、これでは、はっきりとした数字が現れません。
何か良い方法は無いものか?
ありました!
良い方法がありますよ!
GOOGLEで“士農工商 江戸時代 心学”を入れて検索した結果
236件引っかかりました。
つまり、石田心学の“士農工商が上下の尊卑よりも生業の区分であることを強調して、仕事の誇りを教える”ということが仮に庶民の間に広まっていたとしても、その扱われ方は上の検索結果に見るようにごく限られているんですよね。
演繹(えんえき)してみれば、要するに 236 / 23600 = 0.01 (1%) です。
ただ単に推測するよりも、この方が説得力がありますよね。
僕が検索していて驚いたのは“士農工商”という語句が一部の日本人の間で“差別語”として扱われているということなんですよね。
こんな馬鹿馬鹿しい事はありませんよ。僕は初めて知りました!
しかし、“裏日本” “表日本” を差別語に指定して検閲している“タンタン広場”のようなネット・コミュニティがあるくらいだから、“士農工商”が差別語に指定されても、それ程驚きません。
でも、僕には馬鹿馬鹿しいと思えますよ!
インドに“カースト制度”という身分制度がありますが、“カースト”が欧米で“差別語扱い”になっているなんて聞いたことが無いですよ!
もしかすると、NTHAWKSさんの持ち出す根拠とは、この差別語としての“士農工商”かも知れませんね。
いづれにしても、NTHAWKSさんの根拠をじっくりと聞いてみたいものです。
もし、あなたが知っているなら、ぜひその根拠とやらを聞かせてください。
僕が調べた限りでは、“士農工商”が厳然として江戸時代に存在していた、という事を書いたページがほとんどでした。
いづれにしても、武士には“切り捨て御免”という特権があったんですね。
つまり、町人や百姓が武士に対して無礼な事でもすれば、武士は剣を抜いて町人や百姓を切り殺しても、何の咎(とが)めも無かった。
このことだけを取り上げてみても、“お上”は人間に上下をつけた。
もちろん、民主主義の現在にあっては、こんな非常識な話はどこの国に行っても通用しないでしょう。
でも、日本のような“縦社会”では、今だに“切り捨て御免”が通用しています。
ナイトメア・ネッツ(仮名)というブログサービスを運営している会社があります。中国地方の小さな会社ですよ。
この社長がナイトメア・ブログの管理人をしています。
もちろん、“縦社会思考” にどっぷりとつかっているこの“田舎侍”は“武士気取り” で “問答無用!”と言って、僕のブログを丸ごと“切り捨て”てしまいました。
問答無用!のあとの削除です!
この管理人が僕に対して次のような警告文をメールで送ってきました。
Date: 06/11/2005 10:31:24 PM Pacific Standard Time
07/11/2005 3:31:24 PM 日本時間
From: info@nightmareblog.jp (架空)
To: barclay1720@aol.com
ビーバーランド ネット様
この度は、当社のナイトメア・ブログにご登録いただき、誠に有難うごさいました。
弊社にてお客様サイトを確認させて頂きました。
お客様の投稿で利用規約に違反する内容がありますので修正してください。
修正が完了するまで、ポータルへ公開することが出来ません。
修正が完了致しましたら、連絡いただけますでしょうか。
連絡がいただけない場合、2週間後にサイトを削除させて頂きます。
詳細は以下を参照して下さい。
利用規約禁止事項 2.
(3)ポルノ、売春などわいせつ、わい雑な内容、倫理的に問題のあるコンテンツの表示
(5)その他、公序良俗に反する行為、あるいは社会的に不適切な行動と解される行為に違反していると判断しました。
・2005年10月28日 ビジネスに関係なく女性の下着画像を載せられている
・2005年11月03日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではありません)に対して馬鹿であると数回にわたり記述されている。
・2005年11月04日 コメントに対して>お前のようないい加減で無責任な低脳児童が日本にはたくさん居るんだよ、と返している。
・2005年11月06日 2005年11月04日の引用文掲載
・2005年11月06日 特定の人物(この場合実在するかどうかは問題ではない)に対して人間のクズという表現を使っている
この警告文に対して僕は公開抗議文を書きました。
しかし、期限の11月21日までに全く返事をよこしませんでした。
つまり、僕の公開抗議文を無視したのです。
この会社は、吹けば飛ぶような小さなヴェンチャー企業です。
しかも、この田舎者の社長は“縦社会”しか知らない人物です。
そのくせ、言う事だけは“国際派”を気取っています。
もちろん、海外生活経験はゼロです。
僕はほぼ確信を持って言う事ができます!
誤解しないでくださいね。
海外生活経験が無いから人間的に劣っていると言うつもりはありません。
僕が言おうとしている事は、圧倒的に“横社会”型になりつつある世界をもっと目を開いてみたらどうなの?
。。。と言う事です。
この田舎者の社長の言う事がふるっていますよ。
「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」
... (中略)
ターゲット市場を出来るだけ絞り込んで、その市場でNo1を目指すこと。
これが重要なのです。
(しかし、当社はまだ実践できていない)
あたりまえですよ。
そのような“縦社会思考”にハマッている“田舎社長”が業界一位に成れるはずが無い。
「世界でシェア1位、悪くても2位を取れないビジネスからは撤退するべきだ」
このまま、“縦社会”思考にはまっていたら、遅かれ早かれ撤退する事になるでしょうね。
ユーザーに対する“横社会”型の対応が全く出来ていません。
つまり、“士農工商”的な“縦社会”の思考が平成時代の現代にあっても厳然としてあるということが“士農工商”という身分制度があった何よりの証拠なんですよ。
その証拠が上で述べた“国際化”から取り残された“井の中の蛙の田舎社長”です。
このような思考は横社会にはありません。
その証拠が見たければ僕の次の記事を読んでください。
『“縦社会” と “横社会”』
この記事の中で僕のエピソードを紹介していますが、
平等対等の社会というのが、どのようなものなのかあなたにもよく分かると思いますよ。
僕に反論のある人は是非次のスレッドをじっくりと読んでから書いてくれるとうれしいです。
では、よろしく。
あなたのご意見・ご批判をお待ちしています。
女が天皇になってはいけませんか? [日本史]
女が天皇になっては
いけませんか?
あなたはどう思いますか?
現在は男女同権の時代ですよね。
法律的には第2次大戦後、日本国憲法の名の下に男女同権ということになっています。
でもね、実際には男女同権というのは有名無実に近いんですよね。
このことは統計的にも証明されています。
つまり、OECDに加盟している先進国が二十数カ国ありますが、このうち管理職に占める女性の割合いが一番低いのが韓国なんですね。
下から2番目が日本です。
韓国は日本以上に儒教の影響が韓国文化の中に染み渡っています。
日本も戦前には“男尊女卑”という“思想”がありました。
これが今だに尾を引いているというわけです。
しかし、この前の衆議院選挙を見ても分かるように女性が政治の世界にかなり進出してきているのが分かります。
10年前と比べれば、管理職にも女性の占める割合が増えています。
しかし、上の統計から見ても分かるとおり、
欧米の先進諸国から比べてみると相変わらず女性の影が薄いんですよね。
僕は人生の半分以上を欧米で暮らしていますから、女性が社会に出て活躍しているのを見てきました。
グローバル化・国際化の影響で、日本でも今後女性がますます社会に進出してゆくだろうと思います。
これは皇室にも言えますよね。
ヨーロッパの皇室のほとんどが女性が帝位に就くことを認めています。
僕は8月9月10月と足掛け3ヶ月、日本に滞在しましたが、
その間にニュースで女性が天皇になれるように検討していると言うような事を聞いた覚えがあります。
しかし、まだ法律としては成立していないようですね。
男女同権は日本国憲法でも唱えている訳ですから女帝も認めるべきだと思いますね。
ネットで調べたら次のような記事に出くわしました。
『ジオシティー掲示板』
この諮問を受けて政府が法制化するよう進めているようです。
よい事ですよ。
現在の皇室の基礎を作った藤原不比等は“女帝”を多いに作り出す事によって、
何が何でも藤原氏に都合のよい“天皇家”作ったという過去があります。
それから比べれば、日本国憲法に基づいて“男女同権”と言う理由で女性も天皇いに就(つ)けるようにする、という事はしごく当然な事だと思えますね。
ここで、藤原不比等がいかに無茶苦茶な事をして女帝を作り出したかと言う事をちょっと見てみたいと思います。
ここで再度繰り返し書くにはわけがあります。
“もう知っているからいいよ!”という人は、ここのところを飛ばしてくださいね。
上の系図を見てすぐに気づくことは、この後、何百年と続く天皇家と藤原氏の係わり合いの原型が、ここで作られたと言うことです。
つまり、藤原氏は、娘を天皇に嫁がせて、そのことを背景にして外戚として権力を維持してゆくというシステムを作りあげたわけです。
この系図から見てもすぐに分かるのですが、きわめて不自然なことをしています。
それはどういうことか?
継承順位がどうしてもおかしいのです。
おばあさんから孫への遺産相続が極めてまれであるように、結局この皇位継承は、日本史上最初で最後になりました。
おそらくこんなことは世界史にも例がないでしょう。
どういうことかというと、日本には天孫降臨の神話があります。
これは実は、祖母から孫への譲位を神話化したものです。
このような天皇位の譲位は、日本史を見ると、ただ一度あるのみです。
697年に、持統天皇が孫の軽皇子(かるのみこ)に彼女の位を譲り、文武天皇として即位させています。
これは古事記が成立する15年前の事です。
つまり、この事実を“神話化”して古事記に書いたんですね。
もっと不自然なことは、文武帝が亡くなった後、誰が皇位を継承したと思いますか?
なんと、彼の母親である阿閉(あべ)皇女が元明天皇として即位しています。
普通は、継承する、あるいは遺産相続をするという時には、何かを次の代へ引き渡すわけですが、
この場合には、息子から母親へ継承しているわけです。
遺産相続の場合を考えてみると、よく分かると思うのですが、子から親へ遺産相続することなど、常識では考えられません。
他に王位継承者がいないのならばまだ話はそれほど不自然ではありませんが、天武帝の息子たちがいるにもかかわらず、上の系図で見るような変則的な天皇位継承になっているわけです。
もちろん、このようなことが本人たちだけで、なされているわけではありません。
必ず、時の権力者の意思が絡んできます。
この場合には、天皇位が天武天皇系の他の息子たちへ渡ってしまうのを極力避けています。
持統天皇が、もうかたくなに自分の血が通っている者にだけ、皇位を渡そうと躍起になっています。
なぜか?
もちろん藤原不比等がそのように望んでいたからです。
つまり、自分の思い通りになる天皇家を作ったわけです。
しかし、今回の女帝擁立の動きは、むしろ望ましい事でしょうね。
政治権力とは関係がない。
男の子を産まねばならないと言うプレッシャーを雅子さんから取り除いてあげるという意味でも人道的なことだと思います。
Realogに書いた上の記事に対して【MAXコーヒー】さんから次のようなコメントをもらいました。
(日本時間:11月22日午前1時50分)
Realogの【MAXコーヒー】さんから
【歴史馬鹿の僕にとって皇室は日本歴史博物館です。(その1)】へのコメントの投稿がありました
--コメントの内容--
初めまして=お邪魔します=
確かに、皇室というのは不可解なものです。
雅子さまについても大変遺憾に思っております。
別に反論するわけではございませんが、私は皇室は残し、男系を維持すべきだと考えております。
しかし、知識の浅い私には、この状況(男子が生まれない状況)をいかに対処すべきか検討もつきません。
側室を置くなんて絶対できませんし。
女系を認める皇室典範にはなるでしょう。
しかし、まだ方法が残っているなら、改正するまえに、模索する必要があると思っております。
当然の事ながら、いろいろな考え方があって良いと思いますよ。
でも、皇室を維持するために、皇族一人当たりに何億円という経費がかかっていますよね。
これはもちろん日本国民が納める税金でまかなわれています。
だから、もし、あなたが税金を納めているのなら、納税者としても無関心でいることは出来ない問題でしょうね。
僕の個人的な考え方を言えば、皇室は人道的にも財政的にも無くすべきだと思っています。
日本には国と県で合わせて累積財政赤字が700兆円もあるんですよ。
一人当たり赤ちゃんも含めて600万円の借金を背負っている事になりますよね。
皇族一人当たりに何億円も使う余裕が果たして日本にはあるのかどうか?
人道的な観点から考えたって、雅子さんは民間人として外務省に勤めていた方がよっぽど日本のため世界のためになったと思いますね。
プレッシャーを感じ、それが精神的障害にまでなっているということ事態が由々しき問題だと思います。
つまり、皇室のあるべき姿が時代から取り残されているように思います。
歴史的に見て、日本の皇室は英国の皇室と異なり、皇室独自の“意思”は持つ事を許されなかったんですよね。
それは、上の藤原不比等の事について述べたとおりです。
皇室は、皇室以外の人によって作られたに過ぎない。
つまり、日本の皇室は良い言葉で言えば“権力の象徴”、悪い言葉で言えば“お飾り”にすぎなかったのですね。
明治維新の時だって、権力の象徴として明治の元勲たちが天皇を担ぎ出したまでの事です。
皇室の“意思”で現在のような皇室を立ち上げたわけではありません。
だから、どういうことが言えるかといえば、皇室は日本の歴史とともに歩んでゆかなければならないということですよ。
現在の日本にとってもっとも理想的な皇室の形とは何か?
もはや“権力の象徴”ではないでしょう。
では“国民の象徴”か?
僕は“日本史の象徴”だと思っています。
だから、僕にとって“皇室”は「日本史」の“歴史博物館”なんです。
だから、皇室を現在的に残そうとするのなら、それがもっともふさわしい形だと僕は思います。
これはもちろん僕だけの考え方です。
このような僕の考え方を読んで吐き気を催す人が居るかもしれません。
でも、もっと国民の一人一人が考えてみるべきものだと思いますね。
人道的にも。。。
財政的にも。。。
今まで政府や国民がほったらかしにしておいたので
そのしわ寄せが雅子さんの“ストレス”になって現れている。
僕はそう思っています。
この記事を読んでくれたMAXコーヒーさんから、また次のコメントをもらいました。
デンマンさんお返事ありがとうございますこんなに書いていただけて嬉しく思っております
さて、残念なのですが、明日、私が率いるロックバンド「MAXコーヒー」のライブがありまして、今日は寝させていただきます。
後日、かならずお返事書かせていただきます先にお礼を申し上げたくコメントを書きました。
私はデンマンさんのような論理的な方を探していたので、これからも仲良くさせていただけたらと思います
とりあえず今日はこれだけ言わせてください。
デンマンさんがおっしゃることにはとても納得できます。
しかし、女系を認めるまではいたらないんです。
思想が邪魔するんです。
私は右翼なんだと感じました。
できるだけ思想を排除してお返事しますm(__)m
11/27 1:23
MAXコーヒー
こんにちは。
えーと、財政的な問題ですが、我々国民は日本国家という民主的で豊な国の恩恵を受けております。
税金払って当たり前。
官僚に税金の無駄遣いをやめろと批判する前に感謝すべきです。
天皇はもちろん、政治家、官僚には多くの給料をもらう権利はあります。
天皇は日本という国家を作った張本人なのですから。
人道的なことに関しては、天皇は国民ではないので、残念ながら人権は認められませんので、わがままは聞いてられません。
天皇がわがまま言うはずないですけどね。
と言ってみたものの、説得力をもちませんよね笑
残念ながら私は思想で天皇男系維持すべきだとしか言えないです。
デンマンさんのおっしゃることは間違ってません。
ただ、どんな理由があれ、男系を維持してきた事実があるのだから、その伝統、血筋を守るべきだと申し上げておきます。
これは実に価値観で別れますよね。失礼します
11/28 10:23
『あなたにとって皇室とは、どういうものですか?(その2)』より
MAXコーヒーさんは政治的な認識が甘いようですね。
もし我々国民が“日本国家という民主的で豊な国の恩恵を受けて”いるなら、世界一の借金は無いはずなんですよね。
MAXコーヒーさんは次のことをどう説明するのか?
日本には国と県で合わせて累積財政赤字が700兆円もあるんですよ。 一人当たり赤ちゃんも含めて600万円の借金を背負っている事になりますよね。
MAXコーヒーさんはまだ社会経験に乏しいから、税金を納めるという実感が無いのかもしれませんよね。
せいぜいアルバイト程度の労働をしただけなようですね。
この世界一の借金は政治家の怠慢なんですよ!
恩恵どころじゃない、むしろ我々日本国民は無能な政治家に愚弄されているようなものです。
その無能な政治家の尻拭いを我々国民が血税によってしなければならない。
こんな馬鹿げた話は他の先進国には無いんですよ。
MAXコーヒーさん、ロックばかりにハマってないで、少しは政治に目覚めてくださいね。
天皇は日本という国家を作った張本人なのですから。
MAXコーヒーさん、あなたは歴史に対する認識も甘いようですね。
僕が藤原不比等の横暴を、またまたこのページに書いたのは歴史をしっかりと学んでこなかったあなたのためですよ。
しっかりと上の記事を読んでみてください。
天皇が日本を作ったんじゃないんですよ。
藤原不比等が天皇家を作ったんですよ!
上の系図をもう一度じっくりと見てくださいね。
説得力をもちませんよね(笑)
正にその通りですよ、MAXコーヒーさん。
あなたの歴史的な知識と認識は中学校3年生レベルですよ。
またまた、憎まれ口をきいてしまいましたね。ハンセ~~!
僕は根が正直者ですからね、
思っていることはズケズケと言ってしまうんですよ。へへへ。。。
これが僕の偽らざるMAXコーヒー評ですよ。
あしからず。
MAXコーヒーさんは、元々、歴史や政治や思想というものには、あまり興味が無い人のようですね。
じっくりと勉強した人が書くような文章になっていませんよ!
MAXコーヒーさん、ロックにハマっているのもいいですよ。
でも、若いうちに歴史も政治も思想も、もっと幅広く勉強してくださいね。
皇室を論じる人が歴史を知らない。
あなたの文章から、“歴史”が見えてこない!
僕は“畳の上の水練”ということについて次の記事で書きました。
『“縦社会” と “横社会”』
MAXコーヒーさん、あなたの文章から伺えるのは歴史も政治も思想も、。。。すべてが“畳の上の水練”で終わってしまっているということですよ。
まだ、あなたは大学生なんだから、ロックにハマっているのもいいけれど、“畳の上の水練”にならないようにみっちりと歴史、政治、思想について勉強してくださいよね。
僕もまだ未熟者ですがね、あなたと違って歴史の事をもう30年以上も勉強し続けていますよ。
これからも勉強しますよ。
その僕の勉強の成果に基づいて書いたものが次のサイトですよ。
時間があったら覗いてみてくださいね。
『新しい古代日本史』
それからね、MAXコーヒーさん、あなたはコメントのつもりだけれど、あなたのようなコメントを付けるということは“批判”すると言う事なんですよ。
あなたは“批判”がどういうことなのかも知らない。
なぜなら、あなたは“縦社会”にどっぷりとつかっていたから分からない。
縦社会がどういうものか分からなかったら、上の僕の記事を読んでくださいね。
つまり、“批判する”ということは自分を語ることなんですよ。
だから、あなたの文章からこれだけの事が分かってしまうんです。
批判とはどういうものなのか?
良く分からなかったら次の記事を読んでくださいね。
『コメントを書くなら、しっかりと内容のある文章を書いてくださいね』
僕は作詞もすれば作曲もしますよ。
ただ有名じゃないだけですよ!
ネットが忙しくて最近やっていませんがね、これほどネットが忙しくなかった時には、ずいぶんとコンピュータを使って作曲・作詞に励んだものですよ。
今はソフトロックにこっています。
レンゲさんのためにソフトロックのテーマミュージックを選びました。
時間があったら聞いてみてくださいね。
『“愛の正体” と “レンゲのテーマ”』
これは僕が作曲した曲ではありませんがね、このような曲を作っていますよ。
これだけの事をネットでやっていますからね、そのうち有名になってしまうでしょうね。へへへ。。。
本当はね、もう“有名”になっていますよ!
2ちゃんねるでは愚か者の間ですでに有名になっていますよ!
“悪名”と言った方がいいかもしれません。
僕が有名になっているのを見たければ次のリンクをクリックして読んでみてください。
【毒舌】バークレーのブログのヲチ【自己増殖】
バークレーもデンマンも僕が使っているハンドル名です。
このスレッドを立ち上げたのはDEMPA55という成りすまし犯罪者ですよ。
この人物について読みたければ次のリンクをクリックして読んでくださいね。
『Identity Theft 身元詐称{みもと さしょう} なりすまし犯罪』
いろいろな事を書いてしまいましたが最後にMAXコーヒーさんのために、ここに貴重なリンクを貼っておきますね。
時間があったらぜひ読んでみてください。
僕は馬鹿が付く程の正直者です!
口が悪いですが、その分、心がきれいですよ。へへへ。。。
自分で言っているのだから世話が無いでしょう?ねっ?
藤原不比等が、これほどまでに無茶な事をした背景についてもっと詳しく知りたいのなら、次のリンクをクリックして読んでみてください。
藤原不比等さんは、ずいぶんと無茶苦茶な事をしたものですわね。
ええっ?
あたくしが何者かって、お尋ねですかあああ?
あああらァ~、あなたはまだあたくしに出会った事が無いのですかあああ?
あたくし、卑弥子ですよォ~
歴史サイトのマスコットギャルざますゥ。
ええっ?卑弥呼じゃないのかって。。。?
違いますよゥ。
卑弥呼さんは歴史上の人物です。
あたくしは歴史馬鹿のデンマンさんによって作り出されてしまったんですよ。
うひひひひ。。。。
とにかく、デンマンさんが、歴史の記事をもっと読んでもらうように宣伝しなさい、と言うものだから、こうしてしゃしゃり出てきてしまいました。
おほほほほほ。。。。
そういうわけです。
それでは、あなたにとって面白そうな記事でも紹介しますね。
お時間があったら読んでみてくださいね。
大岡越前とセックス [日本史]
大岡越前とセックス
「大岡越前とセックス」なんて、ショッキングなタイトルを書きましたが、大岡越前の性生活を特集する記事ではありません。
昨日、『雲とおく オンナは近し 枯れおばな』という川柳まがいのザレ句について書きましたが、その記事の中で次のような疑問とリクエストを投げかけました。
「それでお母さんは何と答えたの?」
「それが昔のことだからね、母と息子がセックスの話などするなんてとても考えられない。お母さんも、わが息子が大真面目な顔して、そんなことを尋ねられたものだから、さぞかしビックリしたに違いない」
「それで?」
「お母さんは、どのように答えようかと困ってしまった。昔の女性のことだから、その年になってもポッと頬を染め、うつむいてモジモジと火鉢の中に眼をおとし、火箸で灰の中に『の』の字を書いた」
「『母上、いかがなもので御座いましょうか?』と、息子は返事をさいそくする。お母さんは、うつむいたままモジモジと灰の中に『の』の字を書く。そのうち、頭脳明晰な新井白石には、ハッと閃くものがあった」
「どういうこと?」
「新井白石はおじぎをすると、『ありがとうございました』とお礼を言った」
「答えてくれたの?」
「そうさ。ちゃんと答えた」
「なんと言って?」
「言葉にだしては何も言わなかった」
「分からないわ。どういうこと?」
「『この母ありて、この子あり』 頭脳明晰な新井白石のお母さんだから、やはり頭のよい人だった。お母さんは、ちゃんと仕草で答えを表していたんだ。白石はちゃんと気付いた。あとでお母さんの部屋から出ながら、口の中でつぶやいた。『灰になるまでか!』」
「あたし、まだ分からないわ。どういうこと?」
「ジューンさんは、こういう風習には、あまり馴染みがないかもしれないけれど、日本では、たいてい人が死ぬと遺体を焼くんだ。だから、『灰になるまで』とは、“死ぬまで”という意味だ」
「それ本当にあった母と息子の対話なの?」
「出どころをインターネットで調べたけれど、ついに分からなかった。でも僕と同じように、この話をどこかで聞いたとみえて、ページに載せている人がいた。そのひとのページにはこんな風に紹介されている」
近代史解釈:
歴史は夜、つくられるとゆー
その昔、新井白石は母に問うた
「女性の性欲は、何時までありますか」
.....灰文字
「それだけ?」
「そう。この人のページにも、どこでこの話を聞いたのかは書いてない」
「デンマンさんはどこでこの話を知ったの?」
「若い頃、落語で聞いた覚えがある。もし、どなたか出どころを知っていたら教えて欲しい」
この記事をRealogのデンマンのブログ [2005-10-05 15:40]にも書きました。
そしたら10分後にRealogのメンバーであるBogyさんから次のようなコメントをもらったのです。
その早さに驚きました!
これほど早くコメントをもらったのは初めてのことです。
ん? 大岡越前? まさかあああ!
僕は実際そう叫んでしまったほどです。
あり得ない事のように思えたのです。
しかし、全く予期しなかった事とはいえ、わずか10分後にわざわざ無意味なコメントを書く人もあり得ないと思ったので、とにかく調べてみようと思ったわけです。
せっかく、ご親切にコメントを書いてくれたのです。無視するのは申し訳ない!
そのようなわけで、さっそくGOOGLEで検索してみました。結果は次のリンクをクリックしてみてください。(新しいウィンドーが開きます。)
GOOGLEで「大岡越前 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果
なんと、445件のヒットがあったんですよ。
ちなみに大岡越前を新井白石に変えて検索してみたら次の結果を得ました。
GOOGLEで「新井白石 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果
56件のヒットでした。
つまり、大岡越前にも新井白石にも同じようなエピソードがあるのですね。
しかし、検索結果から見れば、大岡越前の方が8倍も多いのです。
数字の上から見れば、もう間違いなく大岡越前なんですよね。
でも、僕はどうしても新井白石とこのエピソードを切り離しては考えられないのです。
このエピソードは新井白石とお母さんで無ければならないような気がするのです。
例えばですよ。寅さんは渥美清が演じなければしっくりきませんよね。
あの寅さんを加山雄三が演じたら全くイメージが壊れてしまいますよね。
寅さんは渥美清、渥美清は寅さん。 あなただって、そう思うでしょう?
僕の頭の中で、上のエピソードは新井白石と彼のお母さんでなければならなかった。
急に大岡越前と言われたって、僕の頭の中ではイメージを切り替える事ができないんですよね。
それほど新井白石と彼のお母さんが火鉢の灰の上に『の』の字を書くシーンが僕の脳裏に焼きついてしまっています。
そういうわけで、僕は大岡越前についてもう一度調べ直してみようと思い立ったのです。
この人はとにかく日本史の中では有名な人です。
日本人なら知らない人は居ないでしょう!
特に江戸市民の間には驚くほどの人気があった!
僕の調べた結果を次に示します。
1677年に旗本の家に生まれる。旗本大岡美濃守忠高の4男。
1686年(貞享3年)10歳のとき同族の大岡忠真(大岡忠右エ門忠真)の養子となる。
養父病死のため、1700年(元禄13年)家督を継ぐ。寄合旗本無役。
24歳で家督を継いで35歳で重大事件を審議・裁判する評定所の一員となった。
その後41歳で江戸町奉行に任命され、8代将軍徳川吉宗の命をうけてからは、裁判だけでなく江戸火消しの「いろは四十八組」を創設したり、小石川養成所などを開設するといった行政面での業績を残した。
1736年、寺社奉行。
1748年、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名に。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけである。
1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が没し、12月忠相も死去。
大岡越前といえば「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で知られ、特に2人の母親に子供を引っ張らせることで実の母親を決めたという話が有名です。
しかし、この話は大岡越前とは全く無縁の話なのです。実はこれは江戸時代「大岡政談」という小説に描かれたもので全くの作り話。
19年間の在任中裁判は3回しか行なわれず、そのうち大岡越前が執り行ったのは1回だけ!
忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみであり、現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代等他の奉行のものや中国の故事などに基づいている。
しかし、忠相が名奉行として人々に記憶されていたことの証(あかし)にはなっている。
つまり、名裁判官でなければこのような言い伝えが残らなかったと言うわけです。
これだけ調べて、僕は、なるほど~、そういうことだったのかと思い当たりました。
つまりですよ、大岡越前が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみなんですね。
加藤剛が演じる『大岡越前シリーズ』をテレビで見たことがありますか?
もし歴史に忠実に脚本を書いたら、あのシリーズはたった一回で終わりです。
ところが、あのシリーズの中では大岡越前が50回以上事件を裁いていますよね。
要するに、大岡越前と言う人は人気があった。だから、他の人のエピソードであっても、江戸市中のミーちゃんハーちゃんは面白そうなエピソードをこの人に結び付けてしまったのではないか?
新井白石は1657【明暦3年】に生まれて1725【享保10年】に亡くなっています。つまり、大岡越前よりも20年前に生まれています。
だから、この人のエピソードが庶民の間では人気があった大岡越前のエピソードとして受け入れられたのかもしれません。
僕にはそう思えるのです。
しかも、大岡越前と言う人は養子に入ったのですね。エピソードの中の母親は実母でないと面白みが半減してしまいます。
養母ではアカの他人ですからね、息子と実の母親の間で交わされるセックスにまつわる会話の緊張感・羞恥心が希薄になってしまいます。
このようなことを考えると、やはり、上のエピソードは新井白石と実母の間で交わされた会話ではなかったのか?
いずれにしてもBogyさん、貴重な情報をありがとうございました。
もし、このエピソードの出典が分かったらまた教えてください。
これを読んでいるあなたも、もし僕が書いたエピソードの出所が分かったら教えてください。
じゃあね。
天智帝は、後年、悪政を施していた。 [日本史]
天智帝は、後年、悪政を施していた。
天智天皇という人は天皇になるべくして生まれたような人です。決断力もあり、勇気もあります。これは前にも書きました。だからこそ、鎌足が、この皇子と共に大化の改新を成し遂げたわけです。しかし、当時の皇子は20歳になるかならないかと言う若さです。当然鎌足からいろいろと学ぶことも多かったでしょう。ただし、決断力もあり、勇気もある、しかも頭の回転の速い。こうなると、いつまでも、鎌足の風下についているというわけではない。独自の考えと、独自の政策を打ち出してきます。
おそらく外交政策の面で天智帝と鎌足は、後年になって意見が分かれるようになったでしょう。天智天皇は百済一辺倒だったようです。そこへ行くと鎌足は臨機応変です。それ以前の鎌足のやり方を見ても、これ以後の不比等のやり方、あるいは藤原氏のやり方を見ても、非常に考え方が柔軟です。とにかく一つの主義や、外交方針にあまりこだわらない。悪く言えば日和見主義です。仏教に反対していたと思ったら、いつの間にか仏教を取り入れ始めたように、どうしても、仏教が政権を維持してゆくのに必要だと見極めれば、さっそく仏教を取り入れます。ひと言で言えば、政治屋に徹しています。主義を持っているとするなら、それは六韜主義とでも呼ぶものです。それ以外にこだわるものがないように見えます。
いずれにしても、天智帝は、後年になってから、かなりの独断に走ったようです。もう鎌足の言うことを聞かなくなっていたでしょう。白村江の敗戦後は、百済から逃げてきた役人たちをどしどし登用してゆきます。余自信(よじしん)、憶礼福留(おくらいふくる)、鬼室集斯(きしつしゅうし)、谷那晋首(こくなしんす)、沙宅紹明(すたくしょうみょう)、答本春初(とうほんしゅんじょ)、木素貴子(もくそきし)、。。。天智帝の回りには、このような人たちが群がってくるわけです。鎌足の祖先も百済からやってきましたから、初めは、歓迎したでしょう。しかし、このような人たちがあまり増えてくれば、鎌足の影が当然薄くなってゆきます。そのことは、鎌足にとって、余り気分のよいものではないはずです。
しかも、敗戦後にやってきた百済人が山城などの築城の指導をしてゆきます。天智帝が構築しようとした大防衛網計画には、経験豊かなこれらの百済人の意見が重く用いられたとしても不思議ではありません。当然のことながら、政府内に百済からやってきた人たちの新たな派閥ができてきます。こうなると、彼らは、日本の政治と外交について大きな発言力を持ってきます。鎌足にとっては、ますますやりにくくなるわけです。
天智帝と、彼ら百済人の進めていることが、近畿周辺の豪族や、庶民の支持を受けていれば、鎌足としても、まだ我慢ができたでしょう。しかし、彼らのやっていることに対して、豪族や庶民が反対する。
しかも、大海人皇子(天武帝)を統領とする新羅派の、反天智運動がますます盛んになってくる。
こんな状態が続けば、いつか必ず変事が起こるでしょう。鎌足もただじっとしているわけには行きません。ここで例に因って、六韜(りくとう)の教えが鎌足の頭にいろいろと閃きます。そこで鎌足としては、大海人皇子と連絡を取って、天智帝打倒に向かいます。いずれ変事が起きるなら、そうなる前に、自分たちが政権をとろうじゃないかと。これが鎌足のこれまでのやり方でした。
天智帝と鎌足の対立
今まで、見てきたように、後年、天智帝の政策は、ほとんどすべてにおいて、豪族や民衆の反発を受けました。その当時、鎌足が、かりに天智帝を悪人として批判したとしても、ほとんどの人が、そのことに異存はなかったでしょう。事実、天智帝は豪族からは憎まれ、民衆の怨嗟の的になっていました。しかし藤原不比等には、天智帝が悪人だとは書けません。なぜか?
天智帝を悪人にすると、不比等の父親である鎌足までも悪人に仕立て上げなければならなくなります。それはなぜかと言うと、勧善懲悪の精神で日本書紀の事件の説明がなされているからです。つまり、まず聖徳太子は立派な人だったという前提があります。これをくずすことができません。当然聖徳太子の息子の山背大兄皇子も善い人だったとなる。そこで、この皇子を殺害した蘇我入鹿は悪人になります。その悪人・入鹿を暗殺した中臣鎌足と中大兄皇子は善人だとなります。
そういうわけで、天智帝を悪人に仕立て上げることができない。と言うことは、日本書紀には天智帝を殺しましたとは書けません。そう書くと、善人を殺した天武帝は悪人になります。これでは、天武朝が正統なる王朝であることを書いたことになりません。
天智帝を暗殺したことを明記して、しかも天武朝が正統なる王朝だと主張するためには、天智帝が悪人にならんければなりません。そうするためには、すべての話を初めから書き換えねばなりません。そうすると、聖徳太子を悪人に仕立て上げねばなりません。もちろん、そんなことはできません。
いずれにしても、天武朝が正統なる王朝だと言うことを、後世の人が納得のゆくように書き残す、という使命に燃えて不比等は両書の編纂に当たったわけです。その結果が、今われわれの眼にする古事記、日本書紀となって伝わっているわけです。
「でも、こんな昔の事を書いて、どうしようというの?」
現在のいい加減な政治の事をあなたに考えて欲しいからですよ!
ヴィジョンを持った政治家は日本列島改造論の「角さん」の後ぱったりと絶えて出てきていませんよね。
恐らく、あなたは次の記事が読みたくなるでしょう。
『日本を良くするということは分かるけれど、その変革のエネルギーはどこに?』
ところで上の記事のオリジナルは次のリンクをクリックすると読めます。
歴史に関心のある人はぜひ覗いて見てください。
興味あるリンクがたくさん貼ってありますよ。
http://barclay.e-city.tv/oldhist/temmu2.html
マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは? [日本史]
マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?
マキアベリ (Niccolo di Bernardo Machiavelli 1469-1527) の事は、多分知っていると思いますが、念のために、ちょっとひと言。日本の戦国時代に当たりますが、当時の、イタリアは、フィレンツェ市国(公国)の役人をしていた人物です。
1513年に、“The Prince” というタイトルの本を書きます。これはいわば、政権の座にある者のための、治世の書とも言われるもので、現在の考え方からすると、ひどくエゲツナイやり方で,国を治める方法が書いてあります。したがって,マキアベリズムと言う場合、たいてい、悪い意味に使われることが多いようです。
そういう本を書いたマキアベリもびっくりする、というのですから、藤原鎌足が愛読していた「六韜(りくとう)」という兵書がどのようなものであったか、大体想像がつくでしょう。たぶんマキアベリは、この兵書を読んでいなかったでしょう。私の知る限り、マキアベリが「六韜」を参考にしたとは、どこにも書いてありません。
この「六韜」のどこがすごいかと言うと、例えば、
「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」
「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」
「外交使節に隣国から優秀な人物が交渉にきたら話をまとめるな、愚鈍な人物のときにまとめろ、そうすればその人物が重んじられ優秀な人物は失脚し、隣国は弱まるだろう」
というわけで、政略、謀略を通して、時の政治をどのように操って行けばよいかということが書かれているマニュアル本だったのです。
これには、さらに、「八徴の法」という人物の本性を見抜く八つの方法がのっています。
1) 質問してみて理解の程度を観察
2) 追及してみてとっさの反応を観察
3) 間者をさしむけて内通を誘い誠実かどうかを観察
4) 秘密を打ち明けてその人徳を観察
5) 財政を扱わせて正直かどうかを観察
6) 女を近づけてみて、人物の堅さを観察
7) 困難な任務を与えてみて勇気があるかどうかを観察
8) 酒に酔わせてみてその態度を観察
エゲツナイといえば、確かに、その通りには違いないわけですが、人間の弱いところ、痛いところを見極めて、なかなか意味のあることを言っています。もちろん、まともなことも、たくさん書いてあります。くだらないことばかり書いてある本だとしたなら、藤原鎌足が見向きもしなかったでしょうし、結局現代まで、伝わらなかったでしょう。
この六韜(りくとう)は、周の太公望の撰とされ、「荘子-徐無鬼」という本に「金版六囁」(「囁」は「とう」で「韜」に同じ)と出ています。現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の6巻からなっています。ちなみにこのうちの「虎韜」から派生した言葉が、今日よく耳にする「虎の巻」という慣用語です。
また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書もあり、これは3巻からなる兵書です。これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の上で漢の張良に授けたと伝えられています。しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。老荘思想を基調にした治国平天下の大道から戦略・政略の通則を論述したものですが、日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。
ところで、このような一見エゲツナイと思われる藤原鎌足にもすばらしい女性との出会いがあったのです。
そのお話読んでみたいと思いませんか?
もし関心があれば次のリンクをクリックして読んでくださいね。
http://barclay.e-city.tv/oldhist/joe03.html
実の兄と妹の恋愛? [日本史]
実の兄と妹の恋愛?
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ますが、僕はそう思いません。なぜなら、天智天皇は女性に持てるようなタイプではなかったからです。
しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと私は信じます。この間人(はしひと)皇后は、中大兄皇子に無理やり連れて行かれたのだと私は思うのです。
その時、孝徳天皇は歌を詠みます。しかし、こんなひどい仕打ちを受けても、なおかつ歌心を忘れていないというところが、なかなかどうして、馬鹿にできない、立派な人だと感心させられます。その歌とは次のようなものです。
国文学者の吉永登さんは次のように解釈しています。
上の歌を見て、間人(はしひと)皇后が孝徳天皇を捨てたと解釈するのは間違いで、中大兄皇子によって捨てさせられたと解釈すべきです。そのように理解したうえで、上の歌をもう一度かみ締めて味わうと、次のようになるのではないでしょうか?
もし、孝徳天皇と中大兄皇子を見比べて、人情の機微が理解できるのは、果たしてどちらかと尋ねられたら、私は、疑問の余地を残さずに孝徳天皇だと答えます。
そういうわけで天智天皇と間人(はしひと)皇后の関係をもう一度見直す必要があるのではないかと思っています。
見直したいと思いますか?
こういうことは興味のない人にクダクダと書いても意味ありませんからね。
もし関心があったら次のリンクをクリックして読んでみてください。
http://barclay.e-city.tv/oldhist/joe02.html
古代、裏日本と表日本は逆だった。 [日本史]
古代、裏日本と表日本は逆だった。
古代、日本は、朝鮮半島を通して、中国から文化を吸収していたわけです。
現在の北京から日本への道筋をたどると、九州が日本の表玄関ということになります。すると、当然、現在裏日本と呼ばれている地域は、大陸に面しているわけで、古代においては、文化的に見て表日本になるというわけです。
大昔、まだ日本が大陸と陸続きであった頃を考えれば、このことは、もっとよく理解できます。地図で見ればすぐに分かるとおり、大陸と陸続きになっていた部分は、九州と北海道であり、当時一番の辺鄙な土地はどこかといえば、大陸から最もたどり着くのに時間がかかった、現在の東京ということになります。
では、なぜ、現在のように太平洋側が表日本と呼ばれるようになったのか?
まだ歴史的に、検証したわけではありませんが、次のようなことが関連していると思われます。
1) 徳川家康が江戸に幕府を築いたことにより、
政治の中心が太平洋側に移った。
それで太平洋側を表といった。
2)文化及び経済の中心が大阪だった。
直接太平洋に面してはいないけれども、
確実に、日本海よりは、太平洋に、水路でつながっている。
それで、やはり太平洋側を表と呼んだ。
3)日本海側は、冬は雪に閉ざされてしまう。
しかも日照時間が圧倒的に短い。
裏と言うときに、日本人の感覚では、
じめじめとした薄暗いところを連想する。
それに比べると、太平洋側は日当たりがよくって、
表と呼ぶのにふさわしい。
4)日本では、昔から、表玄関というのは、
日当たりのよい南側に設けることが多い。
したがって、そのような習慣ができた頃から南向きのほうを
表日本と呼ぶようになった。
5)幕末、文化人の目が、西洋に植民地化されようとしている
中国を飛び越えて、西洋に移っていった。
しかも同じ頃ペリーの来航という一大事件が起こった。
黒船に象徴される西洋文明に日本人が気づいて、アメリカの方向、
つまり太平洋側が表になった。
いつ頃から、太平洋側が、表日本と呼ばれるようになったかは、おそらく誰もはっきりと、何年からとは断定できないでしょう。いづれにしても、現在圧倒的多数が、太平洋に面している地域を、表日本と呼んでいます。その呼び方が正しいか正しくないか、ということはあまり意味がありませんが、古代日本を振り返って眺めるとき、このことは、非常に大きな意味を持ってきます。
というのは、現在でこそ、太平洋側に、東京を始めとして大都市が集中していますが、邪馬台国時代には、太平洋側には、ほとんど町らしい人間集団はみあたらなかったようです。せいぜい部落というよなものだったでしょう。ところがそれに比べると、日本海側には、当時の大都市が集中していました。特に、現在の、鳥取県・島根県のあたりには、一大国家と呼ぶにふさわしい大集落があったようです。
このことは最近の考古学上の遺跡発見などからも裏付けられています。
例えば、島根県斐川町の神庭荒神谷遺跡から出土した青銅器や、その隣町(加茂町ー加茂岩倉遺跡)から出土した全国最多の銅鐸39個などは、古代出雲王国を裏付ける十分な証拠といえるでしょう。
それに、因幡の白兎を始めとする伝説や、国譲り神話などは、圧倒的に、日本海側を舞台にしたものが多いのです。現在でこそ、東京へ日本全国の目が集中しているようですが、古代にあっては、邪馬台国にしろ、あるいわその後を引き継いだ大和朝廷にしろ、支配者たちの目は、まず間違いなく当時の表日本、特に現在の、島根県から新潟県あたりに向けられていたはずです。
というのは、このあたりに古代出雲王国を始めとする,
強国がお互いに鎬(しのぎ)を削っていたからです。
更に詳しい事は次のリンクをクイックして読んでください。
http://barclay.e-city.tv/oldhist/uraomote.html
そう言うわけですから、“裏日本” “表日本” を差別語と考えることは滑稽なんですね。
この愚かな差別語検閲については次のリンクをクリックして読んでください。
http://barclay.c-f-h.com/renge/tree.php?all=1674#1691
“大奥”の奥を知る [日本史]
“大奥”の奥を知る
「男子禁制」と言っただけで好奇の目を集めるのに十分なのが江戸城大奥です。ここには二百数十人の奥女中(御殿女中)がかもし出す隠微な妖気が漂っていました。
大奥は、将軍が政務をつかさどる「表」と、上下二つの御錠口によって厳重に隔てられ、小姓もこの御錠口までしかついて行けなかったのです。したがって、大奥に出入りできる男は、将軍と奥医師だけです。
もちろん、大奥の中心は御台所(みだいどころ;御台様)と呼ばれる将軍の正室(正妻)で、その次に将軍の側室・生母・乳母などの局(つぼね)が何人かいました。正室は普通、皇族や身分の高い公家の娘の中から選ばれました。
彼女らに使える奥女中の最上位は上臈(じょうろう)で、公家出身が多く、御台所に茶の湯・生花(いけばな)・香合(こうあわせ)などの遊芸を指導しました。そして100石、15人扶持(ぶち)、合力金100両という給金をもらっていました。
しかし、奥女中の中心であり、また大奥の実権を握るのは年寄(としより)です。大奥の総取り締まりの任に当たるのが大年寄でした。年寄は表の老中に該当し、詰め所に居て御用を決済します。70畳ほどの部屋を一人で占領し、50石、10人扶持、合力金60両という給料をもらっていました。上臈、年寄は正室などの寺社への代参もお勤めの一つです。年寄の中の御用掛は、外出の際、老中と同格の10万石の格式を持っていました。たいしたものです。
さらに詳しいことは次のリンクをクリックして読んでください。
大奥のさらに奥が明らかになりますよ。
http://barclay.c-f-h.com/erotica/oooku.htm